幽燈殿
宵の帳が深まるにつれ、後宮に香の煙が揺れ、紫煙の宴はなおも優雅な熱を帯びていた。絢爛たる衣を纏った妃たちが、笑みの裏にそれぞれの企みと警戒心を滲ませながら言葉を交わす。
その中央、皇太后に近い上座に座すのは、漆黒と紫の重ね衣を纏い、金細工の簪を揺らす女――高妃。
その美貌には気品があり、微笑むその唇からは一音一音が刃のように滑り出る。
「そういえば…皆様。最近、幽燈殿の近くで、妙な火の光を見たという噂を耳にしましたの。…まさか、あの場所を訪れた者など、おりませんわよね?」
唐突な一言に、場の空気が凍りついた。
「ゆ、幽燈殿…?」
「そ、それは…不敬ですわ、高妃様。幽燈殿は禁足の地…決して近づいては…!」
「何者かが、あの封印の前に立った形跡がある、と内衛が言っておりましたのよ」
「そ、そんな…」
妃たちは次々に顔を強ばらせ、目を伏せ、息を呑む。
高妃はその様子を楽しむように、扇で口元を隠しながら、あえてさらりと続けた。
「ですが、心配には及びません。幽燈殿には強い結界が張られております。……そう、冥月之書を封じるためのものですもの」
――冥月之書。
その名を耳にした瞬間、誰も気づかぬ場所で、わずかに風がざわめいた。
屋根の上。宴を見下ろすように、月明かりの下に黒い影が身を伏せていた。ふわりと尻尾が揺れ、黄金の瞳が鋭く細められる。
(冥月之書…あの女、やはり何かを知っている)
猫の姿の怜綾は、鋭敏な聴力を研ぎ澄ませながら、宴の中に交わされる全ての言葉を拾っていた。
(あの語り口…探りではない。警告か…それとも――威嚇…?)
高妃の声は、あくまで穏やかでありながら、確かな棘を含んでいた。彼女は「知っている」と、ただそれを妃たちに向けて静かに示したのだ。
その下では、茗渓がひときわ強張った表情で座している。怜綾はその姿を見つめながら、静かに考えた。
(幽燈殿が再び口にされる日が来るとはな…何が起こる――いや、何を仕掛けようとしている…?)
彼の毛並みを揺らす夜風が、月の光をはらみながら、今宵の不穏な予感を運び込んでいた。
月明かりが庭園の石畳を淡く照らす頃、茗渓は怜綾と二人、静かな離れの縁側に座っていた。
「私たちは注意しなければならない。高妃がなぜ幽燈殿の話を宴の席で持ち出したのか……それにはきっと狙いがある」
茗渓はそっと怜綾の手を握り、励ますように言った。
「怜綾、怖がらないで。あなたがいてくれるから、私は強くなれる」
怜綾は少し照れたように笑い、夜風に揺れる茗渓の髪を指でかきあげる。
「心配ない。君と一緒ならどんな暗闇も怖くない」
その言葉が二人の間に温かな絆を灯した。幽燈殿の謎は深まるばかりだが、二人は確かに手を取り合い、これからの困難に立ち向かう決意を新たにしたのだった。
しかし、その背後では、高妃の影が静かに忍び寄っていた。
「やっと、時が来たようね」彼女は冷たく微笑みながら、ゆっくりと幽燈殿の鍵を握り直した。
この動きが、さらなる波乱の幕開けとなることを、まだ誰も知らない。




