紫煙の幕が上がる
白く霞むような香の煙が漂う中、煌びやかな庭園に、後宮の華たちが集まっていた。絹の衣擦れの音、扇の陰から交わされる視線、そしてひそひそとした噂話──その中心に、ぽつんと茗渓が立っていた。
「うう……やっぱり来るべきじゃなかったかも……」
そわそわと視線を泳がせる茗渓。華やかな妃たちの中で、冷宮から呼ばれた彼女の存在は、まるで水に浮いた油のように浮いて見えた。しかも──
(“冷宮に畑を作った娘”とか、“実は男を囲っていた”とか……誰よ、そんな面白い噂流したの!?)
ちらちらと送られる視線に、茗渓は背筋を伸ばしながら、(内心はガクブル)頑張って前を向く。と──
「……!」
ゆるやかな裾が風を払う。艶やかに、優雅に、まるで一輪の牡丹のような美しさをまとった女性が、彼女の方へと歩み寄ってきた。
「──麗妃さま……!」
まるで少女漫画の一コマのように、煌めいて見えたその人影に、茗渓の目が輝く。
(き、来た!本物だ!原作通りの、いや、原作より美しいッ!!え?現実!?え、今私、生で麗妃さま見てるの!?)
興奮のあまり肩が小刻みに震え始める茗渓。
(……あやつ、浮かれてないか?)
近くの植え込みの陰、屋根の上でちょこんと座っている黒猫──怜綾は、鋭く耳をぴくりと動かし、茗渓を冷ややかな目で見ていた。
(あの顔……絶対“推しと遭遇したオタク”の顔だろうが。バレバレだ)
そんな怜綾の視線など露知らず、茗渓はドキドキを隠せないまま深く頭を下げた。
「本日はお招きいただき、ありがとうございます……っ!」
麗妃は、茗渓の手をそっと取ると、柔らかな笑みを浮かべた。
「いいえ。お会いできて嬉しいわ、茗渓さん。あなたがどんな方か、ずっと気になっていたの」
その声は、まるで鈴の音のように清らかだった。茗渓は、頭の中で拍手喝采のファンファーレが鳴るのを感じた。
(麗妃様、ほんとに天女!心が綺麗すぎて眩しい!推せる!何この幸せ空間!)
だが次の瞬間──
「……ふん、また妙な者を招いてくださったものですわね。麗妃様」
背後から、突き刺すような冷気が走った。振り返ると、趙妃が立っていた。目元に鋭さと毒気を滲ませたその佇まいは、まるで一流の悪役キャラ。
(…って、え?え?私より悪役オーラすごくない?ストーリー上そんな出番多くないのに!?どうしてこんな殺気!?)
心の中で慌てふためく茗渓。にこやかな麗妃と、氷のような趙妃、その間に挟まれて冷や汗を浮かべた彼女の肩が、ぴくぴくと震えていた。
(……ああ、これはまた面倒なことになりそうだな)
屋根の上から見守る怜綾が、尾をゆっくりと左右に揺らしながら、深いため息をついた。
朱と金で彩られた庭園。夜に映える百花の灯籠があちこちに灯り、風に揺れては仄かな影を地に落とす。紫煙の宴は、その名の通り、香が舞い、衣が揺れ、妃たちの思惑と囁きが淡く広がる──まるで一幅の幻想画のようだった。
そんな中、茗渓はというと──
(やばい、息の仕方忘れた……っ)
心臓の鼓動は鼓のように鳴り響き、喉はカラカラ。顔は引きつって笑っているつもりが、うっかり目が泳いでいた。
(ほ、ほんとにすごい世界……!皆、歩き方すら優雅すぎるんだけど!?え、背筋ってこんなにピンと立てるもんなの!?)
目の前では、瑠璃色の着物に身を包んだ麗妃が、他の妃たちに気品をもって微笑みかけている。その笑顔一つで場が和らぎ、周囲の空気さえ柔らかく変わる。
──その一方で。
(ん?なんか空気変わった?)
庭の端から、一人の女が現れた瞬間、さざ波のように周囲が静まった。薄墨色の衣を纏い、金の帯が月光を受けて鈍く光る。目元をやや伏せ、無駄な動き一つなく歩くその姿は、まさに”帝の影”と呼ばれるにふさわしい。
「……高妃……」
誰かの呟きが聞こえた気がした。
茗渓は思わず息を呑む。優雅にして荘厳、冷たくもなく、だが決して温かくもない気配。視線を向けるだけで、背筋にひやりとしたものが走った。
(この人が……)
茗渓の頭に、昨夜の怜綾の言葉が蘇る。
──「紫煙の宴で、高妃の行動をよく見ておけ」
(……そうだった。あの猫……いや、怜綾がそう言ってた)
しかし、「見ておけ」と言われたところで、彼女のどこをどう見ればいいのか、さっぱりわからない。高妃は何事もなかったように、涼やかな面持ちで一礼し、皇太后の隣に腰を下ろす。
その一連の動作すべてが、まるで計算し尽くされた舞のように優美だった。
「……すごい」
思わず茗渓は呟いた。隣の妃がちらりと視線を寄越すが、気にする余裕などない。
(何というか……ただの妃じゃない……この人、空気すら支配してる気がする……)
──その時だった。
「これより、紫煙の宴を始めましょう」
皇太后の声が、厳かに響いた。
鼓が鳴り、琵琶の音が優しく糸を張るように流れる。妃たちは一斉に姿勢を正し、庭園の空気がぴたりと引き締まった。
そして宴が、静かに幕を開けた──。
後宮の大広間に、気品と緊張が交錯していた。紫煙の宴が始まって間もないというのに、誰もがひそやかに息をのむ。高妃が、いつもよりも一層静かに立ち上がり、ゆるやかに言葉を紡いだ。
「お集まりの皆様、ひとつご紹介いたします。――こちらが、私の息子です」
扉が開かれた。
瞬間、広間の空気が変わる。優美で、それでいて荘厳な足音が、絹のように響き渡る。現れたのは、薄墨色の衣を纏った青年。髪は美しく結い上げられ、瞳には一片の迷いもなく、凛とした気迫を纏っていた。
「……怜張……?」
茗渓は、無意識に息を呑んだ。
あの町で出会った、放浪者のような、風にまかせて生きていたような男――その姿は、もうどこにもなかった。今、目の前に立っているのは、堂々たる皇子の風格を持った男。いや、それも当然だ。彼は、まぎれもなく「第二皇子」、怜張だったのだ。
(うそ……放浪人だと思ってたのに、まさか……皇子だったなんて)
動揺のあまり、視線を逸らすことさえできずに茗渓は怜張を見つめ続ける。
そして、ふと脳裏をよぎる――『麗妃の寵愛絵巻』の記憶。
あの物語の中で、麗妃に何度も言い寄りながらもふられ続け、しかし最後には皇帝・怜瑾と激しい恋のバトルを繰り広げた――放蕩の第二皇子。
(……まさか、その「恋敵」まで現実に出てくるなんて……!)
茗渓の額に汗がにじむ。自分はまるで、物語の渦中に飲み込まれていく登場人物のようだった。
そのときーー
「…蘭妃殿下、またお目にかかれて光栄です」
「えっ、蘭妃って…私のこと!?」
怜綾は屋根の上で、思わずひとつしっぽを打った。
(あやつ、動揺しすぎだ。)
それでも、茗渓は皇子の姿をした怜張の変貌に目を見張りながらも、精一杯の礼を返した。
「ご、ご挨拶が遅れました。第二皇子殿下…先日は、畑で…いえ、何でもありません!」
(隠し事が下手すぎる…)
そう怜綾が苦笑する間にも、宴は次の波へと進み始めていた。
その時、宴の華やかな雰囲気を切り裂くように、趙妃が鋭い目を麗妃に向けて声を荒げた。
「麗妃殿、ご自身の振る舞いをもう一度お考えになったほうがよろしいのでは?」
その言葉には明らかな嫌味と挑発が混じっており、場が一瞬、緊張に包まれた。
麗妃は微笑みを崩さず、静かな声で応じた。
「趙妃殿、そのようなお言葉は無用にございます。皆が和やかに過ごせる場を乱すことは、宮中に相応しくありませんよ。」
その大人の対応に、周囲の視線は麗妃に集まり、趙妃は一瞬言葉を詰まらせる。
茗渓は心の中で呟いた。
(この趙妃、もはや後宮一の悪妃と言われた私より、悪役感が強くない?)
そんな思いを抱きつつも、茗渓は宴の中心にいる高妃から目を離さなかった。
彼女の存在感と気配は、後宮の空気を支配しているように感じられたのだ。




