悪妃への転生
—恋なんて、もうしない。
そう言いながらも、美蘭は深夜まで布団の中でスマホを握りしめていた。
画面には、今まさにクライマックスを迎えた恋愛漫画『麗妃の寵愛絵巻』。
絶世の美女・麗妃が後宮という過酷な舞台で陰謀や嫉妬を潜り抜け、心優しき皇帝との愛を貫き通す物語。美蘭はこの作品に何度も救われてきた。孤独な夜も、失恋の痛みも、麗妃の凛とした生き様を見て乗り越えてきたのだ。
「麗妃、本当に素敵…茗渓とかいう意地悪女さえいなければ、もっと早く幸せになれたのに…」
ページをめくる手が止まり、ふと窓の外を見る。
ふわり——と、何かが視界を横切った。
——眩しい光、耳鳴り、急ブレーキの音。
次の瞬間、美蘭の意識は暗転した。
* * *
「……あれ?」
身体が重い。いや、そもそも身体の感覚がはっきりしない。意識が霞んだまま、美蘭は起き上がった。
周囲を見渡すと、そこには見知らぬ天井と、煌びやかな調度品、そして彼女を取り囲むように立つ女官たちがいた。
「蘭妃様……お気を確かに!」
「……蘭妃……?」
ぽつりと口にしたその名に、何かが引っかかった。
蘭妃。それは、麗妃の物語に出てきた、悪名高き妃嬪の名。
「ちょっと待って……私、死んだ? まさか……転生ってやつ?」
呆然とする中、頭の中に鮮やかによみがえるのは、さっきまで読んでいた『麗妃の寵愛絵巻』のストーリーだった。
蘭茗渓——絶世の美女と言われる麗妃に嫉妬し、何かと嫌がらせを繰り返し、最終的には妊娠中の麗妃に堕胎薬を盛って皇子を殺したとして処刑された、悪妃。
「そんな……私、よりによってその女に……!?」
言葉を失う美蘭。いや、今は蘭茗渓。
しかも、今の場面……そう、ちょうど茗渓が後宮入りするシーンじゃない?
「えっ、それじゃ私、まさに人生終了ルートじゃない!?」
心の中で叫ぶ茗渓(元・美蘭)をよそに、女官たちはぴたりと口を閉ざし、緊張に満ちた面持ちで彼女に傅いている。
「ねえ、ここってどこ? 皇帝陛下には? 私、入宮したばかりなんでしょ?」
何度尋ねても、誰も答えない。ただ、哀れむような目で彼女を見ている。
やがて、硬い声が告げた。
「……蘭妃様は、本日より“怜花宮”での生活を仰せつかりました」
「れいかきゅう?」
その名を聞いた瞬間、背筋が凍った。
『麗妃の寵愛絵巻』の中でも度々登場する、呪われた宮と呼ばれる場所。かつて妃嬪の自死や謎の死が相次ぎ、幽霊が出ると噂された冷宮——それが怜花宮。
そこはもう、誰の目にも届かぬ“処刑前の控えの間”。
「なんで!? 私、まだ何もしてないのに!」
叫んでも誰も答えない。
そして、連れていかれた怜花宮——
そこは、かつて華やかな妃が暮らしたとされる離宮の一角にある、今や忘れられた存在だった。
瓦は落ち、柱は歪み、風が吹けば天井から砂が落ちてくる。蔦は室内まで這い上がり、雨漏りの痕は天井をまだらに染めていた。
「これ……人が住む場所じゃないよね……」
唖然としながら、茗渓は崩れた戸口に立ち尽くす。虫の羽音と、どこからともなく漂う腐葉土の匂い。
しかし——
「……いや、こんなことでめげてる場合じゃない!」
気持ちを切り替えるように、深呼吸を一つ。
「どんな世界でも“衣・食・住”、この三つだけは絶対欠かしちゃダメ!」
それが、美蘭時代からのモットーだった。好きなものを着て、きちんと食べて、ちゃんと眠れる場所を作る。それだけで、人はちゃんと生きられると信じていた。
「よーし、まずは掃除から!」
とにかく手がかりはそこからだった。
使い物になりそうな箒を探し、破れた布を雑巾代わりにする。残った水桶に井戸水を汲み、日が沈むまで、ただひたすらに埃と格闘した。
柱の補強、障子の張り替え、ゴミの山を庭の隅にまとめ、どうにか風の通る部屋を確保した頃には、日がとっぷりと暮れていた。
——けれど、それでも足りなかった。
草を刈り、床板を踏み抜かないように修理し、雨の入り口を塞ぎ、寝床にできる布団を干す。
その作業に、なんと丸二日かかった。
疲労困憊ながらも、どうにか“住める場所”へと変貌を遂げた怜花宮の一角。
「……ふぅ、ようやく人間らしい生活ができそう」
腰に手を当てて、達成感とともに息をつく茗渓。
しかしその夜——
どこかから、かすかに猫の鳴き声が聞こえてきた。
「……猫?」
最初は気のせいかと思った。
でも、それは確かに聞こえる。弱々しく、でも切実に、まるで「誰か気づいて」とでも言うように。
「もしかして、誰かが……?」
灯りを手に、音のする方へと足を運ぶ。敷地の奥、崩れかけた離れの中庭。草に埋もれた石畳をかき分け、音のする方を辿ると——
「……!」
そこにいたのは、一匹の黒猫だった。
古びた回廊と回廊の間、朽ちた木材に挟まれ、動けずにいる。片方の足には傷があり、擦りむいたように血が滲んでいた。
「ちょっと、こんなところで……! 待って、今助けるからね!」
慌てて瓦礫をどけ、細身の身体を慎重に引き出す。猫は警戒しながらも、どこか諦めたように目を伏せ、震えていた。
「大丈夫、大丈夫だよ……私も、ここで迷子みたいなもんだから」
茗渓はそっと猫を抱き上げ、自室へと戻る。
それが、自身の運命を大きく変える出会いになるとは、このときまだ知らなかった——




