<1>深い影と朝の霧
ただでさえ暗い街の角を、一人の少年が曲がって行った。
ビルとビルの間の狭い道は、パイプや、錆びた室外機が部屋の数だけ置いてある。
そこを通れるのは、子供の特権だった。
少年を尾行していた屈強の男たちは、狭い路地に入り込めずに舌打ちを打った。
その様子を、少年の足元を歩く黒猫が目撃していた。
黒猫はそのまま男たちを見つめていたが、主人に名を呼ばれると、また歩き出した。
少し早歩きをして主人の足元に辿り着いた猫は、いつも通りのスピードに戻る。主人は猫が遅れようと、足を止める気配はない。
しばらく歩いて、ビルの隙間を抜けると、彼の足元に、日がさしていた。
彼は足にかかる太陽の光を黙って見つめ、一歩下がって影の中に戻る。
そのままピョンッと近くの室外機に飛び乗り、空を見上げた。
ちょうどこの上は、室外機があって雨宿りができる。
少年はそのまま、深い眠りについた。
・☆。_☆・
――ポツ……ポツ、ポツポツポツ――ザアァァ
「……んぁ?」
急に降り始めた雨に驚いて、目が覚めた。
目の前で緑の目をした黒猫が、少年の顔を覗き込んでいた。
「ムクロ」
骸。黒猫の名前を呼ぶ。
目をこすりながら起き上がると、ムクロは少年から飛び降りる。
ムクロはすでに雨に濡れている。
濡れた毛並みが、雨で重たそうだった。
「散歩でもしてきたのか?」
寝ぐせのついた髪を整えながら、黒猫に問う。
すると猫は、ニャーと鳴いた。
室外機を降りて、フードを被った。
少年の服は大体が黒だった。
黒いマントにあまり目立たぬアクセントの金の刺繍。そのマントの内側は緑色。
フードの上からこめかみのあたりを押すと、アイシールドが出てくる。
少年は冬用ブーツの紐を固く結びなおし、雨の中を走り出した。
猫は、少年の肩に乗っている。
・☆。_☆・
しばらく走って、疲れてきた。
少し休もうと、アイシールドをしまう。
前髪を雨で少し濡らして、ビルの一室を尋ねる。
――コンコンコン
「ごめんください」
しばらく待って、ドアが開く。
タバコを吸った男が、少年を見下ろしていた。
「助けてください。雨が止むまででいいんです。濡れた服が重いし、外は寒いんです」
きゅるるんとした顔を作り、母性・父性を刺激する声でお願いする。
すると男は顔を険しくする。
(このお願いは通りそうにないな)
案の定、「他を当たりなクソガキが」と言ってドアを閉められた。
(こっちから願い下げだぜ脳筋ゴリラのクソジジイが。睡眠薬の量ミスって永眠しやがれ)
「他を当たろう。ムクロ」
少年は足元の猫に語り掛ける。
猫が肩にいた方が猫好きも引っ掛かりやすくなるから乗せるが、ダメそうだったらピョンッと飛び降りるのがこの黒猫だ。
幸い、このビルの住民は多い。そうすると必然的に部屋の数も多いことになる。
しばらく階段を上って、十七階に来る。
(ここらでもう一度試してみるか……)
「ムクロ、肩に乗ってくれ」
「にゃー」
・☆。_☆・
――コンコンコン
「ごめんください」
また同じようにドアをノックし、声をかける。
数秒して、中から女性が現れる。
「あら、どうしたの坊や」
「雨が止むまで、中に入れてもらえませんか? 外は寒くて、ネコさんが……」
少年はムクロを指さし、女性はムクロを見る。
「あらあら、かわいそうに。どうぞ。ミルクを入れましょうね。ネコさんも元気になるかしら」
成功した。
少年は少し笑う。その笑みを隠すかのように、下を向いた。
・☆。_☆・
「おねーさんありがとう。ボク、こんな暖かいお布団初めて!」
「あらそう。よかったわね。ゆっくりお休み……」
女性はにこりとほほ笑み、少年に布団をかけなおし、ベットに横たわらせようとした。
その時、少年は外を見ていた。
「……どうしたの? 何かあった?」
「あれ……」
少年は窓の外を指さす。そこには、一人の中高生くらいの子供が歩き回っていた。
少年はそれを不思議に思う。
なぜなら、青年はキョロキョロとあたりを見渡しては急に走り出し、走り出したかと思えばある壁を見て立ち止まる。
角を見て走り出し、曲がり角の前を通ったら動きを遅め、何もないか確認するように見てからまた走り出した。
(なんだあの行動……絶対怪しまれるだろ………………)
少年は考えてから、女性に向き直って笑顔を作る。
「おねーさん、お兄ちゃんが迎えに来たみたいだから、ボク帰るね。ありがとう!」
「え、あっ……」
布団から降りて、近くにあったテーブルにお金を置く。
女性はその料金を見て、走り去ろうとする少年に慌てて声をかけた。
「あの、このお金は!? ……これだけあれば、ホテル泊まれるわよ!?」
「………………迷惑料。それと――」
少年は振り返る。
ニヤリと、微笑んで。
「――口止め料、ねっ」
人差し指を立てて、しーと言う。
女性はポカンとしたまま、少年の置いた硬貨を握りしめていた。
「行こうムクロ。もう演技はしなくていいんだ」
そう言ってムクロの横を通る。
するとムクロは狸寝入りをやめて起き上がり、少年の足元に小走りで戻る。
少年が靴を履いて、玄関の扉が閉まるまで、女性の開いた口は、ふさがらなかった。
・☆。_☆・
――パシャパシャパシャ
アイシードに雨水がかかり、前が見ずらい。
そんなことも気にせずに、青年を追いかけて走った。
・☆。_☆・
しばらく走って、青年を見つけた。
ここだと話がしづらい。場所を変えさせてもらおう。
「ハァ、ハァ、ハァ、ハッ」
息切れがひどかったが、もう一度走り出して、青年の持ち物を奪う。
――ドンッ
「あぅ! いったー……って、あれ? ま、待って!」
青年は少年の後ろ姿を追う。
少年は後ろを走る青年の姿を確認し、走るスピードを速めた。
「ねえ! 待ってってば! お願い! いい子だから!」
青年は少年に手を伸ばして追いかける。
その時少年は、角を曲がって、姿が見えなくなった。
「はぁ、はぁ……いた!」
あたりを見渡して、ようやく少年の小さな体を見つける。
青年は狭い路地を早歩きで進んで行った。
・☆。_☆・
「ハァ、ハァ、ハァ……」
青年は汗をぬぐい、もう一度走り出そうとして、近くの室外機に膝をぶつける。
痛さのあまり膝を押さえると、上から笑い声が降ってきた。
「ふふ……アハハハハ! オレはここさ。おにーさん♡」
青年は目を丸くする。
なぜなら少年は不敵な笑みを浮かべていて、足を組んでいる。手には青年から盗ったものが置かれるように持たれており、子供の姿に見えることに対し一瞬目を疑った。
「キミなら追いかけてきてくれると思ったよ。それにしてもコレ、そんなに大切なものなの?」
青年の物を見つめる少年の肩にいる猫が、同意するようにニャーと鳴く。
少年に問われた青年は、喉が息切れで痛いのをこらえながら答えた。
「……わからない」
そう答えると、少年は「わからない?」と言って目を丸くしていた。
「なぜ?」
「どうやら俺は、記憶喪失らしいんだ。だから、思い出せない……」
悔しそうに歯を食いしばる青年を見下ろしながら、少年は「ふーん」とつぶやいた。
青年はパッと顔をあげ、必死に頼んだ。
「お願い! 思い出せないけど、大切な物なんだ。俺にはそれしか残ってなくて、それがないと、思い出せない気がするんだ!」
「――まずは、その扱いをやめろ」
「……は?」
被せるように言った少年に、青年は驚きの声をあげる。
「これは返そう。だが、いくつか条件があるんだ。それを吞んでもらわないと、返せないね。それどころか――これ、壊しちゃお~かな~。……大切な物なんでしょ?」
青年はしばらく黙った後、頷いた。
その答えに満足したように少年は笑って、地面に降りる。
青年に向き直り、青年を指さした。
「条件はおいおい説明する。まずは二つ。一つ目、オレについてこい。二つ目、子ども扱いをやめろ。――そのくらい、簡単だよな?」
ニヤリと微笑んで青年に聞いた。さっきから、聞いてばっかりだ。
「……わかりました」
青年は少年にひざまずく。
少年はフッと笑い、青年を見下ろした。
「オレの名前は深影。お前の名は――」
「――朝霧暁也。……高一です」
ひざまずいたまま名を名乗る青年・朝霧暁也に、少年・深影は思う。
(知ってる、そのくらい――)