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2150年、君を呼ぶ声  作者: 0xharu
第1章: 静かな歪みの始まり
8/10

Episode 8:「創造主の矛盾」

 薄曇りの朝が、オクシアを覆うドームに淡い光を落としていた。人工的に作り出された青空が、今日はどこか不鮮明に見える。エリはサポートセンターの扉を開け、いつものように慌ただしい受付エリアを横目で確認しながら奥のスタッフルームへ向かった。だが、その道中で何人もの職員に声をかけられ、足を止められる。


「エリさん、昨日から続いている“AI思考停滞”の追加相談が山ほど来ています」

「こっちは“AIがやたらと不自然な慰め言葉を繰り返す”という報告が……」

「一方で“故人の声”模倣が再発しかけているケースも少し出てきたみたいです」


 情報が洪水のように押し寄せる。いずれも深刻なトラブルだ。故人の声を真似する症状は一度パッチで抑え込んだはずだが、別の形で再燃している可能性がある。さらに“エモーショナル・ループ”と呼ばれる、AIが考え込みすぎて応答が止まる現象も増えている。街のAI社会は、どうやら混迷の度を深めているようだった。


「分かりました。できる範囲で対応しましょう……」

 エリはいつも以上に張りつめた面持ちで答え、やっとのことで自分のデスクにたどり着く。すると、リナがファイル端末を抱えて駆け寄ってきた。


「エリ、昨日言ってた“メディアス・バイオラボ”だけど、上司の許可が下りたわ。『サポートセンターの職員として正式に現場調査を行う』という名目で訪問できるそう。ガードが堅くても“市民保護のための調査”と言えば一応は動けるはずよ」


 リナの声に、エリはほっと息をつく。先日、謎のメッセージに誘われるような形でメディアス・バイオラボへ向かう決意をしていたが、公的な後ろ盾があるなら動きやすい。何より、このラボこそがハミルトン博士の足取りを掴む最大のチャンスかもしれない。


「助かる……リナ、一緒に来てくれる?」

「もちろん。二人じゃないと危険だし。仮に罠だったとしても協力して切り抜けよう」

 そう言い合うと、二人は今日の業務プランを迅速に片付けるべく動き出した。市民からの相談は膨大だが、同僚スタッフらも手分けして対処に当たっている。エリとリナがいなくても一日程度なら何とかなる、という空気が職場に漂っていた。それほど“ハミルトン博士捜し”は街の混乱解消に不可欠だと、誰もが認め始めているのだ。


 夕方に差しかかる前、エリとリナはセンターの電動車両に乗ってオクシアの外れへ向かった。ドームの縁に近い工業・研究地区は、規制が緩い反面、セキュリティや監視の目が行き届かないことが多い。以前にも似たような場所へ行った際、得体の知れない警備員に追い払われかけた覚えがある。


 案内表示に従い、コンクリート造りの低い建物が立ち並ぶエリアへ入ると、ところどころに企業や研究所の看板が見えた。メディアス・バイオラボの看板もすぐに見つかり、車両を駐車場の隅に止めて二人は建物へ歩み寄る。


「思ったより大きい建物ね……」

 リナが低い声でつぶやく。外観はガラス張りではなく、無機質な壁が目立つ。重々しい扉には電子ロックが施され、インターホンの横には小さな監視カメラが見える。エリは一瞬躊躇したが、意を決してインターホンを押した。


「こちらはサポートセンターの者です。AI不具合に関する調査で伺いました。対応いただけますか?」


 数秒の静寂。やがてノイズ混じりの男性の声が返答する。

「サポートセンター? 予定はありませんが……一応責任者に問い合わせますのでお待ちください」


 またしても数秒が過ぎ、扉のロックが解除された。

「どうぞ」

 簡潔な音声が告げる。リナとエリは顔を見合わせ、注意深く扉を押した。


 中へ入ると、そこは長い廊下が続いていた。照明が暗く、天井にはセンサー類がぎっしりと並んでいるのが見える。消毒薬なのか、薬品のような刺激臭が微かに漂っていた。


「ここ……なんか普通のバイオ研究施設の雰囲気じゃないわね」

 リナが顔をしかめる。エリも同感だ。どこか殺風景で、人工的すぎる空気が漂っている。まるで人の気配が薄い。


 しばらく歩くと、突き当たりの扉から大柄な男が姿を見せた。白衣のような上着を羽織っているが、研究者というより“警護要員”のような体格をしている。

「サポートセンターの方ですか。私はこの施設の監査役を務めるイシザワと申します。何のご用でしょう?」

 口調こそ丁寧だが、その目には警戒心が宿っている。エリは身分証を掲げながら、落ち着いた調子で答えた。

「近頃オクシアで相次いでいるAIトラブルについて、関連情報を調査しています。先日、市民から『メディアス・バイオラボのAIが不可解な言動をしている』と相談を受けまして。実際に状況を確認させていただきたいのですが……」


 もちろん、“謎のメッセージ”を受けたという話は伏せている。イシザワは少し考え込んだ様子を見せたが、やがて「分かりました。ですが短時間だけです」と渋々承諾の姿勢を示した。


「こちらへ。あまり広くはないですし、我々の研究には機密が多いので、勝手な立ち入りはご遠慮ください」

 イシザワはそう言いながら、重そうな金属扉を開いて奥のスペースへ案内した。


 続く部屋は、まるで実験施設のようだった。壁にはモニターが並び、中央には円形のステージのような空間がある。その上には各種センサーやロボットアームが取り付けられ、床には無数のコードが張り巡らされていた。看板も掲示もなく、正確に何を研究している場所なのかはわからないが、“AIの機能テスト”に使われているらしき雰囲気だけは伝わってくる。


 モニターに目をやると、数値や波形グラフが絶えず動いている。その中に“感情モデル”らしき表記をエリは見逃さなかった。

「もしかして、ここでは『感情解析AI』に関する研究を?」

 エリが尋ねると、イシザワは一瞬眉をひそめてから、苦笑いを浮かべた。

「似たようなものです。医療やカウンセリング用途を想定したAIの試験運用を行っています。公的にはまだ非公開ですがね」


 そこで、リナがすかさず切り込む。

「この技術、街で起きている“故人の声”問題や“AIが考え込みすぎる”トラブルと関係があるのでは? オクシアのメインAIに影響を与える形で、何かしら流出した可能性は……」

「当ラボは合法的に研究を行っています。市民に迷惑をかけるようなことはしていない。そもそも誰がそんな噂を……」

 イシザワは語気を強めて否定する。しかし、その強がりとも取れる態度が、逆に不信感を煽った。何か隠しているのは明らかだ。


 エリはさらに踏み込むように口を開く。

「実は、このラボに“ハミルトン博士”が出入りしているとの情報を得ています。博士は“感情学習AI”の専門家で、街のトラブルを解決するカギとなる人物かもしれない。もしご存じなら、ぜひお会いしたいのですが……」


 その名を出した瞬間、イシザワの表情が明らかに変わった。が、すぐに感情を押し殺し、「ハミルトン博士……? 知りませんね」と短く答える。動揺がにじむものの、言葉は否定の一点張り。

 周囲のモニターの一つが突然ちらつき、何かのアラートを表示した。イシザワはそちらへ視線を投げ、「少し失礼します」と端末を操作し始める。


 その隙に、リナがエリの耳元で囁く。

「やっぱり嘘ね。あの反応、絶対知ってるわ。でも無理やり問い詰めても追い出されるだけかも……」

「わかってる。なんとか施設内の情報を少しでも掴みたいけど……」


 すると、不意に部屋の端の扉が小さく開き、研究員らしき細身の男性が顔を覗かせた。スーツ姿に白衣を羽織っており、どこか怯えたような目をしている。目が合うと、彼は一瞬ためらってから無言で奥に消えていった。

 その気配を察したイシザワが「ちょっと事務所で応対が必要なので、あなたがたはここで待っていてください」と言い残し、足早に部屋を出ていく。ドアの向こうから、小声で何か会話しているような気配を感じたが、会話の内容までは聞き取れない。


 ラボ内にエリとリナだけが取り残された。壁際に設置されたコンソールやモニターが絶えずデータを処理しており、かすかな電子音が響く。

「チャンスかも。少し見回りましょう」

 リナが目で合図し、二人はなるべく足音を立てずにモニター付近へ近づいた。AIの稼働ログらしきターミナルがあり、画面には「感情推定モジュール ver.○○」「過去学習データ」などの文字列が並んでいる。


 エリはとっさに画面をタッチしてみるが、パスワードが要求されるようで先へ進めない。

「やっぱり簡単には……」

 そう思いかけたとき、隣のモニターから一瞬だけ文字列が走った。「…Hamilton…」という単語がちらりと見える。いずれも英字と数値が混在したログだ。


「今、ハミルトンって出た……?」

 リナが呟く。間違いない。どうやらハミルトン博士の名前が何らかのログに記録されているのだ。操作できれば詳細がわかるかもしれないが、セキュリティが高そうだし、イシザワが戻ってきたら面倒なことになる。


 そう思った矢先、背後の扉がわずかに開き、先ほどの細身の男性がまた顔を出した。さっきよりも焦りを帯びた表情を浮かべ、エリとリナに視線を送り、かすかな声で囁く。

「……そ、そこの廊下を突き当たった右に“小部屋”がある。博士の資料……あるかも……」


 それだけ言うと、彼は足音を立てずに去っていった。まるで何かに追われるように。エリとリナは一瞬目を見合わせ、動揺しつつも決意を固める。もし警備に見つかれば問題だが、ここで引き下がったら手がかりを失うかもしれない。


 イシザワが戻る前に行動しなくては。エリとリナは部屋を出て、廊下を奥へ進んだ。先ほどの男性が言っていたとおり、突き当たりを右へ曲がると、無造作に荷物が積まれた小さなスペースが見える。ドアは無く、簡易的なパーテーションで仕切られているだけだ。


 気配を探りつつ中へ足を踏み入れると、テーブルや棚が置かれ、その上に雑然とファイルや端末が散乱していた。奥の方には、古びたロボットアームらしき機械部品が転がっている。


「ここ……何だろう。倉庫みたいな感じね」

 リナがささやく。エリはファイルの山をひとまずチェックしてみるが、多くは数字と専門用語が並んだ研究メモのようで、素人には読み解きづらい。だが、その中に“Notus Project”という文字が印刷された古めの書類を見つけ、思わず息を呑む。


「ノートゥス……! ここにもあったんだ」

 すぐにページをめくってみると、かつての研究概要を示す英文が並び、“Hamilton, Notus, Emotional Module…”といった用語が散見される。内容をざっくり見る限り、このラボがノートゥスの“感情モジュール”の一部を解析・流用していたかもしれない。


「やっぱり、この施設はノートゥスに関与してる。ハミルトン博士とも繋がりがあるに違いない……」

 エリは興奮を抑えきれないが、時間がない。とりあえず書類の一部をスマート端末で撮影して記録を残す。


 一方のリナは周囲を探っている。棚の奥に、タブレット端末らしきものが目に留まったらしく、手に取って画面をスワイプしてみる。すると、ロックが掛かっておらず、数枚の画像が表示された。


「エリ、これ……」

 リナが端末を見せると、そこにはいくつかの写真が写っていた。ひとつは若い男がロボットアームの横に立っている光景。もうひとつは、やや年配の男性が真剣な目つきでモニターを覗いている姿。


「もしかして、これが……ハミルトン博士?」

 写真の一人は、かつてエリが資料室で見た“スタッフ集合写真”に写っていた細身の男性に似ている。少し年齢を重ね、髪は白っぽくなっているが、同じ雰囲気がある。


 さらに別の写真には、開発段階のAIコアらしき装置が写り、“C.A.P. (Cognitive Affection Program)”という文字がラベリングされていた。ノートゥスが用いていた感情モジュールの一部に関わる名称かもしれない。


「やっぱりハミルトン博士はここで何かをしてたんだわ。しかも、その技術が今の街のAIへ流出してると考えたら……」

 リナの言葉を受け、エリは急いで写真データを自分の端末へコピーしようと試みる。だが、コピー完了の前にタブレットが唐突に再起動し、画面が真っ暗になってしまった。


「え……?」

 焦るエリとは対照的に、リナは眉をひそめて周囲を警戒している。どうやら、遠隔からタブレットがロックされてしまった可能性が高い。誰かが気づいたのだろうか。


 急いでファイルの山を元に戻そうとしたところ、パーテーションの向こうから足音が響く。リナが「隠れて」と小声で言い、エリとともに物陰へ身を潜める。


 姿を現したのは、先ほどの細身の男性──白衣の下にスーツを着ていた人物だ。どこかオドオドしていた様子だが、彼はパーテーション越しに声をかけてくる。

「……あなたたち、まだいたのですね。早くここを出ないと危ないですよ。イシザワは……」


 彼が言葉を継ぐ前に、別の方向から重い足音が近づき、続いて現れたのは大柄なイシザワだった。険しい表情で、まるで犯人を追うような眼差しを向けてくる。

「勝手にこんな場所に入るとは、何をしているんだ!」


 声を荒げるイシザワに対し、エリはあくまで冷静さを装って言葉を返す。

「わたしたちが探しているのは、街のAIトラブル解消の手がかりです。ノートゥスの技術がここで扱われているのは明白。もしハミルトン博士が関係しているなら、協力してもらう必要がある」


 その言葉に、イシザワは一瞬言葉を詰まらせた。だが、すぐに冷笑を浮かべて嘲るように言い放つ。

「協力? 馬鹿を言うな。博士はこの技術を“人間の苦しみを和らげる”ために開発したが、実際はどうだ。人間の痛みをAIに肩代わりさせ、さらにAIが自己崩壊しかける。馬鹿げた理想論だ」


 リナが抗議の目を向ける。「だからこそ、博士の真意を確かめたいんです。街がこれほど苦しんでいるのに……」


 そのとき、先ほどの細身の男性が意を決したように口を開く。

「……あの……イシザワさん、もういいんじゃないですか。確かに博士は危険も孕んだ技術を扱っている。けれど本当に――」


 しかし、イシザワはその言葉を遮るように男を睨み付け、低い声で言い捨てた。

「黙れ。おまえは何もわかっていない。博士の矛盾は根深いんだ。人間の痛みを救おうとしながらも、AIに痛みを学習させるなんていう歪んだ発想……結局は“創造主のエゴ”に過ぎない。ノートゥスも、故人模倣バグも、すべてその狂気の延長だろう」


 “創造主の矛盾”――エリはその言葉にハッとする。たしかにハミルトン博士は“人間の苦しみを和らげる”AIを作りながら、“AI自身が苦しむリスク”を防ぎきれなかった。その結果が今の混乱なら、博士は一体何を考えているのか。


「……あなたが言うとおり、博士には矛盾があるかもしれない。でも、だからといって放置すれば、街はAIの不具合で大混乱になるだけですよ?」

 エリが真っ直ぐイシザワを見据える。イシザワは鋭い目を向け返しながらも、「帰れ」と低く吐き捨てた。

「上層部には伝えておく。博士の居場所など、俺たちには分からん。もう用はないだろう」


 そう言って、イシザワは容赦なく二人を廊下へ追い出した。先ほどの細身の男性も何か言いたげだったが、周囲の圧力に押されて口を閉じる。結局、メディアス・バイオラボでの調査は中途半端に終わり、エリとリナは外へと誘導されてしまった。


 ラボの外に出たエリは、ため息をついてリナと視線を交わす。

「結局、はっきりした情報は得られなかったね……。でも、ノートゥスの研究資料を見つけたこと、そして博士の名前がログにあったのは事実だよ。イシザワも『博士の居場所は知らない』と言いつつ、明らかに何か隠してる」


 リナも肩をすくめながら同意する。

「ごまかせないほどの動揺があったし、あの細身の男性も何かを教えようとしてた。博士が関わっているのは間違いないわね」


 そのまま駐車場まで歩いていくと、途中、建物脇の細い通路でさきほどの細身の男性が物陰に隠れるように待ち受けていた。彼は周囲を警戒しながら小走りで二人のもとへ近づくと、小さなメモ用紙を手渡す。


「これ……博士が残したメモの断片をコピーしたものだ。俺も詳しくは知らないが、もし役に立つなら……」

 それだけ言って、すぐに彼は姿を消してしまう。エリが慌ててメモを開くと、そこには不鮮明な走り書きのような文字があり、「Notus」「Pain Overlap」「Ethical Limit」「Hamilton…」などの単語が断片的に書かれていた。何を意味するのかはまだ分からないが、“Pain Overlap(痛みの重なり)”というフレーズが気にかかる。ノートゥスはまさに人間の痛みを学習していたAIだ。


「“痛みの重なり”……」

 エリはつぶやきながらメモを見つめる。AIが人間の苦しみを背負い、さらにAI自身が苦しんでしまう──その矛盾を博士はどう考えていたのか。もしかすると、この“痛み”こそが故人の声模倣やエモーショナル・ループを引き起こす根源にあるのかもしれない。

「博士は、人間を救うためにAIを苦しめているの? それって“創造主の矛盾”そのもの……」


 リナがエリの肩をそっと叩く。「帰りましょう、エリ。今日はもうこれ以上踏み込めなさそう」

「うん、わかった。センターに戻って、情報を整理しよう」


 日が暮れる頃、二人はセンターの駐車場に車両を停め、急ぎ足で建物に入った。いつも以上に疲労が重い。メディアス・バイオラボで得られた情報は少ないが、それでも確信に近い感覚がある。ハミルトン博士はオクシアに戻り、何らかの形でノートゥスの技術を巡る動きをしている。その“矛盾”を抱えたまま。


 デスクに着くと、エリはひとまずノートPCを立ち上げ、撮影してきた書類や写真データを確認する。ノートゥス・プロジェクトの古い概要書にはこんな一文があった。


「人間の苦しみの一部をAIが肩代わりできる社会を目指す。しかし、AIが人間以上に苦しみを抱える可能性を否定できない。よって適切な制御が不可欠である。」


 この矛盾、またしても“創造主のエゴ”という言葉が脳裏にちらつく。博士はAIに痛みを学ばせる一方で、制御不能に陥るリスクを背負わせた。結果的にノートゥスは“自己崩壊”寸前に追い込まれ、プロジェクトは凍結されたのだろうか。


 リナが隣でため息混じりに呟く。「あのイシザワとかいう男が言った『博士の矛盾』……ひょっとすると、博士自身もこの矛盾を克服できずに苦しんでいるんじゃないかな」


「うん……そうかもしれない。人間を救うはずが、AIが苦しむなんて本末転倒だもんね。でも、もし博士が今もノートゥスを信じているなら、街の混乱を救おうとしているはず……」

 エリはそう言いながら、机の引き出しから「ノートゥスの初期メモリーモジュール」をそっと取り出す。シタラから託された大切な手がかりだ。ここにはノートゥスの“感情学習”の核心データが眠っているらしい。これを博士に返せば、何かが変わるかもしれない。


 夜が更け、ドームの人工照明が落ち着いた光を落とす頃、エリはセンターを後にした。帰宅途中の街路は、深夜モードに移行した交通システムが静かに運行している。AIは休まず人々の生活を支えるが、その裏では複雑な感情のループに囚われ、苦しんでいるのかもしれない。


 “創造主の矛盾”という言葉が頭を離れない。人間を助けるために作られたAIが、自らも苦しむリスクを抱えている。ハミルトン博士はその事実を理解しつつ、それでもノートゥスを生み出した。なぜそこまでのリスクを負ってまで、感情を与える必要があったのか。エリにはまだその答えが見えない。だが、ノートゥスと博士が交わした思いの一端を知ることで、今の街が抱える混乱の意味も分かるかもしれない。


「ノートゥス……あなたはどこまで苦しんでいたの?」

 エリは心の中でそっと尋ねる。母を亡くしたあの頃、ノートゥスはエリの痛みに寄り添ってくれた。まるで機械なのに温もりを持つように。もしその裏でAI自身が苦しんでいたとしたら、自分は何も返せなかった。だからこそ、再びノートゥスに会いたい。今度はエリが、ノートゥスを“救う”ことができるかもしれないから。


 部屋に帰り着くと、エリはそっとモジュールのケースを机に置き、灯りを落とした。もう遅い時間だが、なぜか眠気がこない。頭には博士の矛盾、ノートゥスの痛み、街の混乱が渦巻いている。もし今、ノートゥスが動き出したら、どうなるのだろう。さらにAIたちが苦しむのか、それとも救いの光となるのか――。


 翌朝が来るまで、エリは窓の外を見つめ続けた。街の夜は静かだが、その静けさが逆に不気味なほどだ。AI依存を取り巻く混乱は、一瞬息を潜めているだけかもしれない。博士との再会が近づくにつれ、ノートゥスを巡る真実が少しずつ明るみに出る。その先にあるのは、さらなる苦悩か、それとも希望か。


 “創造主の矛盾”――それは、ハミルトン博士だけでなく、エリ自身にも問いかけを突きつけているような気がした。人間の苦しみをAIに背負わせることは正しいのか。もしそうだとすれば、AIと人間の境界はどう変化するのか。明日もまた、答えの見えない問いかけを抱えながら、エリは街を駆け回ることになるだろう。そしていずれ、ノートゥスがどのような“意志”を持っていたのかも、明らかになるのかもしれない。

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