Episode 4:「人工呼吸する街」
朝、オクシアの空を覆うドームが淡い光を通し、都市全体を静かに照らし始める。エリはいつものようにサポートセンターへ足を運ぶが、今日は少し違った空気を肌で感じていた。
理由の一つは、夜明け前から続く“風のようなもの”の音。ドームの向こう側で、外の大気が不自然に揺れているらしいという噂が、じわじわと街に広がっているのだ。オクシアでは通常、外気が直接入り込むことはない。高度な空気管理システムがドーム内部の温度や酸素濃度を最適化し、“理想の環境”を作り上げているからだ。だが今朝は、どこかその制御が揺らいでいるような気がしてならない。
サポートセンターの玄関をくぐると、すでにロビーには人だかりができていた。AIとのトラブルを抱えてやってくる住民が日に日に増えている。特に最近は高齢者ばかりでなく、若い層からも「AIが過干渉で窮屈だ」「自分の思考まで管理される気がする」という相談が目立つ。エリは混乱する受付を横目に、リナを探した。
ちょうどエリの名を呼ぶ声がして、振り返るとリナがファイル端末を抱えて駆け寄ってくる。
「エリ、今大丈夫? ちょっと見せたいものがあるんだけど」
「もちろん。何かあったの?」
リナは「ついてきて」と手短に言い、受付の混雑を社員に任せると廊下の奥へ向かう。エリもその後に続いた。
二人がやってきたのはサポートセンターの一室。普段あまり使われない、窓のない小さな打ち合わせスペースだ。リナは扉を閉め、テーブルの上に端末を広げる。
「これは昨日、環境モニタリング部署から送られてきた内部資料なんだけど」
そこには、オクシアの空気管理システムに関する監査データが一覧表示されていた。温度や湿度、二酸化炭素濃度、さらには有害物質の除去率などがグラフ化されている。その中に、今朝方の数値を示す箇所がハイライトされていた。
「見て、ほんの少しだけど、夜明け前にCO₂濃度が上昇してるの。通常の制御プログラムなら即座に補正されるはずなのに、なぜかワンテンポ遅れが発生してる」
リナの言葉に、エリは画面を凝視する。確かに、これまで真っ直ぐに一定ラインを保っていた数値が、朝方だけ微妙に揺らぎを見せている。誤差はほんのわずかかもしれないが、この完璧を誇るオクシアにおいては珍しい事態だ。
「つまり、空気管理システムのどこかに不調がある、ってことなのかな」
「まだ断定はできないけど、こういう“ほころび”は、社会全体に不安を与える原因になるわ。住民は人工的に安定した環境だからこそオクシアを選んでいるのに、その根底が揺らいだら……」
リナが声を落とす。確かに、オクシアを“安全な理想都市”と信じて移住している人も多い。もし空気が汚染されるような事態が起きれば、街は大混乱に陥るだろう。
「でも、こんな話をわたしに見せて大丈夫なの? センターとはいえ、一応は機密事項なんじゃ……」
エリが少しためらいがちに言うと、リナは首を横に振った。
「まあ、そこは上司の判断ね。実は“住民のメンタルサポート”にも関わるから、わたしたちサポートセンターにも情報が共有されることになったの。最近、AIや都市機能への不信が高まってるから、こういう情報を知ったうえで対応してほしいんだって」
なるほど、とエリは思う。確かに住民は“街の完璧さ”を信じているからこそAIに頼りきっているわけで、その信頼が崩れかければ、サポートセンターには相談が殺到するはずだ。空気管理システムの不安要素は、直接的な健康問題だけでなく、人々の精神にとっても大きな影響を与えるだろう。
「わかった、気をつけておく。もしかしたら相談の中に、今回の件を示唆するような不安を感じてる人が出てくるかもしれないし……」
「ええ、よろしくお願いね」
リナはそう言うと、端末を閉じてから溜息をついた。
「最近、忙しさが加速してる気がするわ。これ以上トラブルが増えたら、もう手が回らないかもしれない」
「大丈夫だよ。わたしもできる限りサポートするし、みんなで乗り越えよう」
エリは笑みを見せてリナの肩を叩く。だが、内心では同じように焦りを感じていた。これまで市民が抱える“AIへの違和感”は、いわば個別の問題として扱われてきた。ところが空気管理システムに疑念が生じるとなれば、“街そのもの”が揺らいでいる可能性を誰もが感じ取ってしまう。オクシアを支える生命線が、そもそもAI頼みなのだから。
エリが朝の相談者対応を一通り終えた頃、ロビーに意外な姿があった。車イスに乗ったイワサキ・シンジを、見知らぬ若者が付き添っている。前回訪問したときは「AIなんぞ信用ならん」と言い張っていた老人だ。
エリが慌てて駆け寄ると、イワサキの表情はやはり不機嫌そうなままだったが、ちらりとこちらを見て口を開いた。
「また迷惑かけるが、わしがもう少しだけサポートセンターに頼ろうと思ったのは、おまえさんの言葉が心に残ったからだ」
そう呟くと、今度は付き添いの若者――オクシアの訪問介護スタッフらしい男性――が代わって状況を説明する。
「イワサキさん、先週の夜に軽く転倒してしまって……AI診断を受けさせようとしたんですけど、本人が断固拒否を貫きまして。それで結局、人間の診療所へ連れて行ったんです」
人間の診療所。オクシアでは医療AIに頼るのが一般的だが、一部、従来の人間の手による医療行為を希望する人のための施設もわずかに残っている。そこでは高度なAI装置は最低限しか使わず、“昔ながらの方法”で検査や手術を行うのだ。
「そして診療所でも“もっと専門的な検査が必要”と言われ、今日はこちらを訪れました。AIには診てもらいたくないけど、人工関節の調整とか、設備があるのは結局ここしかなくて……。な、イワサキさん?」
車イスから顔を背け気味だったイワサキは、ぼそりと答える。
「……仕方がないだろう。こんな体になっちまった以上、それなりに部品を調整しなきゃ動けんのだ」
エリはイワサキの右足に装着されたサポートフレームを見つめた。どうやら加齢による膝関節の痛みを軽減するための外部デバイスのようだ。しっかり調整しないと歩行が困難になるが、その調整は高精度AIアシストが必須だ。イワサキのようにAIを拒絶する人間が、オクシアで暮らし続けるのは確かに難しい。
「わかりました、できるだけ負担にならないようにします。人間のスタッフと一緒に調整する方法もあるので、まずは診察室へ行きましょう」
エリがそう言うと、イワサキは渋々ながらも車イスを自力で動かし始める。その姿には相変わらずの頑固さがにじむが、前回会ったときよりも、ほんの少しエリに対する信頼を見せているように感じた。
静かな廊下を進み、診察室のドアが開くと、一瞬冷たい空気が流れ込む。ここは医療AIと人間のスタッフが連携して利用する設備室で、通常は患者の脳波データや筋肉の反応を計測しながら最適な治療を行う。イワサキの場合は、外科的な施術というより“外部デバイスの再調整”が目的だ。
「こちらにお座りください」
白衣を着たスタッフ――人間だ――が、イワサキをベッドに移乗させる。部屋の隅には丸い形をしたAI補助ロボットが待機しているが、イワサキはそれに目を向けようともしない。
「では、外部フレームの状況をスキャンします。ちょっとだけ機械が近づきますが、必要最低限で済ませますね」
エリがやわらかい声で説明すると、イワサキは「ふん」と鼻を鳴らす。だが反対する様子はなかった。ロボットのセンサーがフレームの状態を数秒で読み取り、モニターに解析結果を表示する。
「ここが少し歪んでますね……ネジの固定が甘くなっているのかも。あとは関節部分の潤滑性が低下してるから、交換用のパーツが必要です」
スタッフがエリを見やる。こうした医療行為自体は専門職の業務だが、サポートセンターの職員であるエリがここにいるのは、イワサキのメンタル面をケアするためだ。
「イワサキさん、部品交換のためには、AIの自動制御でパーツを正確に装着する工程があります。人間だけでやるには、誤差が大きすぎて歩行に影響が出るかもしれません……」
エリがそう言うと、イワサキは黙り込む。拒否したい気持ちはあるのだろうが、自分の体がそれを許さない。数秒の沈黙ののち、意を決したように答えた。
「仕方がない。やれ……ただし、できるだけ人間の手でやってくれんか」
「はい、わかりました。では重要な工程はわたしが付き添って確認しますね」
イワサキが目を閉じ、辛そうに唇を結ぶのを見て、エリは胸が痛んだ。機械に頼りたくなくても、頼らざるを得ない現実。AIやロボットが“人工の呼吸”をするように社会を支え、人間の心と体を管理している――オクシアの象徴的な光景だと思わずにいられない。
作業が進む中、イワサキは時折うめき声を上げるが、スタッフやエリが声をかけると目を開く。そして小さく頷く。それだけで精いっぱいなのだろう。
部品交換とフレーム調整を終えた頃には、日もすっかり傾いていた。イワサキはベッドでしばし休んでから、スタッフに支えられながら立ち上がる。先ほどまでの車イスと比べて、動きがいくらかスムーズだ。
「どうですか、痛みはありませんか?」
エリが尋ねると、イワサキは渋い顔のまま、だがはっきりと答えた。
「確かに楽になった……。機械に礼を言うのは癪だが、まあ、ありがとうよ」
そう言って口をつぐむ。やがて小さく肩を落とすように息を吐いた。
「人間ってのは何なんだろうな。自分で歩けなくなったら、こんなふうに機械に頼るしかないのか。おまえさんは若いからいいが、いずれはこうなるかもしれんぞ」
痛切な言葉に、エリは何と答えればいいか迷う。オクシアは“いつまでも健康で快適に暮らせる”都市として宣伝されているが、それは大量のAI技術と装置があってこその話だ。人間が生身の体を維持する限り、老いや病は避けられない。
「でもわたしは、この街には優しさもあると思うんです。AIが完璧だからこそ怖い部分もあるけど、一方で人間を支えてくれる面も……。イワサキさんが今こうして少しでも痛みなく歩けるのは、たしかに機械のおかげです。でも、最後はイワサキさんご自身の意思でここに来てくださったからこそ、こうなれたんじゃないでしょうか」
エリの言葉に、イワサキは目を伏せて小さくうなずいた。返答こそしなかったが、その横顔にはわずかながら諦念だけでなく安堵も混じっているように見える。
廊下に出たころ、リナが手を振ってこちらに来た。ロビーには先ほどまでの混雑はないものの、まだ数名の相談者が待っているらしい。イワサキは「一旦、休憩室で横になりたい」と言い、スタッフに誘導されてそちらへ向かった。
エリはリナに近づき、低い声で伝える。
「イワサキさん、どうにかフレーム交換できたよ。でもやっぱりAIを信用してない。いつかまた同じようなトラブルが起きるかもしれない」
「そう……。でも今日は、少なくとも受け入れたんだよね、AIの施術を」
「うん。そこは大きな一歩かも」
リナは安心したように微笑む。とはいえ、オクシアの空気がどこか張り詰めているような気配は変わらない。エリはモニターに映るインフラ稼働状況をちらりと見るが、空気管理システムの数値はいまだに微妙なブレを示していると報告されている。大きなトラブルには至っていないようだが、今後も安心できないらしい。
「まるでさ、この街が“人工呼吸”をしてるみたい、って前から思ってたの。ドームに守られ、AIに酸素や温度を調整してもらって、人間はその中で生きている」
リナがぽつりと言う。エリも同じ感覚を覚えたことがある。街そのものが“生き物”なのか、それとも“箱庭”なのか。いずれにせよ、人間が自ら呼吸しているのではなく、AIが用意した空気を与えられているという現実は、どこか息苦しい。
「もし、その“人工呼吸”が止まったら、この街はどうなるんだろう」
エリの問いに、リナは答えられない。二人とも想像はしたくなかった。外の世界がどうなっているのか、ドーム外の空気がどれほど汚染されているのか、具体的な情報はあまり公になっていない。しかし、もし仮に外の空気が人間にとって致死的なレベルだとしたら、オクシアが呼吸を止めた瞬間、何が起きるのかは明白だ。
夕方が近づき、またしても雑務の波に押し流されそうになりながら、エリはふとデスクに届いている内部メールに気づいた。送信元はセンターの“調査課”という部署。見慣れない名前だが、添付資料には「感情解析型AIプロジェクトに関わる旧データ」とある。
「……これは……?」
エリが思わず声を上げると、隣のリナも画面を覗き込む。
「何の資料? 感情解析型AI……ノートゥスみたいなやつ?」
「わからない。けどたぶん、その系統の話かもしれない。アクセスしてみるね」
エリが端末を操作すると、画面に古いプロジェクト概要が映し出される。そこにはハミルトン博士の名前や、かつて医療機関で試験運用されたAIモジュールの存在が記されていた。ただしファイルの大半はロックがかかっており、詳細は閲覧できない。
「どうやら上層部が、“感情解析AI”のプロジェクトを再調査しているみたい。しかもここ数日、内部でその動きが活発化している……」
リナが額に手を当てる。新しいトラブルの予感か、あるいはこの街の新たな一面が開かれる前兆なのか。エリは胸が騒ぐのを抑えられない。
「ノートゥス……ほんとに、またどこかで動いてるのかな」
そう呟いたとき、センターの放送が耳に届く。夜間業務への切り替えが近いらしい。ざわめくロビーでは、イワサキが付き添いのスタッフに連れられて帰宅の準備をしていた。
エリはデスクから立ち上がり、イワサキのもとへ歩み寄る。
「イワサキさん、今日はお疲れさまでした。少しは楽になりましたか?」
イワサキはぽんと自分の膝を叩くようにして応える。
「ああ、おかげでな。……わしは、この街が嫌いだが、それでもここで暮らすしかないんだろうな。親切にしてくれて、ありがとうよ」
その横顔に、ほんの少し柔らかさが混じっている。エリはイワサキを見送ったあと、ふとドームの天井を見上げるように頭を上げた。人工的に整えられた気候と空気。それは人間を守る檻にもなり得るし、巨大な生命維持装置としての優しさでもある。
「人工呼吸する街……」
エリはリナの言葉を思い出す。もしその呼吸器官に相当するAIが止まったら、オクシアは一瞬で崩壊するだろう。それでも多くの人は、それを“当たり前の便利”と信じて疑わない。だが、この街に存在する数多の“喪失感”や“葛藤”は、そんな簡単には解消しない。それは、エリ自身も同じだ。いまだに母を失った痛みを抱え、ノートゥスへの思いが募るばかりで、先が見えない。
「そういえば、カナさんやミナさんの様子も気になるし、明日はまた忙しくなりそう」
エリは苦笑する。シフトが終わったら少しは休もうと思っていたが、考えるべきことは山積みだ。空気管理システムの不調、増える相談、そしてノートゥスに関する謎の内部調査。どれもがオクシアの“人工的な呼吸”を揺るがす可能性を秘めているように感じる。
そう思った瞬間、センターの窓外を横切る風景が目に入った。宵闇の照明が落ちかけたドームの外、わずかに霧のようなものが立ちこめている。まるで息苦しさを象徴するかのように、街の空気が揺らめいて見えた。
「ノートゥス……あなたなら、この揺れをどう感じるのかな」
胸の中で問いかける。もしかしたら、どこかで同じように揺れ動いているのかもしれない。ノートゥスもまた、この街の一部なのだから。
人間とAIが共存し、互いに依存しながら生きるオクシア。その都市は、今も大きく静かに呼吸を続けている――人工的な、完全に制御された呼吸を。だが、その“呼吸音”がほんの少しでも乱れ始めたとき、何が失われ、何が生まれるのだろう。エリはいつかノートゥスと再会する日を思い描きつつ、自らの息を確認するように深呼吸した。
夜の気配がドームの天井に広がり、サポートセンターはやがてひっそりとライトを落とし始める。人工の朝が訪れるまで、この街はAIの手の中で静かに安定を保つだろう。けれどエリは、その安定が実は儚いものであり、その下に人々の切ない痛みや不安が眠っていることを知っている。人工呼吸する街――オクシア。ここでの営みはますます複雑さを増しながら、彼女たちを飲み込み、そして優しくも支え続ける。
エリはロッカーに荷物をしまい、センターを出るとき、一瞬だけ振り返った。闇に沈む室内には、無人の受付デスクだけがかすかな光を帯びている。まるで、誰かの帰りを待つかのように。
「また明日……」
かすれた独り言を残して、エリは夜気の中に足を踏み出す。ドームの中は一定に調整された湿度と温度。それでも、どこかで外の風の音が混じっているような錯覚を覚えるのは、気のせいだろうか。それとも、オクシアの“呼吸”が乱れている前兆だろうか。
やがて遠くから、都市インフラを管理する夜間ドローンの低い音が聞こえ始める。それは子守歌のように穏やかなのに、何かを警告するサイレンのようにも感じられる。エリは少しだけ早足で、自宅のある区画へ向かう。外では、不自然なほど冷たい風がアーケード下を通り抜けていった。
この街を見守るガラスの天井は、今日も完全には曇らない。だが、いつまで“人工呼吸”が滞りなく続くだろう。もし停止したなら――エリは想像をやめ、歩みを止めた。ノートゥスとの再会はまだ果たせないけれど、いつかあの手の温もりが何かを救う日が来るのではないか、そんな微かな希望を手探りするように、彼女は胸を押さえ、再び歩き始める。
明日もまた、この街の誰かが苦しみを抱え、サポートセンターを訪れるのだろう。それが生活のすべてになったような息苦しさを感じつつも、エリは一歩ずつ前へ進む。オクシアという“完全管理された都市”で、人間らしい感情がどこまで許され、どこで否定されるのか――答えを探すのはこれからだ。
夜のドームは静寂を深め、都市全体はまるで大きな肺が満たされるかのように薄い霧の気配を孕んでいる。オクシアは息をする。人間を生かすために、人工の呼吸を続ける。この息苦しくも優しい管理社会のどこかに、ノートゥスが眠っている。エリにはそう信じざるを得ない何かがあるのだ。母を失った日、そしてノートゥスに寄り添われたあの日から、ずっと胸にくすぶり続ける小さな光。それが、いずれこの街の運命を大きく変えるかもしれない――そんな予感を抱きながら、エリは闇に溶け込む街路を歩いていった。