表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
監獄館の殺人  作者: 岸辺
2/3

犯人当て小説 問題篇

隠れた犯人



問題篇


一 犯人は登場人物七名の中に一人だけ存在し、外部犯及び複数犯による犯行の可能性はありません。

二 犯人以外の登場人物や地の文が故意に虚偽の供述を行うことはありません。


登場人物


落合智治(おちあいともはる)(67)燕脂島の島主、落合産業四代目会長

落合斗亜(おちあいとあ)(24)智治の孫

青治和香(あおちわか)(42)智治の姪、落合産業役員

青治哀都あおちあいと(23)和香の息子

尾崎幸介(おざきこうすけ)(41)智治の親戚、落合産業の子会社日比谷工業の取り締まり役

野田康平(のだこうへい)(44)智治の親戚、落合産業の子会社落合鉄鋼の取り締まり役

郡洋子(こおりようこ)(52)智弘に仕える使用人。元看護婦



戦後間もない日本、戦争での功績を元手に始めた卸業から落合産業を独力で急成長させ、一代で平民から大富豪に成り上がった落合弥助。それ以降も彼は、様々な企業を傘下に加えることで他業界にも手を伸ばし、落合産業を中心としたグループ経営で多額の財産を築いた。グループ全体を統べる会長の座は代々子息に受け継がれていったが、その四代目にあたる落合智治は二十年務めた後に表舞台から退くと、かつて流刑地として用いられていた孤島、燕脂島を購入。その島に残されていた地下監獄を自分の別荘として改造し、年に一回、自分の誕生日にだけ家族や親戚、会社関係者と共にこの別荘を訪れ、数日間寝食を共にすることを慣例としていた。そしてそれが今日、六月四日の出来事だった。



居間

正八角形に縁取られた監獄館。その館の中心、これもまた八角形になった居間には、四人の人間が集まっていた。この居間の中心に置かれた円卓———これも例に違わず八角形———にそれぞれ腰を下ろし、ソワソワと囁きながらこの館の主人を待つ。

ややあって車椅子に乗った落合智弘が、小柄な使用人に後ろから押されて北方扉から登場した。その姿を認めた途端、これまで続いていた静かな話し声がぱっと止み、緊張感のある静寂が生まれた。

使用人郡は中央で車椅子を止めて脇にはけると、智弘は大きく咳払いした後口を開いた。

「改めて、今年もこの島にお越し頂いたことを感謝する。そして、本日からの三日間を有意義なものにするためにも皆様のご協力をお願いしたい」

地を這う戦車のような重厚な主人の声が静寂の中に響き、四人の身を振動させる。

八角形の木製テーブルに円座した各々は口を噤んだまま、顔だけを話者に向けて半ば機械的に拍手をしている。

「今回の宿泊にあたり三点ほど事前に知らせておきたいことがある。まず一つ目、折角のこの機会にも虚しく、我が倅航大(こうだい)()は仕事の都合上欠席する運びとなった。そして、二つ目、同じく我が孫斗亜について。彼は二日前からこの島に来ていたのだが、生憎昨日体調を崩してしまい、現在自室で安静にしている。たわいのないただの風邪であるので御心配は無用なのだが、この二人が今回の席に出席できないことを代わってお詫びする。そして三つ目。それは、何十年もの間日本経済を根本から支えてきた、我らが落合グループの未来についてだ」

そこで、これまで無言で主人の声を聞いていた四人は一斉に驚きの声を上げた。

「未来について……とは一体、どういった意味なのでしょうか」

青治和香は真剣な面持ちで車椅子に座る主人に尋ねた。

「まあ、そう焦るものではない、青治君。君にとってもかなり大切な報せとなるだろう」

各々の反応を壇上から一通り眺めた後、主人は改まった様子で再び口を開いた。

「落合グループの未来とはつまり、我が倅航大の次に会長の座に就く者をこの三日間で決めると云うことである」

淡々とした口調で伝えられた主人の言葉に各々が耳を疑い、これまでの異様な喚声は一段階ボリュームを上げた。

「私はかねてからこの同族経営に疑念を抱いていたのだ。これまでの落合グループは親会社の各ポジションや子会社のトップに同族を置くことで、離反や内部衝突を防ぎ、他企業にはないグループ内の密接な連携によって、戦後の高度経済成長で大きく発展し、年々その規模を拡大した。しかし、長年業界トップを独走していた我が社の業績は、いつの間にかトップ5の程度に落ち着き、ここ数年の業績も決して芳しいとは云えない。この原因の一つに同族経営による風通しの悪さがあると考えた。私は自分の代から、この経営体型の維持に限界を感じ、憂いていた」

「どういうことですか……」

野田康平は頬回りにつけた贅肉を震わせながら口を開いた。

「私は肺を癌に蝕まれて先も長くない……しかし、このまま逝くなど、先代達に顔向けができん。その前に我が社の経営改革を行い、業績改善の基盤を築きたいのだ。その一環として、会長後継制度に蔓延る悪習にもメスを入れることにした。これまでは落合家の当主が自動的に会長の座を世襲するのが決まりであったが、今回からはそれも廃止。落合の血だけで決めるのではなく、真に落合グループを導いていく資格のあるものが就任するべきだと考えたのだ」

「え?」

青治哀都は眉間に寄せながら、右手で頭を掻いた。

「決して君たちにとっても悪い話ではあるまい。この三日間の共同生活の中で、この私が次期会長を決めると云うことだ。既に倅にはこの取り決めについて知らせてあり、了解も受けている」

「お言葉ですが、ここでの生活の中で決める——とは?何か試験や面接のようなものでも行うのでしょうか?」

尾崎幸介は右手で顎の下を触りながら、神妙な面持ちで尋ねた。

「そのような必要はない。選抜における観点に関しては、公平性を担保するために口外することはできない。だが、君達は何も特別なことなどせず、いつも通り自然体で生活をしてくれれば問題ない。候補者は、使用人の郡を除いた君達四名と我が孫斗亜を入れた五名。予めこの私が次期会長の座に相応しいと独断した候補者のみ今回の宿泊に招待したのだ。いつもなら配偶者にも同伴してもらっているが、今回は招待しなかった理由もこれだ」

「か、会長……」

野田は突然転がり込んできた一世一代の機会を前に、驚愕と喜びの混じった表情のまま、狸のようなその顔を引き攣らせる。

「しかし、一点だけ忠告しておきたい。今回の選抜において、次期会長の座を掴めなかった脱落者には、落合グループから消えてもらう」

途端、ざわざわとした喚声が最高潮に達した。

「消える……一体どう云う事なのですか、前会長」

野田はずんぐりとした身体を円卓の上に乗り出すようにして云った。

智弘は度重なる質問に溜息を吐くと、

「文字通りの意味だ。このグループ企業から抜けてもらう。目の前に立ちはだかるリスクや障壁を乗り越え、千載一遇のチャンスを掴み取ることができる人間こそ、会長の座に相応しいと私は考える。先程申した同族経営からの脱却も兼ねての試みだが、会長の座を奪われた腹いせに次期会長に協力しないと云うことになっても迷惑千万だ。それを防ぐためにも、このような措置を取ることにした」

「流石にそりゃあ無いですよぉ、ご主人。あまりにもやりすぎですよぉ」

野田は眉間に皺を寄せ、半ば叫ぶように云った。

「言語道断、既にこれは決定事項だ。リスクを取れない者はここには不要」

「そんな……」

野田は項垂れながら、どしりと腰を下ろした。

「まぁ落ち着きなさい。私だって何もそこまでの鬼畜ではない。君達にはこの選抜に参加するかを決断する猶予を与える。制限時間は後六時間、今夜の十二時時点でこの館に残っている者にのみ、正式な候補者として選抜に参加する資格を付与する。もし、現在の自分の処遇に満足している者、或いは、失うことを恐れる愚者は今すぐにでもここを去ってもらって構わない。ただの私の見込み違いだっただけのことだ。今夜十二時きっかりに外からも内側からも出入りできぬようにこの館の入り口を施錠する。それに伴い、途中で気が変わったからといって途中入場や途中退場は不可能だ。制限時間まで己とよく相談し、悔いの無い選択をすることを勧める。これ以降の詳しい話は正式な候補者にのみ伝える事にする。仮にこの選抜を降りるとしても、今日までは館で自由に過ごして頂いて構わない。郡の方から館内の紹介をさせる」

智弘はそこまで云い終えると、深く息を吸い、

「私からは以上だ」

有無を云わさぬ圧倒的な物言いに気圧され、主人の車椅子が奥に消えていくのを四人は口を噤んだまま見つめている他無かった。

主人の車椅子を部屋まで送り届けた使用人が戻ってくると、畏まった様子で口を開いた。

「皆さん、突然の知らせに大層驚かれたことと存じますが、ご主人の決めたことでありますので、ここは従って頂けると幸いです。また、主人は現在体調が優れないため、御質問があれば私がお伝え致しますので何なりとお申し付けください」

使用人は小柄な身体を折り曲げ、深々と頭を下げた。

「では皆さん。このような状況の中恐縮ですが、初めてお越しの方もいらっしゃいますので、簡単に館内の紹介をさせていただきます。どうぞ、お立ちください」

そうして、四人は各々の使用人の後について居間から消えた。


廊下


招待客が二時間程前にこの館に入ってきた入り口は、館内へと歩を進める内に地面から下っていく階段になっており、館全体は完全に地中に埋め込まれている。その先の玄関は上から見ると台形をしており、玄関口から中央の居間に向かう際には、歩みを進めていく内に、徐々に壁の幅が狭くなるような錯覚によって、館の中心に吸い込まれていくような感覚を覚える。

また、台形をした玄関の左右には、幾つもの蔵書が保管された本棚が、両端に存在する余分な空間を埋めるようにして並んでいる。

郡を先頭とした五人はその玄関前の廊下から、時計回りに廊下を進んでいく。

「既にお知りになっている方も多いと思いますが、こちらの館は上から見ると丁度真北を向いた正八角形になっております、館内からだと分かりにくいと思いますが。中央に位置する居間と館の外郭、そしてその間に位置する廊下で三層の正八角形で構成されております。そして、廊下と外角のそれぞれの角を結ぶように八つの部屋が備えつけられており、元々は独房として使われていたものを、主人がこの島を購入した際に部屋に改造されました。皆様がこの館に入られたこの玄関を北端に見立て、A-1、そこから時計回りにA-2からA-8までの七部屋が御座います。A-3号室は主人、その丁度向かいに位置するA-7号室は斗亜様が使われておりまして、私はA-2号室を使用しております。各部屋はどれも同じ造作で、風呂とトイレも備わっておりますが、見ての通りこの館は地下にあるため、窓は御座いません。各自お好きな部屋をお使いください」

居間を囲う八つの壁面には、それぞれ趣向の異なる絵画が掛けられているが、その絵画に特段注意を向ける人間は居ない。

郡が慣れた調子で説明を終えるとほぼ同時に、一行は廊下を一周し、初めにいた玄関前に戻ってきた。

「再びとはなりますが、今夜の十二時が期限となりますので、それまでよくお考えください。もし、ご辞退なさる場合でも本日まではここでお過ごし頂いても結構です。帰宅の際は本土の者に連絡して船を寄越させる事になりますので、できればお早めにお伝えください。一応八時に人数分の夕食のご用意を致しますので」

元看護婦らしい穏やかな笑みを浮かべながら使用人はそう云うと、

「では私はこれで、失礼します」

再び丁寧なお辞儀をして去っていった。

「部屋ってどれも同じなんだろ、大体それどころじゃねぇんだよなぁ」

使用人が自室に入ったことを確認すると、野田は腕を組みながら不満げに云った。

「野田さんはどうするんですか?やはり残りますよね?」

尾崎は眼鏡の奥の切長の目をさらに細めて云った。

「いやぁ〜、あまりにも対価が大きすぎて、今はどうにもな——そう云うお前はどうなんだよ、以前、今の待遇に愚痴ってたじゃんか」

「僕も決めかねてます。後五時間で今後の人生を決めるようなもんですからね」

釣り上げていた口角を戻すと、尾崎は視線を青治和香に向けた。

「青治さんはどうするおつもりです?」

哀都と共に壁に架かった絵画を眺めていた和香は、尾崎の質問に迷惑そうに振り向くと、

「私達はこんな莫迦げた遊戯には乗りません。十二時前にはこの館を出ます。行きましょ、哀都。私達はDとEの部屋を使用させて頂きますので、では」

青治和香は息子の腕を引っ張りながら、早足で居間へと消えた。

二人の背中を見送った野田は、不機嫌そうに舌打ちした。

「なんだよ今の。本社の人間って礼儀知らずばっかなのかよ」

「云えてますね。それにあの哀都君。挨拶した時に僕を値踏みするような眼差しでじろじろと見られて、感じ悪かったんですよね」

「ははっ、そうだな。斗亜君も生まれつき病弱らしいし、今回も自室でおねんね中。あの母子も帰るらしいし、もしかしたら、俺達以外に碌な候補者いないかもな」

「僕が会長の座を頂きますから、野田さんは降りてくださいよ」

「ざけんなよ、お前が降りろよ」

野田は冗談半分に尾崎を小突いた。

「まぁ、猶予はまだありますから、部屋でゆっくり考えるとしましょう。野田さんはあそこ使ってください、僕は向こうでいいですから」

尾崎は左方のA-8の部屋を指差しながら云った。

「あっそう?そりゃどうも」

二人は居間に置いていた荷物を携えると、野田は北方の扉、尾崎はその反対の南方の扉から居間を出て、それぞれの部屋に向かっていった。


A-4号室。その入り口付近には、その部屋の使用者青治和香の荷物が積まれていた。


A-5号室。今しがた荷物を置いたばかりの母子の姿があった。

「歯磨きは持ってきたのよね?どこに入ってる?」

返事はない。

「着替えの服はこっちに置いておくからね、分かった?」

大型の旅行鞄から中身を取り出している和香は、ベッドの上に寝転がって本を読んでいる哀都に向かって云った。

「うーん」

哀都は視線を本に向けたまま、生返事をした。

「お腹は大丈夫なの?また整腸剤飲んでおく?」

「大丈夫だって。それより母さん、僕たち今夜には帰るんじゃないの?」

哀都は視線を和香に向けた。

「帰るわけないじゃない。こんな機会みすみす逃す程莫迦じゃないわ。さっきのは嘘よ。見たところあの二人、間抜けそうだったから、流れで降りてくれないかなって鎌かけただけ。勿論あいくんも残るわよね」

「はいはい。別に今の会社に何の思い入れもないし」

「そう、良かった。でも、あいくんが帰りたいなら別に良いのよ」

「分かってるって。いつまでも子供扱いしないでくれよ。僕だってもう大人なんだから」

「そうね、部屋に居るから何かあったらすぐ呼んでね。それと、あんまりあの二人とは関わっちゃ駄目よ、悪いモノが移るわ」

「分かってるよ」

和香は部屋の外から今一度哀都を眺めると、自分の部屋に戻っていった。


A-6


尾崎は鞄から取り出したスプレーを部屋中に振り撒き、テレビや棚の上の隅々まで入念にタオルで拭いていた。それを終えると椅子に腰掛け、狐のような鋭い目を熱心に目下のノートに向けて何かを書き連ねていた。


A-8


野田は部屋に入るや否や、狸のような丸い身体をベッドに投げ出し、配慮の欠片もない爆音を下半身から放出した。本人も予想以上だったようで、少しニヤけた後そのまま眠りについた。


午後八時、館内の全部屋にチャイムが鳴った。その後音質の悪い館内放送で、夕食の時間を報せる郡の声が響いた。

郡が隅に立っていた居間に、尾崎、野田の順番で現れた。少し遅れて青治和香が眠そうな目を擦っている哀都を引き連れてやってきた。

「遅くなってしまってすみません」

そうして四人は、使用人によって綺麗に並べられた五人分の夕食を囲うように席を埋めた。


「いえいえ、大丈夫ですよ。それより、ご主人と斗亜君は?」

尾崎は、母子に向けていた視線を使用人に向けながら尋ねた。

「ご主人と斗亜様はまだ体調が優れないようですので、夕食はそれぞれ自室で頂かれるとのことです。その代わりと云ってはなんですが、ご主人から私も夕食の席に同席しろと申し付けられましたので、何か質問あればお受け致します。では失礼します」

使用人は再び深くお辞儀をすると、遠慮がちに小さな腰を下ろした。

「肝心の御二方が不在ではありますが、頂いてしまいましょうか」

何とも言い難い異様な空気に耐えかねた尾崎の言葉を皮切りに、各々が目下の料理に口をつけ始めた。

「うおっ、こりゃあ美味い。これ全部郡さんがお作りに?」

白身魚のカルパッチョを一口入れた途端、野田は感嘆の声を上げた。

「そうですね。かなり凝ったものをお作りになられるんですね。いつもはご主人のために?」

和香も驚きと尊敬の眼差しを向けた。

「ええ。そう云って頂けて光栄です。この島周辺はかなり魚が取れるようなので、港で皆様を船で迎えたあの舟本さんが時々獲った魚を持ってきてくれるんですよ」

「えっ、あの気難しそうなおっさ……あ、失礼しました。あの方がお釣りに。へ〜私も最近釣りにハマっていましてね。是非ともここでもやってみたいですなぁ」

「残念ながら、それは難しいと思いますよ。明日以降は外に出られなくなるんですから」

尾崎は口元に微笑を湛えながら云った。

「あ、そうでしたね。そういえば先程の郡さんの放送、あれは何で為されていたんですか?」

野田は恥ずかしそうに微笑んだ後、今思い出したかのように尋ねた。

「館内に放送できる無線機がご主人の部屋にあって、夕食を運んだ際に主人から皆さんを呼ぶように命じられまして。ほら、ここは元々監獄でしたから、邸宅に改造する際にその電線を残してそのまま使用しているんですよ。他にも、皆さんが使用されている部屋も、元々あった二つ分の独房の壁を打ち抜いた空間になっております。元々はこの館の外壁の外を囲うようにしてもう一層八角形の壁があり、さらに多くの独房があったらしいのですが、改築の際に主人が広すぎるからと云って埋め立てられました」

尾崎は眉を顰め、

「らしい……と云うと、郡さんはその時はまだご主人に仕えていたわけではなかったのですか?」


「はい、私がこの島で主人に仕え始めたのは三年前です。私はかつて病院で看護婦をしていたのですが、そこで偶然持病の診断に訪れた主人と顔見知りになり、人間関係で疲弊して休職していた時に、この島で使用人兼専属医として雇われないかと云って頂きました」

「成程、流石のご主人でもこの島にずっと独りとなると寂しかったのかも知れませんね」

和香は優しげな目で使用人の言葉に答えた。

「そうかも知れませんね。ご主人は早くに奥様を亡くされておられるので。ただ、私が雇われた第一の理由は、肺癌を抱えるご主人の生活の助けだと思います。おまけに、ここ二年で急激に足を悪くしてしまわれたので、車椅子無しでは滅多に歩かれません。自分の死が間近に迫っていることを理解し、生前に今一度落合グループの再建に貢献したいと考えているからこそ、あのような提案を行ったのだと私は考えております」

使用人は左手で動かしていた箸を止め、神妙な面持ちで呟いた。

「そうなんですか。それにしても、良くて子会社や役員クラスの分家の僕達にとってはリスクを鑑みたとしても、願ってもみない機会ですが、本来なら本家嫡男として次期会長の座を継ぐはずだった斗亜君の事を考えると少し居た堪れませんね。今も体調を崩してしまっているわけですし」

尾崎は同情を含んだ眼差しで、サラダを一口頬張った。

「実は私もそう思います。斗亜様は二日前からこの館に来ており、あの提案についてもご主人から前もって聞かされておりました。その時は、自分はあまり経営に興味はないし、と納得した様子だったのですが、やはり相当にショックではあったようで、あれからずっと寝たきりなのです……あ、すみません。皆様に話しても仕方のないことですよね。これからは争う形になってしまうのに……」

使用人の言葉に、卓上に少々沈黙が生まれた。

「まあ、誰が勝ち取るかは別にして、ここにいる皆が落合グループのさらなる発展を心から願っていると思いますから」

哀都は食べ終えた食器を重ねながら、この話を纏めるように云った。

「ご馳走様でした。料理おいしかったです」

「ありがとうございます。食器は後で私が片付けるのでそのままで結構です。私は一度ご主人と斗亜様の夕食の片付けに参りますので、失礼します。お酒のお代わりならあちらにございますので」

使用人は椅子から立ち上がると、丁寧なお辞儀をして居間を出た。

「……あなた方も勿論残りますよね?」

使用人が開いた扉が閉まったことを確認すると、尾崎は視線を母子の方に向けた。

「勿論ですよ。と云うことは、やはり御二方もですか」

哀都はゆっくりと腰を上げながら、睨みつけるように二人を見下ろした。

「まぁ、こんな絶好の機会逃すような阿呆はおりませんわ。誰が選ばれても恨みっこなしで、精々頑張りましょうや」

野田は赤ワインをごくりと飲み干すと、高揚気味に云った。

「そうですね、恨みっこは無しで。では十二時にまた」

和香も立ち上がりながら一重の目をさらに鋭くして、目下の二人を見据えた。

そうして、青治母子は南扉から居間を出ていった。

その姿を見届けると、野田は一度舌打ちをして視線を横の尾崎に向けた。

「チッ、気にくわねぇ」

尾崎はそれを宥めるように、

「まあまあ、そんなに睨みつけなくてもいいじゃないですか。それよりどうします、もう少し飲みます?」

「そうだな、十二時までまだ時間もあるし」

尾崎は傍に置かれた簡易冷蔵庫からボトルを何本か取り出すと、野田の向かいの席に座った。

「しかし、やはりいけ好かないなぁ、あの母子。二人して常に他人を見下したような目をしてやがる。さながら蛇の母子だな。あいつらだって所詮は分家の人間で、そのコネのおかげで役職をもらってるだけなのにさ」

野田はすっかりと紅潮した頬をぶるんと震わせながら、飲み終えたワインボトルを叩きつけた。

「それを云うなら、僕達もじゃないですか」

尾崎は比較的酒に強いらしく、身体の表面上にも酔いが表れていない。

「うるせぇわ。少なくとも、俺には組織を纏める能力とカリスマ性があるんだ。その事を主人も理解しているから、こうして選抜に呼ばれたんだよ」

酒が入って一層気を大きくする野田とは反対に、尾崎は神妙な面持ちでグラスを眺めていた。

「僕もそう信じたいんですが、どうにも腑に落ちないんですよね。今回の候補者は、ご主人が独断で選んだと云っていましたけど、正直僕と野田さんって、落合グループ全体の中でもかなり端の方で、会長時代のご主人とも直接的な関わりなんて滅多に無かったじゃないですか。それに、青治さんのような会長時代の直系の部下が他にも呼ばれていてもおかしくないのに、何故僕達何でしょうか……」

尾崎は持ってきたボトルを開けてグラスに注ぎながら、豪快に云った。

「そんなことはどうでも良いだろ、肝心なのは候補者として選ばれたことだ」

そう云って野田は、新しく注がれたワインを豪快に飲み干した。

「そうですね。でも、会長の座は僕が頂きますから、お願いしますね」

「おい、会長になるのは俺だぞ」

「まあまあ、正々堂々頑張りましょうよ。姑息な手で他人を蹴落とすような真似はなしですからね、野田さん」

その言葉に野田は突然尾崎を睨み付けた。

「勘違いすんなよ。そんな大それた真似をするのはお前の方だろ。俺知ってんだよ、お前が副社長時代に、社長だった兄の不倫を摘発して追い出したこと」

「ははっ、そんなことしてないですよ。酷いなぁ野田さんも」

冗談めかしく微笑んだ尾崎は、上方の時計を見上げて、

「でも、十二時からご主人のお話があるみたいですから、あまり飲まない方が良いですね」

その後二人は一時間弱たわいも無い会話をしながら酒を酌み交わした後、各部屋に戻っていった。


居間


十二時を間近に迎えようとする館内に、再び使用人の声が響いた。

その放送が終わったと同時に、使用人の待つ居間に候補者達が集まった。

青治母子、尾崎の順で現れ、その少し後に顔を赤くした野田が眠い目を擦りながら現れた。

皆が席についたことを認めると、これまで静観していた使用人が口を開いた。

「皆様が選抜に参加されるご意志、今一度確認致しました。斗亜様も未だ自室で休養中ですが、選抜に参加されるとのことですので、これからこの旨をご主人に伝えて参ります。その後ご主人直々にお話しがありますので、このままお持ちください」

一度お辞儀をして、扉を出た。

その後ややあり、居間の上方に付けられたスピーカーから冷厳な声が発された。

「私だ。まずは、誰一人欠けることなく選抜を始められることを感謝したい。そして、依然体調が優れず、このような形での説明になってしまうことを詫びたい。さあ、正式な候補者となった君達に改めて選抜に関する説明をする。日付変わって本日六月五日から六月七日までの三日間、君達にはこの館で共同生活をしてもらう。とは云っても、特別なことをしてもらう訳ではなく、一日三回の食事の場以外は各々自由に過ごして頂いて構わない。そして、選考観点について。初めの席で云ったように私の独断になるため口外はできないが、特段アピールをするような真似も必要無い。ただいつも通り、自分らしく過ごしてくれれば良い。だが、他者を蹴落とすような真似は目溢ししかねる。もしもそのようなことが発覚した場合、その場で失格となること御留意願いたい」

夕方のそれに比べて少し弱々しくも依然荘厳な主人の口調に、息を飲んで聞く他無かった。

「私はこの通りの身なのであまり姿を出すことができないと思うが、常に緊張感を持ちながらも、忌憚のない姿を見せてほしい。では、これを持って選抜を開始する。以上」

放送が途切れた後も暫く主人の声が余韻として残っており、誰ひとりとして口を開くものは居なかった。

程なくして使用人が現れた。

「説明は以上になります。皆様お集まり頂き有難う御座いました。部屋に戻ってご自由にお過ごし頂いて構いません。朝食は午前八時、昼食は午後一時、夕食は午後七時です。食事前には逐一放送でお伝えさせて頂きますので。それでは、お休みなさい」

淡々と業務連絡を終えた使用人は、候補者を順に見回しながらお辞儀をして居間を出た。

それに続くようにして青治母子も、他の候補者と会話を交わすことなく部屋を出た。

「どうします野田さん、また飲み直します?」

「ああ、とても眠れそうにないしな。君もどうだ」

「僕も何杯か頂こうかな。でも飲みすぎて明日の朝食に遅れたら減点ってこともありそうですし、程々にしておいた方がいいですよ。なんたって会長の座が架かってますから」

「別に構うもんか。今は会長だっていないんだし、好きに飲んだらいいさ」

二つのグラスにワインを注いでいた尾崎は、向かいの席に座る野田の方に頭を近づけた。

「思ったんですけど、ご主人はどのように僕達を見るんでしょうか。既に選抜は始まったって云うのに、ご主人は不調で部屋に篭りきり。あの使用人を通して僕達の様子を知るとか?」

「そんなこと知るもんか、たまに顔でも出すんだろ」

「もしかして、盗聴器のようなものがあるんじゃないですか。ほら、ここって監獄だったって云うじゃないですか、どこかに盗聴器が仕掛けられていて、ご主人はそれを通して僕達の会話を聞いているのかも……」

尾崎は訝しげな目で居間の上方四隅を見回した。

「そんな馬鹿げたことあるか。いくら自分の島だからといって、そんな犯罪紛いなことする訳ない」

野田は語気を強めながらワインを呷ったが、その目は部屋の至る所に向けられていた。

「そうですかね……もしかしたら、この会話だって聞かれているかもしれませんよ」

尾崎は落ち着かない様子で、テーブルの上に置いた両手をしきりに動かしている。

「おい、変なこというなよ……それなら、自室も盗聴されてるって云うのか」

尾崎の不安げな面持ちにつられ、野田から強気な表情が消え失せた。

「それは分かりませんが……僕部屋に戻ろうかな、明日も早いし」

尾崎は心許ない様子で席を立つと、そそくさと居間を出ていった。

「ちっ、気味悪い話しやがって……」

野田は持っていたグラスを力任せにテーブルに置くと、ポケットから煙草を一本取り出しながら居間を出た。



A-2


智弘は安楽椅子に腰掛け、パイプを吸っていた。

「ご主人様、容態は如何でしょうか」

傍らで屹立した使用人は云った。

「生憎だな。皆の反応はどうだった」

「皆さん緊張した面持ちでした」

「斗亜の具合は」

「昨日に比べて熱は引いておりますが、まだ具合は良くないらしく眠っておられます」

「そうか、君ももう休んでくれ」

「かしこまりました」

智弘は、部屋を出ようとする使用人を呼び止めた。

「君も始めは大人数相手に忙しいだろうが、次第に楽になる。一人ずつ脱落するのだからね」

「ええ、では失礼します」


廊下


野田はA-2の扉の前に張り付いて聞き耳を立てていた。

使用人が出てくることに気づいた野田はすぐさま扉を離れ、差し足で自室に戻って行った。


A-8


部屋に戻った尾崎は、縺れる手で部屋中を捜索していた。

隅々まで入念に調べていたが、その内ベッドの上に倒れ込んでそのまま眠りについた。


A-3

哀都はベッドの隅に腰掛けて本を読んでいた。

その時、ドアをノックする音が聞こえた。

哀都は読んでいた本を置いて立ち上がり、扉の前に立った。

「私よ」

哀都は扉の鍵を外し、扉を開けた。

「そろそろ寝ないと駄目よ、明日も早いんだから」

「分かってるよ、わざわざ来なくても良いって」

「駄目よ、貴方が次の会長になるんだから」

「母さんはどうすんだよ。もし僕が会長になれたとしたも、母さんは役員の立場を失うことになるじゃないか。」

「貴方が会長になってくれるなら別にいいのよ。じゃあおやすみ」

和香は息子の頬に軽く口付けして部屋を出た。


居間


チャイムに続く形で、十五分後の朝食を告げる使用人の声が館内に響いた。

その十分後に北方の扉が開かれた。

「おお、どうもおはよう御座います」

「ああ、斗亜さん。初めまして、おはよう御座います」

扉から現れたその人物に気づくと同時に、既に席についていた野田と尾崎は驚きの混じった笑みを浮かべながら口を開いた。

「どうも、初めまして。昨日はご迷惑をお掛けしてしまい申し訳ありません」

落合斗亜はテーブルへと歩みを進めながら、頭を下げた。

「とんでもない、体調はもうよろしいのですか」

野田は一切の敵意の無い笑みを浮かべた。

「はい、昨夜の時点で熱は引いていて、今朝起きたらかなり楽になりました。でも、まだ身体は怠いのであまり顔は出せないかもしれません」

「それは良かった。以前お会いになってるんですが、憶えてます?」

「はい、去年の総会ですよね。あの時だけ祖父に連れて行かれて、あれ以来一度も行ってないので、お会いした方は皆よく憶えてますよ」

「流石ですな。となると、こちらの尾崎さんとは初めてお会いに?」

「ご紹介遅れました、私尾崎幸介と申します。よろしくお願いします」

尾崎は背筋を正して正面から斗亜を見据え、深くお辞儀をした。

「そんな畏まらないで下さい。僕達同じ候補者ではないですか」

「いえいえ、そんなことはできません、落合家には頭が上がりませんよ」

大仰に媚びへつらう尾崎を尻目に、野田は周りに聞こえないような声量で、

「しかし、こう云ってしまっては失礼かもしれませんが、ご主人様も酷なことをされますな。順当に行けば孫の斗亜君が会長になるのが当然……」

野田は途中まで言いかけた所で、ハッと口を開けて斗亜の方を見た。しかし、斗亜は気分を害した様子もない。

「僕は祖父の決定に賛成しているんですよ。自分自身生まれつき身体も弱くて、父に比べても組織を纏める才もない。それに経営にもあまり興味がなくて……それなら、落合グループを本当に想ってくれている皆さんの方が会長に相応しいと思います。一応落合家次期当主だからと参加してはいるんですが、皆さんと争おうなんて気は僕には無いですから安心して下さい」

「そうなんですか……でも斗亜さんが決定されたことに僕達がとやかく云うのは野暮ですからねぇ」

野田は眉間に皺を寄せて、にやけそうになるのをじっと堪えていた。

「ちなみに、選抜においてどのような所を観ているとかってご存知ですか」

尾崎は進めていた箸を一旦止めると、ぎこちない笑みを浮かべながら尋ねた。

「さあ、一応僕も候補者という立場なので、祖父からは何も」

そこで再び扉が開かれ、今しがた着たばかりであろうスーツに身を包んだ青治哀都が、眠そうな目を擦りながら居間に現れた。

「あっ、斗亜さん。お久しぶりですね。体調はもう回復されたんですか」

席に斗亜の姿を認めた哀都は擦っていた目を大きく開いた。

「お久しぶりですね。一応まだ不調ではあるんですが、一度は顔を出しておかないと。それより、和香さんはまだお部屋に?」

「えっ、母はまだ来ていないのですか?」

哀都は途端に目を見開き、使用人を見返した。

「先程一度部屋を訪ねたのですが、ご返事はありませんでした」

哀都の表情が少し強張った。

「僕起こしに行ってきますので、お先に手を付け始めてしまって下さい」

「私が参ります。哀都様こそお先に」

使用人は立ち上がった哀都を呼び止め、南方扉に向けて進み始める。

「本当ですか……すみません」

哀都は使用人が居間から出ていくのを不安げな面持ちで眺めた後、妙に落ち着かない様子で席についた。

「皆様、お騒がせしてすみません」

哀都は力の無い目線を二人に向けた。

「いえいえ、ではお言葉に甘えて頂いてしまいましょうか」

斗亜は一度笑みを作ると、目下の料理に手を付け始めた。

「しかし、和香さんが寝坊とは。らしくないこともあったもんですな」

野田は食パンを頬張りながら、横目で哀都に視線を向けた。

「はあ……母は時間に厳しい人で、約束の時間に遅れることなんて一度も見たことないんですけどね」

野田の皮肉めいた質問に反発することなく、哀都は淡々と手を進める。

「まあ、こんな特異な状況ですからね。誰だって普段通りにはいきませんよねぇ」

尾崎も釣り上げた目を哀都に向けたが、哀都の視線はあくまで手に持ったお椀にあった。

「ご馳走様でした、では失礼します」

さっさと食事を平らげた斗亜は箸を丁寧に置くと、ゆっくりと腰を上げた。

「おや、斗亜さん。もう戻ってしまわれるのですか?」

未だに箸と口を動かし続けている尾崎は顔を上げて尋ねた。

「すぐ戻ってきますよ。この館に来るときに、飼ってるハムスターも一緒に連れてきたんです。そろそろご飯をあげないといけないので」

「ヘェ〜、まさかハムスターを飼っているとは。私は以前土佐犬を飼っていたんですけどね、家族皆で可愛がってやってたんですけど、二年前に車に轢かれてぽっくり死んじまいましたよ」

「……斗亜さん、宜しければ後で見せていただいても?」

尾崎は右手に持ったコーヒーカップを降ろしながら、北方扉に歩いていく斗亜に尋ねた。

「ええ、是非。よければ今連れてきましょうか」

その時、南方の扉が勢いよく開かれた。

「た、大変です。和香様が……」

両腕を膝についてぜえぜえと粗い呼吸をしている使用人が、絞り出すように云った。

「母が……どうしたんですか」

哀都は表情を硬らせて立ち上がり、扉の前で肩を震わせている使用人に尋ねた。

「ああ、和香様は……あ、ああ」

満足な返答を得られないことに痺れを切らした哀都は、そのまま使用人の横を通りすぎて居間を出た。


A-4


鍵は元から掛かっていなかったようだが、それに気づいた使用人が一度開けたまま居間に戻ってきたので、扉は人ひとりが通れる程に開かれたままだった。

使用人の取り乱した様子から異常事態を感じ取った三人も哀都の後を追って、部屋の前に集まった。

先頭に立った哀都がドアノブを握り、ゆっくりと扉を開く。

「そんな……」

押し殺したようなか細い声が哀都から発された。

その肩越しに部屋の内部を確認した各々の口からも恐怖と驚愕の混じった声が漏れる。

四人が目撃したのは、天井からぶら下がった紐に首を括った和香の姿だった。ベッドの下に巻きつけられた片側の紐は天井の通気口まで伸びており、そこに引っ掛けられたまま直角に地面に向かってピンと張っている。その先端の輪っか状の紐が今も尚変色した首をきつく締めており、ベッドのすぐ横でぶら下がったその足は、地面から何十センチか浮いている。

「嘘だ……嘘だ……」

先頭に立った哀都は呆然とその光景を眺めながら呟くように繰り返した。

「な、なんで……あっ、警察に電話を」

尾崎はすぐさま踵を返して居間に向かった。

「自殺……なのか、でもどうして」

野田は部屋中に蔓延している臭気に右手で鼻を塞いでいた。

「今はいいでしょう、とりあえず紐から降ろしましょう。野田さん手伝って下さい」

腰が抜けたようにズルズルと項垂れる哀都の横をすり抜けて、斗亜と野田は部屋の中央まで踏み込んだ。


居間


「どうして……」

先程までと同様に、哀都は虚ろな目を下に向けたまま、誰に対して云うでもなくしきりにこの言葉を口にしている。

「とりあえず、僕と野口さんで遺体を下ろし、ベッドの上に寝かせました。その後郡さんに何とか遺体を確認してもらいましたが、やはり自殺の可能性が高いそうです。死亡推定時刻などの詳しいことは分からないようですが、残念ながらもう彼女は完全に息絶えていました。警察はいつ頃到着するのですか?」

斗亜は額に浮かんだ汗を吹きながら、部屋の隅で蹲っている使用人に目を向ける。

「それが……」

尾崎は顔を引き攣らせながら、両手で顔を覆っている使用人の方に視線を向けた。

「郡さんに電話の位置を教えてもらって、玄関口にある電話からかけようとしたんですけど……何故かどのボタンを押しても、何も反応しないんです。電話線も無事だし、郡さんも昨日までは使えていたって云うのに」

「もしかして……彼女は哀都君のために自殺したのでは?」

野田は土気色の額に大量の脂汗を流しながら、口を開いた。

「ほら……もし、母子どちらかが会長になれたとしても、もう一方はグループから追放されてしまう……だから……」

「違う!」

それまで呆然と呟き続けていた哀都が、急に立ち上がって両手でテーブルを叩いた。

「母さんは絶対に自殺するような人間じゃない……お前らだ……会長の座がなんとしても欲しいこの中の誰かが、一人でも邪魔者を減らすために母さんを殺したんだ」

哀都は充血した両目で思い切り野田を睨みつけた。

「俺はそんなことしねぇ。第一彼女は首を吊ってたんだぞ、どう見たって自殺じゃねぇか」

野田も怯むことなく応戦する。

「お前だ……お前だろ!」

その瞬間哀都は怒号と共に、向かいに座る野田に飛びかからんとする勢いでテーブルの上に飛び乗った。

「やめて下さい」

横に座っていた斗亜がなんとか両手で哀都の身体を掴み、哀都はそれを振り払いながら席についた。

「やめて下さい。今はこんな争いをしている場合ではありません。郡さん、玄関口を施錠した鍵を持ってきて下さい。僕は祖父の部屋に云って、選抜の中止を求めに行きます」

「鍵は……私が施錠をした後、ご主人がお持ちに……」

「そうですか、郡さん、可能なら貴方も来て頂けますか」

未だに身体を震わせていた使用人は小さく被りを振ると、斗亜の後を歩いて主人の部屋へ向かった。


廊下


「お祖父様(じいさま)、斗亜です。開けて下さい。大変なことが起こりました」()()

扉に鍵が掛かっていることを確認した斗亜は、何度も扉を叩く。

「居ないのか……さっきまでは確かにここに?」

斗亜はドアノブを握った左手をそのままに後ろを振り返り、不安げな面持ちでこちらを眺めている使用人に尋ねた。

「え……先程朝食を運んだ時、確かにご主人はいらっしゃいましたが」

「何故応答がないんだ……お祖父さん、開けて下さい……くそっ」

扉を叩きながら何度も呼びかけるも、中からは一切返事がない。

「もしかしたら、祖父にも何かあったのかもしれない」

「ご主人は?」

状況を見兼ねて、居間の扉から出てきた尾崎が尋ねた。その後ろには、険しい表情でこちらを眺めている野田と哀都の姿もある。

「返事がないんです。ついさっき郡さんが確認しているんですけど、もしかしたら祖父まで何かあったのかもしれない」

「退いて下さい」

後ろで眺めていた野田が扉に近づいて数歩下がった後、百キロ近くあるであろう巨体で力任せに体当たりした。が、木製の扉の軋む音がしただけで、野田は反動で後ろに吹き飛んだ。野田は重たい身体を起こすと、怯むことなく体当たりを繰り返した。そうして、四度目の体当たりで部屋の中から何かが転がる音がした。蝶番の一部が衝撃で落ちたらしく、すぐさま斗亜はドアノブを回して部屋に入った。


A-2


機能を失った扉を勢いよく開き、五人は部屋の中に押し寄せた。

「え……」

困惑の声を上げたのは、使用人だった。

五人が目にしたものは、他の部屋と同様の造作の部屋、鳶色のテーブルの上に置かれた文庫本に鉄製のパイプ、放送用の機材にマイク、その横に備えられた安楽椅子……右奥に備えられたベッドに、その上に綺麗に畳まれたままの掛け布団……のみだった。その部屋の主人、智弘の姿はどこにも無かった。

「どうして……お祖父様……」

「訳がわからん、ご主人はどこに」

「消えた……ということなんですか」

五人は部屋の至る所に目を向けながら、それぞれが疑問を口にした。

そこにいたはずの人間だけが忽然と消えてしまったかのように、部屋には一切の異常は見られなかった。


居間


北方扉が開いた。

「やはり、どこにも居ませんでした……哀都さんは?」

「哀都様は自室に戻ってしまいました。止めたのですが、その甲斐もなく」

「どうなってんだよ、この館、呪われてんのか」

野口は眉間に皺を寄せながら、紫煙を吐き出した。

「……やはり、和香さんは自殺なのでしょうか」

尾崎はテーブルについた右手で頭を抱え、吐き捨てるように云った。

「今のところはそう考えるのが妥当でしょう。ただ一つ疑問なのが、何故和香さんの部屋の鍵は空いていたのか、と云うことです。自殺ではあれば、扉の鍵は閉めておくような気がするんですけどね、僕は」

斗亜は椅子の背に凭れかかり、若干伸びた顎髭を撫でながら呟いた。

「早く発見してもらうためじゃないですか、彼女は自分の死を以て僕達……或いはご主人に何かを伝えようとしたとも考えられますね」

尾崎は真剣な表情で、向かいに座る斗亜に云った。

「そうですね。どちらにせよ、和香さんの死と祖父の消失は切り離して考えた方が良いのかもしれません。もしかしたら祖父は、選抜の一貫として敢えて姿を消し、僕達の反応を窺っている……或いは見つけてもらおうとしている可能性もあります。そして、和香さんの死にもまだ気づいていないと云うことも……郡さん、祖父は以前に何か云っていませんでしたか?」

未だに震えた手で水差しを持ち、四人のコップに順に水を注いでいる使用人に向かって云った。

「わ、私は何も聞いておりません。今回の選抜における観点は勿論、どのようなことを行うかは全く存じ上げません」

使用人は残されたままとなっていた食器を片付けながら云った。

「そうですか。では、この館に隠し通路や隠し部屋が存在すると云ったことは?」

「いえ、それも全く。申し訳ありません」

「じゃあ、一体ご主人はどこにいるんだ。全部屋隅々まで確認したし、ご主人だけが知っている隠し部屋があるとしても、そんなの見つけられる訳無いですわ」

「もしかして、この中に和香さんを殺した人間がいる……」

尾崎は呆然と自分の手元に視線を向けながらそう呟いた。

「可能性としてはあるかもしれません。他の候補者を減らすと云う点では、郡さんを抜いた僕達全員の動機となり得ますから」

「んな莫迦な、いくら会長の座が掛かっているからと云って、人殺しなんて」

野田は不機嫌な面持ちで三人の顔を交互に見据えながら吸殻を灰皿に捨て、次の一本に火をつけた。

「人生を大きく変える可能性のある極めてイレギュラー状況ですし、普段は温厚な人でも突発的な衝動で犯行に及んだと云うこともあります。それに、この館は現在外界から遮断されていますから」

「まずは玄関の施錠を解くためにも、ご主人を探した方が良くないですか。今一度全ての部屋を皆で確認しましょう」

尾崎は不安げにそう云いながら煙草に火を付け、控えめに吹かした。

「それは意味ないだろ。主人が誰かの部屋にいるとでも?」

「いや、念の為ですよ。それとも、野田さんには自分の部屋を見られて何か不都合なことでもあるんですか」

尾崎は、煙草を吹かしている野田を胡乱な目でじっと見つめた。

「は?俺が?そんなことある訳無いだろ。そんなことをしても無駄だと云っているだけだ」

「ならいいじゃ無いですか。僕の部屋からで構いませんから、順に確認しましょう」

野田はチッと舌打ちを打つと、漸く立ち上がって北方扉へと歩く三人の後を追った。


居間


「結局、ご主人はどこに……」

尾崎は項垂れるようにして腰を下ろした。

「昼食の時間を過ぎてしまいましたが、ご用意した方が宜しいでしょうか……」

使用人は項垂れる三人に視線を落としながら控え目に云った。


その言葉に斗亜は顔を上げ、

「お願いします。こう云う時にこそ腹に何か入れておいた方がいいでしょう」

「かしこまりました。簡単なもので宜しければ、二十分程でご用意致します」

使用人はそう云うと、一度お辞儀をして居間を出た。

「しかし、野田さん。何故あんな物を?」

使用人の背に視線を向けながら、斗亜は尋ねた。

「もしかして、斗亜さん。私を疑っているんですか」

野口は如何にも不快そうな面持ちで、斗亜の方を見る。

「部屋の捜索にあなたが反対していた理由が分かりましたよ。しかし、疑われるのも仕方ありませんよね、ベッドの下にスタンガンを隠していたなんて」

尾崎は、顔を覆った両手の隙間から野田を睨みつけた。

「おい、尾崎。お前までもか。だから、俺が青治さんを殺す訳無いだろ。俺はいつもスタンガンを鞄に入れてるんです。以前泥棒に入られたことがあって、それ以来防犯目的で持ち歩くようにしてるんです。信じて下さいよぉ、斗亜さん」

猜疑心を含んだ眼差しで自分を睨んでいる尾崎を睨み返した野田は、視線を斗亜の方に変えながら縋るように云った。

「でも、和香さんの身体や服には、スタンガンの痕は見られませんでしたよね。場所によっては痕が残らないと思いますが」

「俺はそんなことしませんって、こいつですこいつ。こいつが和香さんを殺したんだ」

野田は突如右手を突き立て、横に座る尾崎を指差した。

「はっ、何で僕が?ふざけるのも大概にして下さいよ、野田さん」

突然の指摘に尾崎は酷く狼狽し、立ち上がって両手を上げた。

「それか哀都君が殺したんですよ。未だにああやって部屋に閉じこもったままですし。部屋の捜索だって彼の部屋だけ出来てないじゃないですか。もしかしたら彼が、前から殺意を抱いていた母親をこの場で殺し、可哀想な息子を演じながら俺達に罪を被せようとしているってこともあるじゃないですかぁ。それに、主人も既に殺して部屋に隠しているのかも……斗亜さん、見ました?彼のあの人間味の無い目」

疑いの目を自分から遠ざけようとするように、野田は斗亜に向かって云った。

「やめて下さい、野田さん。和香さんの死因は依然自殺の線が高いんですし、こんな風に睨み合っていても何も変わりませんよ」

ぎこちなく身体を震わせながら自分の考えを力説する野田を尻目に、斗亜は冷然と煙草の煙を吐き出していた。

その時北方扉が開き、使用人が配膳ワゴンを押して入ってくる。

「皆様お待たせしてしまい申し訳ありません」

配膳ワゴンに乗せられた食器を一枚ずつ卓上に並べられる様子を眺めながら、野田は何本目かの煙草に火を付ける。

「郡さん、用意して頂いたところ申し訳ないですが、僕は要りません。今はとても食べる気になれなくて」

「かしこまりました。お気になさらず」

野田は傍に立つ使用人に向かって軽く頭を下げると、煙草を銜えたまま席を立った。

「野田さん、何処へ行かれるですか」

目の前に置かれたサラダに手をつけ始めた尾崎が尋ねた。

「部屋に戻らせてもらう、ここに居ても気が休まらん」

野田は一度テーブルの方を振り返ってそう云うと、北方扉の向こうに消えた。

「皆で固まっておいた方がいいんじゃ……」

尾崎は不満げな面持ちで斗亜の方を見た。

「殺人ではないと思いますから、まだそこまで心配しなくても。僕も食事が済んだら、一度部屋に戻らせていただきます。ハムスターに餌を上げないと」

斗亜は半ばかき込むように昼食を平らげると、傍に立ち尽くしたまま動かない使用人に一瞥をくれた。

「ご馳走様です、では」

「あの……哀都様の食事はどうなさいましょうか」

使用人は不安げな面持ちで、配膳ワゴンに残された一人分の食器を見下ろした。

「一声かけて部屋の前に置いてやって下さい。彼は今耐え難い程の辛い思いをしているでしょうから」

「かしこまりました……」

「祖父が居なくて不安でしょうが、安心して下さい。祖父は人前ではあのような気難しい性格ですが、家族の前ではいつも悪戯好きな子供のような感じで、僕なんかは幼い頃からよくその被害者になっていましたから」

「えっ、そんな方なんですか。全く知りませんでした」

尾崎は驚きを隠すことなく顔に出しながら、野田の方に視線を向ける。

「あのご主人がそんな……俄に信じられませんな」

「人間って分からないものですよね……でも祖父はそんな人なんで、今回も何食わぬ顔でじきに現れると思いますよ」

「そうだといいのですが……」

配膳ワゴンを押した使用人は斗亜の後を追って南方扉から出た。


A-8


扉の前には、旅行鞄や椅子で簡易バリケードが築かれていた。

煙草を吸い終えた野田は、突然ベッドに飛び込んだ。かと思うと突然狂ったように奇声を発しながら拳でベッドを叩き続けていた。



A-7


斗亜は部屋に戻り照明をつけると、書き机の前に腰掛けた。端に置かれた小包から向日葵の種をいくつか取り出すと、籠の中のちょこまかと動くハムスターの前に掌を差し出した。

何粒かを餌入れに入れると再び鍵を閉め、そのまま後ろのベッドに倒れ込んだ。


A-5


哀都は部屋の角に位置するベッドの上で体育座りのような格好で固まっていた。

その後、四つん這いで地を這うようにドアの前まで移動すると、少し開いた扉の隙間から右手を伸ばし、布に被せられていたお盆を部屋の中に引きづり入れた。


廊下


南方扉が開き、尾崎が現れた。

そわそわと左右に首を振りながら、自室の方へ歩いて行く。

途中A-5号室の扉が開かれたことに気づき、一瞬たじろいだが、そそくさと部屋に戻って行った。



A-6


部屋に戻って扉を閉めた尾崎は、一度扉を少し開けて廊下を垣間見た。

再び鍵を閉まると、入念に鍵を下ろした。

その後トイレと風呂場を覗くと、煙草の煙を吐き出しながら肩を竦め、書き物机に腰掛けた。



A-2


使用人は部屋に戻って入念に鍵を下ろすと、その場に崩れ落ちた。

しばらくの間両手で頭を抱えたまま宙を見据えていたが、その後立ち上がって顔を上げると、その表情が一瞬にして驚愕と恐怖の混じったものへと変わった。背後のドアに向かって身体を翻そうとするが、そうする間もなく、後ろから伸びた手によって口全体をテープのようなもので覆われ、扉に後頭部を叩きつけられる。扉に凭れ掛かるようにして地に腰を落とした使用人には既に抵抗する気力は残っていないらしく、涙の浮かんだ目で、目の前で粗い呼吸を続ける人間を呆然と眺めている。そうして使用人はそのまま、諦観した面持ちで、掴まれた腕の先を最後まで見つめていた。


居間


午後八時、館中にチャイムが響いた。しかし、これまでとは違いそれに続くアナウンスはない。

その約五分後、尾崎が北方扉を開いたと同時に、南方扉が開かれた。

「あっ、斗亜さん。さっきのチャイム、夕食の時間を報せるものですよね」

「僕もそう思って来てみたんですが、郡さんはまだ来ていないようですね」

中央のテーブルに向かって歩みを進めながら、斗亜は答えた。

「まだ用意をしているのかもしれませんね……」

そこで、また尾崎の後ろの扉が開かれた。

「お、生きてたか……」

野田はテーブルに座った二人に気づくと、そう呟いた。

「えっ、野田さん、生きてたかってどういう意味ですか」

尾崎は細い目をさらに細めながら云った。

「いや……実は俺、昨夜の夕飯の後、酔ってたせいもあってか、居間を出た後自室と反対方向に進んじゃってて・・そこで、ふとご主人の部屋から声が聞こえてきたんで、ちょっと盗み聞きしちゃったんだよ……すみません斗亜さん、勿論最初からそのつもりで行ったわけじゃなくて……あの時は酔っ払ってたんで」

野田は話の途中でふと我に返り、申し訳なさそうな顔で斗亜の顔を伺った。

「別に僕は構いませんよ、それより続きを」

「はい、それで……郡さんと話していたんだと思うんですけど、その時に__これから一人づつ___みたいなことを云っているのを聞いたんです」

「えっ、どういうことですかそれ」

「いやぁあの時は、1人ずつ選抜から落とすみたいな意味かと思ったんだけど、今朝和香さんが死んじまった時にその言葉を思い出して……」

「冗談ですよね、ご主人が和香さんを殺したと……?」

「それはわかんねぇよ」

「野田さんが昼食を食べなかった理由もそれですか」

「どういうことですか、斗亜さん」

「祖父が和香さんを殺した犯人であるとするならば、昨夜祖父が話していた相手である郡さんも共犯である可能性が高い……と云うことですよね」

「本当にすみません、斗亜さん。あくまで可能性の話だったんで、本当かも分からないのに斗亜さんに教えると云うことは……ねぇ」

野田は申し訳なさそうな表情で、怒りを露わにした尾崎の横に座る斗亜の機嫌を伺っていた。

「まあ結果事なきを得た訳ですし、尾崎さんも水に流しましょう」

「はあ……・そうですね……それより、郡さん遅いですね」

「そうですねぇ、アナウンスも無かったですし、郡さんの部屋を見に行った方がいいのかもしれない」

「行ってみましょうか」

翳を含んだ表情でそう云うと尾崎は席を立ち、斗亜と野口もそれに続いて北方扉を開いた。


廊下


尾崎と野田はA-2号室の扉越しの中に何度か声をかける。

「おかしいですね、中にいないんでしょうか」

「まだ主人の部屋にいるんだろう、チャイムは鳴ったんだから」

「いや、祖父の部屋にも居ませんでした」

隣の部屋から戻ってきた斗亜は肩を竦めながら云った。

「どうして……えっ」

尾崎はドアノブを握った手を横に回す。

「まただ……空いてますよ」


A-2


徐々に開く扉の隙間から、使用人の姿が見えた。

ベッドの傍に倒れ込むように横たわり、開かれたままの双眸は虚空を見つめている。

「郡さん」

斗亜はすぐさま横たわった使用人の側に膝をつき、歪んだまま固まった口許に耳を近づける。

「……もう息をしてません・・」

「嘘だろ……本気に死んでんのかよ」

野田は愕然とした面持ちで、使用人を見下ろす。

「もしかして、また自殺……」

尾崎はベッドの傍に投げ出されていた注射器を拾い上げた。

その容器の中には、まだ少し透明な溶液が残っている。

「今はまだ分かりませんが……見てくださいここ、左腕の肘関節の内側、肘窩に注射痕が。この注射が死因になっているのかもしれません」

「おいおい、本当にご主人が殺してんじゃねぇのか、これ……」

「そうだ、哀都君。哀都君は?」

尾崎は突然顔を上げて、部屋の外の方を見た。

「様子を見に行った方が良さそうだ。ただ、今の彼の状態を見るに、郡さんのことはまだ伝えない方がいいでしょうね」

「僕先行きますよ。行きましょう、野田さん」

「えっ、あ、ああ」

尾崎の黙祷を真似るようにして野田も手を合わせ、早足で部屋を出ていく。

斗亜は小さな遺体を担ぎ上げてベッドの上に丁寧に寝かせる。棚の中に仕舞われていた白いハンカチで遺体の顔を覆うと、黙祷を捧げて早足で部屋を出た。


廊下


早足でA-5号室の前まで向かった二人は、そこでまた大声で哀都の名前を呼ぶ。

野田は何度も扉を叩くが、返事は無い。

「もしかして……哀都君も、もう……」

尾崎は両手で頭を抱えながら、開かずの扉を呆然と眺める。

遅れて哀都がやって来たと同時に、扉の向こうからカップがぶつかるような音が聞こえた。

次第にこちらに向かって近づいてくる足音。

目の前で足音が止まったと同時に、内側から鍵が外され扉が開いた。

「何ですか、何かありました?」

無感情な眼差しでこちらを見据える哀都は、抑揚のない声で云った。

三人の口から安堵の溜息が吐き出される。

「何だよ……居るなら早く出て来てくださいよ」

野田は呆れ顔で哀都の顔を見返す。

「どうしたんですか……」

哀都は視線を足元に向けながら、今一度口を開いた。その目の下には隈が出ている。

「実は……郡さんが……」

尾崎はまたぞろ不安げな面持ちを顔に貼り付けながら、口を開く。

「いや、何でもないんですよ、哀都君。体調が良くなったらまた、居間に顔を出してくださいね、それじゃ」

斗亜はそう云いながら、哀都の肩越しに部屋の中を覗く。

書き物机の上に置かれたお盆。その上の食器は空になっている。どうやら、食事は終えているらしい。

哀都は廊下に立つ三人に無感情な眼差しを向けたまま、ばたりと扉を閉める。そして、すぐに扉越しに鍵の下される音が聞こえた。

「哀都君、あんなに目を腫らしておきながら、しっかり飯は食ってましたね」

使用人の部屋に向かって廊下を左回りに歩く道中、野田はぎこちない笑みを浮かべながら云った。

尾崎は呆れ果てたように軽く溜息を吐くと、

「そんなことはいいじゃないですか、それよりどうします?もう二人が亡くなっているんですよ。それなのに、ご主人はまだ現れない」

「そうですね、既にもう二人が亡くなっている以上、冗談では済まされない」

「今一度使用人さんの遺体を確認しに行きましょうか」

尾崎の提案で三人はA-2号室に着くと、先頭に立った斗亜がポケットから鍵を取り出し、ドアノブの下の鍵孔に差し込む。カチャっと音がした後、扉が開かれる。

そこで、三人の口から同時に驚きの声が漏れ出た。

……ない。そこに存在するはずの遺体が。つい先ほど斗亜の手によってベッドに寝かされ、顔が白いハンカチで覆われた使用人の遺体がそこには無かった。ベッドには先程までここに寝かされていたことを裏付けるような、若干の温もりと表面の沈みが残っているが、遺体はおろか、顔を覆っていた純白のハンカチすら見当たらない。

「もう訳がわからん。何が起こってんだよ。どこに消えたんだ、あの使用人はよ」

誰もいない部屋の中を見つめながら、野田は頭を抱える。

「やっぱりここがA-2です。どうなってるんだ……」

一度表札を確認するため部屋を出ていた尾崎が、困惑した表情で部屋の中に戻ってくる。

部屋を出て右手には、本棚に挟まれた玄関口が確かに見える。

「完全に消えた。それこそ、祖父のように。さっきこの部屋を出る時、僕は確かに鍵を掛けました。僕が鍵を持っているのだから、誰もこの部屋には入ることはできませんし、仮にあの時に部屋の中に隠れていて僕が部屋を出た後に遺体を外に運び出したとして、外側から鍵を締めることはできないはず……」

そこで、尾崎はハッと何かに気づいたように顔を上げ、すぐさま部屋を出た。

「お、おい、尾崎。どこ行くんだよ」

という野田の言葉に振り向きもせず、廊下を駆けていく音だけが聞こえる。

「偶然自殺が重なっただけなんじゃないすかね、斗亜さん……」

野田はぎこちない笑みを浮かべながら、額に流れる脂汗をハンカチで拭う。

「それならいいんですがね。しかし、祖父が消え、遺体まで消えたとなると、そこに何か恣意的なものを感じてしまうんです」

そこでまた、肩で息をした尾崎が駆け足で扉の前に現れ、扉を右手で掴んで粗い呼吸を繰り返しながら、

「やっぱり……和香さんの遺体も無くなってます」

と、神妙な面持ちで呟いた。

「はぁ?彼女まで?こりゃ一体どういうことなんだ」

野田の脳は既に容量が限界を超えているようで、両手でしゃにむに頭を掻きむしっている。

「え……もう何が何だか……」

斗亜も予想外の出来事に頭を抱え、呆然と足元に目を向ける。

尾崎はようやく落ち着き始めた上体を上げて、

「一刻も早くご主人を探しましょう」

と、震える声で云った。


居間


再び、哀都の部屋意外の全ての部屋を確認するも、二人の遺体はどこにも見当たらない。

三人は意気消沈した様子で居間へ戻ると、中央に置かれたテーブルの周りに腰掛け、各々が無言で煙草を吹かす。その暗鬱とした雰囲気を払うように口を開いたのは、尾崎だった。

「二回も自殺が連続するなんて、有り得るんでしょうか」

斗亜は軽く咳き込みながらも、煙草を吹かすと、

「和香さんの遺体を発見してしまい、それに続いて長年仕えた主人が忽然と消えてしまった。これまで経験したことのない恐怖や不安に負け、自ら命を立つ選択を取ったのかもしれません。見たでしょう、和香さんの遺体を発見してからの彼女の憔悴ぶり」

尾崎は納得していない様子で首を傾げた。

「自殺だったとしても、何故郡さんは注射器や致死性の薬を前から持っていたんですか」

「それは僕にも分かりません。祖父の使用人と云っても、会うのは一年の内、この館で過ごす三日間だけ。祖父に会うのもその三日間だけですから、彼らが一体どのような事を考えていたのかなんて検討もつかない」

そう云うと、斗亜は尾崎に向けていた視線を外し、今一度溜息のように紫煙を吐き出す。

「自殺な訳ないじゃないですか。明かに他殺ですよ、他殺。遺体が消えたんだから……もしかして……俺達が部屋を出た後に、斗亜さんが使用人の遺体をどこかに隠したんじゃないんですか」

野田はぎこちない笑みをだぶついた頬を浮かべながら、流し目で斗亜を見遣る。

斗亜は手を振りながら、悠然と否定した。

「勘弁してくださいよ。僕はそんなことしていません、大体僕が部屋から遺体を移動させて隠す時間なんてありませんよ」

「確かに僕と野田さんが哀都君の部屋に着いてから、一分も経たない内に斗亜さんも来ましたから。そんな時間で遺体を隠せるとは思えませんよ」

「それに候補者を減らすという目的なら、まだ和香さんの殺害は分かるとしても、わざわざ使用人である郡さんを殺す意味がありません」

「まあ、そうだよな……すみませんね、斗亜さん」

野田は首を回しながら不満げにそう呟くと、ポケットから次の一本を取り出す。

三人の間に重たい沈黙が生まれ、煙草を吐き出す溜息のような音のみが響く。

ややあって野田が「ハッ」と顔を上げ、横を向いていた上体をテーブルの前に戻し、

「分かった、分かったぞ」

と、驚いた顔の二人を交互に見ながら、

「これも選抜の一環だ」

自信満々に云った。

「と云うと?」

斗亜は漫然と吹かしていた煙草の手を止めて、野田に尋ねた。

「ほら、全て選抜のための試験なんですよ」

「どう云うことなんですか、野田さん」

正面から見据える尾崎に対して「まだ分からないのか」というような侮蔑の視線をくれながら、野田は続ける。

「だから、二人は死んじゃいないんですよ。ご主人が選抜の一貫で二人に死んだふりをさせて、僕達がどのような対応をするのかを見てるんですよ。和香さんの遺体の確認したのはあの使用人だし、使用人の遺体の確認だってまだしっかりとはしていなかった。斗亜さんは息していないとおっしゃってましたけど、それも息を止めるかなんかしてただけっていう、至って簡単なトリックですよ。どうせ和香さんに関しても最初からサクラとしてこの館を訪れ、あの自殺も何かしらのトリックを使っただけっつう話です」

野田は「どうだ」というような表情で、再び二人の顔を交互に確認する。

「成程ぉ、それなら遺体の消失の説明もできますね。遺体役の人間が自分で部屋を出て、どこかへ隠れればいいだけですし、ご主人のマスターキーがあれば施錠も可能です」

尾崎は随分と感心した様子で、顎を手で触りながら中を見据えている。

「確かに、なら僕達はこれ以上心配する必要はない訳ですね」

斗亜と尾崎は安堵した面差しで、椅子の背もたれに凭れ掛かる。

「いやぁ、我ながら名案が閃いたものですわぁ」

野田は満足げな面持ちで立ち上がると、簡易冷蔵庫まで足を伸ばし、缶ビールを二本取り出して席についた。それを力強く開けると、一気に喉に流し込んでいく。

「なんか安心したからか、腹減ってきたな。なんか用意してくれないか、尾崎」

「えっ、ああ、そうですね……僕達の様子もご主人は把握してくれているんですよね。なら僕達はこのまま過ごしていればいいんですよね……」

尾崎は自分に言い聞かせるように呟きながら席を立ち、南方扉の横のキッチンに歩みを進める。大型冷蔵庫の横に積み重ねられた段ボールの中を探りながら、「カップラーメンがありますよ、これでいいですか?」と、テーブルの方へ顔を上げて尋ねた。

「それでいいや」

「しかし、何でカップラーメンなんかあるんすかね?」

尾崎はポットの中に水を注ぎながら、独りごちた。

「僕のために用意してくれたんだと思います。好き嫌いが多くて、食べられないものも多いので、毎年僕がこの館に来る時は、郡さんが買ってきてくれてるんですよ」

「へぇ、しかし丁度いいですな」

徐々に沸き立つポットの音をBGMとして緩やかに煙草を吹かしているうちに、尾崎によって三つのカップ容器が差し出された。三人は各々のタイミングでカップを開き、殆ど一瞬で平らげてしまった。

「くぅ、まだ全然足りねぇな」

野田は気持ちよさそうにビールを流し込みながら、そう呟くと、

「尾崎、冷蔵庫にツマミないか?それと、ビールも」

二席隣で食後の一服を吹かしている尾崎に向かって云った。

「自分で確認してくださいよ」

「チッ、使えねぇ奴だなぁ」

野田はそう吐き捨てながら席を立ち、ふらつく足取りで歩き出すl

野田は膝を曲げて、冷蔵庫の中を覗き込みながら

「おお、あるじゃねぇか」と呟くと、

「斗亜さんも一杯どうです?まだ足りないでしょう」

野田は顔を上げて、今しがた食事を終えた斗亜に向かって尋ねる。

「遠慮しておきます。申し訳ないですが僕酒も駄目なんですよ。それにハムスターに餌をやらないと」

斗亜はそう云って立ち上がると、汁だけになった容器を持ってキッチンに向かい、溜まった食器類を洗い始めた。

「そうなんですか。おい、尾崎。お前はいるのか」

野田は、目の前を通り過ぎる斗亜に向けていた視線を、テーブルの方に尾崎に戻した。

「僕も遠慮しておきます。昨日飲みすぎたせいで、今朝かなり気分悪くて」

その言葉に何も返事することなく、一度舌打ちをすると、野田は何本かの缶ビールや酎ハイを小脇に抱えながらテーブルに戻っていく。

「そういえば、哀都君の夕食どうしましょうか」

尾崎は吸殻を灰皿に落としながら、今思い出したように云った。

「ああ、完全に忘れてたな。まだ、二人の死も演技だったってことも伝えてないしよぉ」

「……もし、演技なんかでは無かったら……どうします……」

尾崎は突然声の調子を落とし、視線を手元の煙草に落としながらぽつりと呟いた。

「は?何云ってんだお前。さっきそれで纏まったじゃねぇかよ」

「まぁ、そうですが……」

尾崎は再び視線を上げ、ポットを沸かし始めた斗亜の方を見やった。

「念の為、彼には言わないほうがいいのかも知れません。実は生きてた、ならいいんですが、万が一その逆となると失望の度合いは計り知れませんから。彼の夕食は、僕が同じカップラーメンを持っていきますから」

「それがいいですなぁ」

そんなこと気にも留めないという具合で、野田は二本目の缶酎ハイを上機嫌に煽る。

「ではお願いしますね、斗亜さん」

「はい、では失礼します。念の為にも戸締りは入念にしてくださいね」

お湯を注いだカップ容器をお盆で運びながら、斗亜は南方扉から出ていく。


廊下


南方扉を出た斗亜は左に折れ、〔A-5〕号室の扉の前で足を止めると、ノックをして中に声をかける。中から返事が聞こえると、扉の前にお盆を置いてもう一度声を掛け、そのまま廊下を時計回りに歩いて自室に戻って行った。


〔A-7〕


斗亜は扉を開けて中に入ると、一度首だけを外に出して廊下を確認し、入念に鍵を閉めた。その後、書き物机の前の椅子に座って、籠の中に向日葵の種を放り込むと、風呂場へと向かった。


居間


何本か煙草を灰にした尾崎は、目の前に散らかった容器やカップ、ワイングラスをお盆に乗せると、煙草を吹かしながら立ち上がってキッチンの方へ歩き出した。

背後で空になった缶を投げ捨てる野田の、

「お前まで戻んのかよ、つまんねぇな」

と云う言葉に曖昧に返事をしながら、シンクで皿洗いを始めた。

「まだ選抜は終わった訳じゃないんですから、ではこれで」

尾崎は、テーブルで上機嫌にワインを注ぐ野田から死角になるように、自分の身体で隠しながら右手でキッチンの引き出しを開け、そこから果物ナイフを取り出す。

そのまま目の前の南方扉まで進むと果物ナイフを左手に持ち替え、右手でドアノブを回して居間を出た。扉が閉まった音で漸く尾崎が居間を出たことに気づいたらしい野田は、一度舌打ちをすると、目の前に散らばったゴミをそのままに立ち上がり、ふらついた足取りで簡易冷蔵庫へと向かった。そこから何本かの缶を取り出して小脇に抱えると、何度も縺れそうになりながら北方扉まで向かい、居間を後にした。



A-8


目。真っ過ぐにこちらを見つめる目。赤く充血した目を完全に見開き、その瞳孔に自分の顔が反射しているのが分かるほどに顔を近づけ、焦点の定まらない眼球を何度も中心に戻しながら、見下すような角度で凝視している。目の前の野田は、真鍮製の狸の像を握った右手をそのまま頭上に振り上げると、力任せに垂直に振り下ろした。


A-6


尾崎は部屋へ戻ると、すぐさま鍵を下ろして部屋の電気をつけた。

そうして、書き物机の前まで向かうと抽斗を開け、左手に握った果物ナイフを慎重に置いた。その後、奥の風呂場とトイレまで進んで中を覗き込み、一度溜息をついて書き物机についた。何本か煙草を吸い終えると、スーツの内ポケットからメモ帳を取り出し、一心不乱に何かを描き続けていた。途中大きな音に顔を上げて壁に耳を近づけていた。


その隣の部屋では突然電灯が消え、目の前が真っ暗になった。斗亜は突然の事態に酷く焦りを覚えながら手探りでスイッチを探す。どうやら今左手に触れているのは書き物机の天板のようで、その辺りにあるはずの照明ランプを探す。漸くそれを見つけ、ランプの紐を引っ張って朧げな光が灯ったと同時に、右の掌に激痛を感じた。漸く機能を取り戻した視界をすぐさまその方に向けると、卓上に置いていた右手には果物ナイフが刺さっていた。そのナイフの柄の部分にはそれを握った右手があり、ランプの光が満足に届かない背後の暗闇まで伸びた腕がある。絶叫が喉から出る間も無く、舐めるように視線をその顔に当たる部分に持っていった所で右手を貫いたナイフが引き抜かれ、その鋒が再び斗亜に向かって振り上げられた。

「あ……」


廊下


部屋から出てきた尾崎は、しきりに首を動かしながらそわそわと廊下を反時計回りに進んでいく。その内、扉の空いたままになっている部屋で顔だけを出して中を覗く。そうして、もう一度左右を確認した後、尾崎は右手に果物ナイフを強く握りしめながら、部屋の中に入り込んだ。


A-8


消されていた照明を付けた尾崎は、膝を曲げて重心を落としながら、慎重な足取りで部屋の中へ入っていく。

この部屋を使用しているはずの野田の姿はどこにもなく、ベッドの横を通って部屋の奥、ユニットバスのある最奥部までゆっくりと進んでいく。次の瞬間、突然尾崎はそこで歩を止めた。目の前に一瞬人影が見えた。右手に進めばユニットバスがある突き当たりの壁の狭間、本来なら、ただ壁があるはずの部屋の隅に、さらに奥の暗闇へと続く通路が見える。そして今確かに、暗闇に紛れた通路の陰からこちらを覗いている人影が見えた。尾崎がそう思い返すと同時に、通路の奥から、自分から逃げるように離れていく足音が聞こえてきた。束の間の躊躇の末、尾崎はしっかりとナイフを握ったまま一歩を踏み出し、その足音を追って、人ひとりが何とか通れる幅の通路を進んでいく。


通路


尾崎は未だかつてない緊張で震えの止まらない身体を奮い立たせ、半ば駆けるように通路を進む。どこにも照明のようなものはないらしく、どこかから漏れたぼんやりとした灯りだけが、かろうじて先を照らしている。

上下左右を無機質なコンクリートで覆われたその道を五、六メートル進んだ所で、これまで一直線に伸びていた通路が突き当たりにぶつかり、そこから、ほとんど直角に道が左右に二分されていた。これまで前方から響いていた足跡は既に消えており、尾崎は逡巡の末、まだ灯に照らされて明るい右手に折れた。

先程のものの二倍ほどの広さになった通路を進んでいく内に、尾崎は気づいた。初めは道が直角に折れていると思ったが、どうやらこの道は何十歩か進むごとに約三十度右に折れているようだ。そして、ちょうど折れる各地点が、先程自分が野田の部屋から進んできた際にぶつかったような突き当たりになっており、そこで曲がれば内側に位置している部屋に繋がっていると考えられる。

尾崎は確信した。この通路、あの居間を囲う廊下と同じように、七部屋で構成された正八角型の外周を囲うようにして作られた、もう一層の廊下なのだ。初日にこの館について説明された際、外層は埋め立てたられたと説明されたが、実際はこのように隠し通路として使われていたと云うことか。

しかし、その通路の両側は、相変わらず無機質なコンクリート質の壁で挟まれている。

そこで、尾崎は半ば自動的に、今まで見逃していた見解に達した。

……二人は自殺でも死んだふりでもなく、確実に誰かによって殺されていたのだ。恐らく、この隠し通路は全部屋に繋がっており、普通では絶対に気づくことのできない奇抜な仕掛けを作動させることで、部屋の内側からも外側からも、隠し扉を開けることができるのだろう。二人を殺した犯人は、隠し扉や隠し通路……そして、この隠し廊下を使用することで、自由に各部屋に侵入することができたに違いない。だからこそ、一瞬の内に遺体を部屋から隠すことができたのだ。

加速度的に血が巡り続ける頭の中でそのようなことを考えながら、何回目かの微曲線を曲がる。

目の前を照らす光は、ちかちかと断続的に明滅を繰り返す橙色の灯りのみで、足元がかろうじて見えるか見えないかと云う具合である。山道の途中に突然現れる心霊スポットのトンネルを、そのまま小さくしたような通路だった。

ふと、そこで尾崎は歩を止めた。何かが軋むような異様な音が、コンクリート質の両壁に反響して聞こえてきた。鴉の鳴き声のような不快な音に一瞬の内に全身が粟立ち、これまで何とか動かしていた両足が勝手に竦む。

なんとか自分を鼓舞し、右手に握ったナイフを今一度強く握りしめながら、尾崎は首だけを角から出し、次の直線を覗き込み……目を細め、暗闇の中に浮かぶシルエットを凝視する。やがて尾崎は直ぐに顔を戻した。

ただでさえ薄暗闇の中に、その場凌ぎのようにポツンと点けれらた豆電球の弱々しい光。

向こうの灯がちょうど逆行となって、ぼんやりとしたシルエットでしか見えないが……

あれは……壁際に倒れ込むように横たわる人影。それも一つではない。酒に酔いつぶれた人間が道路脇に倒れ、そのまま眠ってしまったかのように地面に平伏す、二つの影。

尾崎は意を決して角から飛び出し、隅に追いやられた二つの影に近づいていく。

二つの物体の奥からは、豆電球の橙色の光とは異なる、蛍光灯のようなくっきりとした白色の光がどこかから漏れていた。それが逆光となって、目の前の影の正確な判別ができない。意識的に足を交互に前に出し、漸く二つの物体がまともに視認できるようになる。向かって左側、この館の外側に当たる壁際で倒れる二つの物体を右から回り込むような形で進みながら、朧げな白色の光に照らされた面を覗き込む。

尾崎はそこで唇をきつく噛み締めながら、瞳を強く閉じた。

これは……やはり、あの二人の遺体。首を括った青治和香に、注射痕のあった使用人郡の……やはり、死んだふりなどでは無かった。そんな甘い現実など、どこにも存在しなかったのだ。

尾崎は改めてそう確信する。目の前の現実から目を背けたいがために、野田の都合の良い解釈に流されてしまった己の安易さを呪いながら、尾崎は今一度閉じていた瞼を開いた。

ふと、二つの遺体が並んだ突き当たりの先に、四本目の通路を発見した。先程まで何度も通り過ぎたT字型の突き当たりには無かった、館のさらに外側に伸びた四本目の通路が目の前の突き当たりには存在し、そこだけが十字路となっている。

恐る恐るその角まで歩みを進め、壁に身体をピタリとくっつけながら、慎重に顔だけを出して通路の先を確認する。その先には扉があった。あの七つの客室と同じ造作の木製の扉。それが、今少し開かれており、その隙間から蛍光灯の煌々とした光が漏れ出している。それが、コンクリート質の壁面に反射して二人の遺体までを照らしていたようだ。右手でナイフを握り直しながら、足音を立てないように細心の注意を払って扉まで足を進める。「B-3」の札が貼られた扉に左手を掛け、ゆっくりと中を覗き込む。

暗闇に慣れた視界に突然降り注がれる強烈な光、その隙間に捉えたあれは……ご主人?

蛍光灯はどれ一つ点けられていないのに、客室と同等かそれ以上に眩く照らされた部屋の中央には、丁度逆光になる形でこちらを背にしたまま動かない、車椅子に座った人間の輪郭があった。

尾崎は意を決して扉の影から身体を出し、

「……ご主人なのですか……」

そう問いかけるように呟きながら、部屋の中に足を踏み入れる。

しかし、返事はない。それでも、尾崎は慎重な足取りで一歩ずつ進んでいく。

「どうしたんですか、ご主人……」

今一度右手でナイフを握り直しながら、目の前の人物を窺うように再度声を掛けた。心臓の鼓動は今や最高潮に達しており、体内のあらゆる神経が、目の前の人間に向かって注がれる。

煌々とした光に照らされて見えるのは、完全に白に染まっているものの、抜け落ちることなく肩まで隠すほどの長髪。間違いなくあれは昨日見たご主人、落合智弘だ。

尾崎は車椅子の右側をゆっくりと回りながら、顔を覗き込んだ。

「うわぁ」

無意識にそんな言葉が尾崎の口から漏れていた。

車椅子に座った人間は、確かにご主人、落合智弘だった。

確かに……しかし、その顔には今や、「苦しみ」と云う言葉を体現したような醜悪な表情が張り付いて固定されていた。

次に、その下の首にきつく巻き付いた紐のようなものが目についた。

死んでる……いつだったのかは分からないが、ご主人も既に何者かの手にかけられていた。突然流入してきた情報に脳は拒絶反応を示し、尾崎はそこで呻き声にも似た喘ぎを発しながら、条件反射で瞼を閉じた……と、そこで背後から地面の擦れる音がした。

尾崎は即座に、悪寒が走った身体を翻すが……

尾崎の意識は、事態を認識する間も無く、背後から振り下ろされた鈍器によって完全に機能を停止した。



その後犯人は、他の生存者全員の殺害を完了し、犯行を終えた。



追記


三 文中で描写された通り、犯人は、館を外側から囲うように張り巡らされた隠し通路、及び隠し扉を毎度使用して殺害を行いました。また、各部屋の内側にも隠し扉を開く仕掛けが存在し、誰しもが偶然その仕掛けや隠し扉の存在に気づく可能性がありました。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ