スノーフレーク
この国には、年に一度だけの特別な天気がある。
聖女様の祈り、と呼ばれるそれは小さくて白くて冷たくて、空から雨のように降ってくる。けれど、雨のように体を濡らすことはなくしんしんと、静かに地面に降り積もっていく。
暖かい部屋のなか、母が用意してくれたココアを飲みながら窓を眺めていた時は、年に一度という特別なものだということもあり、はらりと舞う白いかけらを飽きることなくずっと目で追い続けていた。
けれど、外に出てみると寒いし冷たいし、いいもんじゃないな。
「ほら、これ持ってさっさと出ていけ!」
「ごきげんよう、お義兄様。もう二度と会うことはないでしょうけれど。聖女様のご加護がありますようにお祈りいたしますわ」
「さ、ジョアンナ。体が冷えるだろう? 今日はお前の好きなディナーを用意したよ」
「ありがとうお父様! 嬉しいわ!」
何がディナーだ。何がご加護だ。人の家を乗っ取っておいて。そう思っても自分に力がないから今、俺はこうして辺りが白く染まる中、トランクひとつだけで追い出されて呆然と立ち尽くしているのだが。
結婚してからずっと働きづめだった父と母。貧乏貴族だからと笑っていたけれど、自分たちに使えるはずのお金を、領民のための家や領地を活性化させる事業に使っていたのを知っている。
馬車が余裕ですれ違える道を作り、雨風に耐えられるだけではないしっかりとした造りの家を建て。そうして、余裕が出てきたら娯楽や教育のための施設をつくった。そうして出来上がったのは、小さいながらも他よりも幾分か生活水準の高くなった領地。
だからこそ、俺は領民たちと一緒になって父と母に遅い新婚旅行をプレゼントした。
まさか、それが永遠の別れになるとは思わずに。
帰り道、突然の雨に降られぬかるんだ道で、馬が何かに気を取られて制御不能になったらしい。そうして、両親の乗る馬車は、深い谷底へ一直線。
……助かるはずもないだろう。それくらい、深い谷だった。その道を通ったのも、予定していた道がたまたま塞がれていたからの回り道だったそうだ。旅行に送り出してくれた俺や領民に、早く土産を届けたかったと言っていた。それは、最後に立ち寄った街で聞いた話。
「ははっ……こんなのじゃあ、罰にもならないよなあ」
両親が遺した家と領地。それを継げるだけの力量はまだ俺にはなかった。遠縁だといって家にやって来たジジイに強く出れなかったのがいけなかったんだろう。
あっという間に書類を書き換え、領地引き継ぎの手続きを終えたジジイは、いらなくなった俺を寒空のした、少々の荷物と共にほっぽり投げたというわけだ。
「父さん、母さん、ごめん。家も、領民たちも、守れなかったよ……」
「なにを守れなかったの?」
「……うわ、びっくりした」
「ねえ、守れなかった、ってなにを?」
こんな子供、領地にいたっけか。白銀の髪、金の瞳。一度見たら忘れないだろう色彩を持った子供は、俺の記憶にはいない。
それにしても、コートを羽織っている俺と違って、子供は薄着だ。指先が赤くなって動かしづらいくらい寒いのに、長袖のシャツしか着ていないなんて。
慌ててトランクを開けて、何か子供の防寒になりそうな物はないかと引っ張り出したのは、母のストール。質はいいけれど、少々古い柄でお気に召さなかったジョアンナが俺に投げつけてきたものだった。適当に荷物を突っ込んだはずなのに、このストールはどうしてか綺麗にたたまれてトランクの底にあった。
疑問に思ったけれど、今はそれを追求するより目の前の子供に暖を取らせる方が先だ。
「それより、これ被っとけ。寒いだろ」
「寒い?」
「それも分からないのか。ほれ、こっち来い」
この灰色の空の下、長い袖とはいえこんな薄いシャツ一枚だったら感覚もなくなるか。差し出したストールを手に、どうしたらいいのか分かっていなさそうな子供を抱き寄せる。
思っていた通り、肩を抱いた腕からひんやりとした感覚が伝わってきた。
膝の間で子供を挟み込むようにしてその場に座り込む。石段は冷たいけれど、それよりもストールに子供ごとくるまったことでじんわりと温かさが伝わってきた。さすが、母さんのストール。
「ねえ、取り戻したいの?」
しばらくの間お互いに話すことなく静かにただ、地面に積もった白いかけらを眺めていた。それは、いつかの幸せな記憶と重なる行動。
だからだろうか。子供からの問いかけに思わず頷きかけたのは。けれど、ハッとして緩く首を振ることで答えとした。
「いや、取り戻したところでどのみち俺じゃ扱いきれないだろうさ。領民たちが苦労しないんだったら、あいつでも……」
「でも、分かってるんでしょ? あのままだといつか苦しむって」
そう、まだ成人していない上に領地経営の勉強も出来ていない俺が継いだって、きっと皆に苦労をさせる。それだったら、書類を書き換えて領地を自分のものに出来たあのジジイの方が、まだ上手く経営するだろう。
そう考えることで、俺にしでかしたことと同じようなことをきっと領民にだってするだろうという不安を抑え込んだ、はずだったのに。
「だからって、未成年で後ろ盾も何もない俺に、今更何が出来るっていうんだ!?」
いっそ無邪気だと笑い飛ばしたくなるような子供の純粋な問いかけは、俺の中にあった精一杯の強がりだとか理解したふりをしていた良い子の仮面だとか、そういったものを全て吹き飛ばした。
そして吼えたのは、紛れもなく俺の心にあった本音。
話せばついてきてくれる領民はいるだろう。それくらいは、俺だってわかる。けれど、この先何も決まっていない未成年で領地も爵位もジジイに取られた俺についてきたら、そいつらのこれからはどうなる。自分だけならともかく、そいつらの人生を背負えるほどの覚悟など、俺にはない。
「作っちゃえばいいんだよ」
「……は?」
「なに、聞こえなかった? 作ればいいでしょ。住む場所。だって、あの子たちはそうしたよ」
「おいおい、子供は簡単に言うけどなあ。住む場所なんて、そんなほいほいと作れるようなもんじゃ……」
まるでままごとのような気軽さで作ってしまえばいいなどと、さすがに子供といえど冗談が過ぎる。直前の辛辣な言葉もあって、これはどこの子だろうと叱っておかねばいけないだろうと口を開いた俺の言葉を遮ったのは、一瞬前とは様変わりした子供の姿。
こちらを見ている瞳の金は俺の頭ほどに大きくなり、白銀の髪は体全体から発光しているかのような輝きで視界を埋め尽くす。
「ド、ドラゴン……!」
その姿は、絵本や小説に描かれているドラゴン、そのものだった。なんでこんなところに、とか人の姿になれたのかとか思うことはあるけれど、どれも言葉になることはない。
圧倒的な力を前にして何を言っていいのかが、分からないんだ。
「驚かないんだね」
「十分に、驚いてるけど」
「あの子は、この姿を見て叫び声を上げたよ」
ドラゴンになっても、表情が分かるなんておかしな話だと思うだろう。けれど、確かに俺はこのドラゴンがキョトンとした後に、懐かしそうに目を細めたのだと感じたんだ。薄着一枚で俺の前に姿を見せた子供が、そうしているかのように。
「あの子って、もしかして」
「あ、何か知ってる? それなら教えてほしいんだ。あの子、約束の日に会いに来てくれなくなったから」
あの子、たち。住む場所を作った。
これでも、領主の息子だ。他よりもそのような情報に触る機会は多い。そして、ドラゴンの言う事に思い当たるのが、ひとつだけある。
「この国の、王様と聖女様の事か?」
「そんな呼ばれ方してたかも。ねえ、何か知ってる?」
知ってるかと聞かれたら知っている。けれど、それはおそらく望んでいる情報ではない。
王様と聖女様の顔は、この国に住む誰もが知っている。どこに住んでいたって、一度は必ず見るからだ。教会に、石像が作られているから。二人の功績を讃えるためと、そして死を悼むために。
今の王様はその子孫だけれど、聖女様は代々、魔法が使える中で一番魔力の高い人を示す位に変わっていったから、血が繋がっているかどうかは関係なくなっている。
お二方に会う手段がないわけではないけれど、それはきっとドラゴンにとっての再会ではないのだろう。
さて、どう答えたらいいものか。悩んでいたら、ドラゴンがぶわっと翼を広げた。
「おい、いきなりどうしたんだよ?」
「……本当はね、何となくそうじゃないかなあって思ってたんだ」
翼を広げたのに、飛び立つ素振りさえ見せないドラゴンは、ぽつりと小さく呟いた。子供の姿に戻らないのに、その様子は膝を抱えているように見えて。
俺の倍以上は余裕であるのに、小さく見えるドラゴンにそっと寄り添って、言葉の続きを待つ。つるりと滑らかな肌は、相変わらずひんやりとしていた。
「どこにもいなくて、空に行ったら会えるかもしれないって飛んでたんだ。
でも、やっぱり見つけられなくて。そしたら、なんだかここがぎゅっと痛くなるの」
ほろり、と大きな金の瞳から涙がこぼれた。するとその涙は真っ白なかけらに変わって地面に積もる。聖女様の祈り、俺たちがそう呼ぶ白いかけらの正体は、このドラゴンが王様と聖女様を思って流した涙だったのか。
ここと示したところは、おそらく俺でいう胸の位置。子供の姿をしていたドラゴンは、無邪気でそのような感情なんて知らないように見えていたけれど。気付いてはいたんだ、その気持ちがどう呼ばれているのかを知らないだけで。
「な、お前の名前何ていうの?」
「え?」
「名前だよ、なまえ。王様と聖女様に呼ばれてたんじゃないのか」
さっきまでとは逆のような問いかけに、くすくすと笑いがこみ上げてきた。ドラゴンの姿をした子供は、そんなことにも気づかずにどう呼ばれていたのかなんて俺の問いに、必死で答えを思い出そうとしている。
「あのね、こう呼ばれてたよ――」
*
後から聞いた話。
ある国から一人の青年とひとつの名物が消えた。聖女と青年が興した国に降り積もる、真っ白な奇跡。けれど、それは突然消えてしまったのだと。王と聖女にどれだけ祈っても、その祈りは届かずに、辺り一面白く染まる光景は二度と見ることが叶わなかったそうだ。
「だってさ。何か知ってるか、スノウ」
「僕は知らないよ。そっちこそ、何か分かったんじゃないの。ラディ?」
にやりと笑い合った俺たちは、食事の礼を言って席を立つ。トランクひとつ、だけど、もう俺は立ち尽くしていない。住む場所を見つけて領民を連れてくるって目標も、出来たからな。それになにより。
旅の相棒が、あっちこっちへと連れて行ってくれるから。
お読みいただきありがとうございます。
この拙い文でも、どうかだれかの日常を感じられるひと時となりますよう。