第13四半期「エリカと大ナマズ」
彼らは夜を選んだ。
外は小雨だ。
ネズミのみちびきで、AZUMANISHIKIに忍び込んだ。
むろん、AZUMANISHIKIはホテルだ。
誰でも公然と入れる場所だが、宿泊客でもなく、まして就活生でない彼らはいついかなる状況でも怪しまれかねない。できるだけ、人目につかないよう行動したかった。
建物が変わっても、内装が変わっても、制服が変わってもAZUMANISHIKIはアズマニシキだ。ネズミはゴーダの少年時代からの親友だ。フロントに立つ従業員たちとは顔なじみだ。彼らの気を、ネズミが引いている、その隙にサカミと男はエレベーターに乗った。
従業員たちが不審がることはなかった。いや、もしかしたらわかっていて見逃がしてくれたのかもしれない。ゴーダと距離ができてからというもの、ネズミは彼らとも疎遠になっていた。AZUMANISHIKIそのものに近寄りがたくなっていた。
が、いざ話してみると、肩を叩かれる恐れがあるためおたがい率直な気持ちは打ちあけられないのだが、彼らは、きっとネズミと似たようなことを考えていた。それはつまり、似たような葛藤を、抱えているということだ。
サカミと男は水槽の前に立っていた。
ナマズは一瞬、こちらを向いた。しかし、すぐにぷいと知らんぷり。
「先般は大変失礼致しました」
と、きちんと頭を下げてわびるのだが、すこしも口をきいてくれない。
やむにやまれず、サカミはナマズにしてみればきっと放電ものの情報すら開陳した。
「――あなたは、解剖されてしまうのですよ」
そして力任せに水槽を持ち上げようとした。
が、二人がかりでもびくともしない。――もっとも、男のほうは力を込めているのか、どうなのか、といった感じではあったのだが。
ナマズはウンともスンとも言わない。
――裏切者、とでも思われているのかな。
サカミは一旦出直すことに決めた。
エレベーターを待っていると、誰か上ってくる者がいる。
とっさに身を隠した。
……ところにやって来たのが、エリカだったというわけだ。
そしてエリカがナマズと接触を持つにいたった経緯は、既述の通り。
――いや、わし思わず、声かけてしまったんじゃて!
と、ナマズは彼にしてみれば手狭に感じるであろう巨大水槽を右往左往しながら言った。
エリカのほうは、就活生たちからもうほんとうに嫌になるくらい彼のことなら聴かされていたから、今さら驚くこともない。
――本当はわし、もう、ひと言もしゃべらんつもりじゃったのよ! そしたらさ、「神」だなんてこんな畏れ多い扱いもそのうち収まると、そう思ったんじゃて! な? げんに就活生どもなんか、な? 昨日の今日でもう飽きを見せてる有様じゃて!
エリカは、自分のせいでもあるかもしれない、と思いながらうなずいた。
このナマズとの遭遇を不安に思った就活生たちは、その不安をすっかりエリカに打ちあけてしまうことで、今度はもうまるきり興味をなくしてしまったのだ。きっと。
――さっきもある男たちが来てさ、わしにいろいろ語りかけてくれるんじゃけれども、な? わしを、いろいろ助けてくれようとするんじゃけども、わし、もう、ひと言も喋らんじゃったて!
「助けてくれようとしたのに、ですか?」
――いや、わし、もう……いいんじゃて!
「いいっていうのは……?」
――いや、もう、……河に還りたいんじゃて!
「あれ……でもだから、その人たちは、そうしてくれようとしたんじゃないんですか?」
――いや、『コトバ』って難しい、な? わしが言ってるのはさ、あんたら流のイディオムで言うと、「土に還る」って意味なんじゃて!
「え? それって……死んじゃうってこと?」
――いや、なんのために婉曲表現用いたんじゃて! な? 察してくれて! ……そう、わし、もういいんじゃて! わし、ただのナマズにもどりたいんじゃて!
「もどれない、んですか……?」
――あんたもたいがい残酷じゃて! な? わしが、な? もどるやりかたを、もし知ってるんじゃったら、な? もうそれを、実践、してるはずじゃて。わしぜんっぜんわからんもん。なんでこんなんになっちゃったのか、な?
「でも……どうしてわたしに、声をかけてくれたんですか?」
――いやあんた、そりゃ……。
ナマズはくるりと一回転。
――……なんでじゃろうな? でも、あんなところに立ったら、いや、危ないて!
「わたし……なに考えてたんだろう」
まさか、飛び降りようだなんて、思ってなかったはずだけれど……。
――いや本当、厄介なものじゃて!
「え?」
――言葉なんて、厄介じゃて! いや、なんにも考えんでいられたころが、どれだけ幸せだったかて、そりゃ、言葉なんかじゃとても言いあらわせんて! 人間なんて、あれこれ考えすぎなんじゃって。人生なんて、な? 泳いで、魚食って、たまにビリビリしてるだけでいいんじゃて!
エリカは、黙っていた。
なにか、思い出せそうだった。
言葉……。
言葉……。
ナマズもなにか思い出せそうだった。
魚……。
魚……。
「あっ!」
――ああっ!
ふたりの声がぶつかった。
人間同士のような譲り合いは発生しなかった。自然界ではなにごとも早い者勝ちだ。ナマズが率先して話しはじめた。
――いや、今、思い出したんじゃて! 魚じゃて! 変な青い魚が、わしの河に迷い込んで来たんじゃて! わし、それ食ったんじゃって! それから、ひと眠りしたんじゃって! そんで、な? 目、醒ましてみたら……。あの魚、ふつうの魚じゃなかったて! 青くて、何だか、光とったって! とんでもなく美味そうに見えたて!
やっぱり、とエリカは思った。
いや、まだ確信というほどではない。しかしナマズが先にそう話してくれたおかげで、エリカの仮説はひとつ、裏づけを得たかたちだった。
「あの……わたしも、わかった気がするんです。青い光、それはきっと、ウツロニウムっていう……そういう、化学物質なんです。それと、どうむすびつくのはわからないんですけど……わたし、昔本でよく似たお話を読んだことがあって……本って、教科書とかじゃなくて物語なんですけど」
しかしナマズはまたぐるり。
――いや、全然わからんて! 少しも話しが見えてこんて!
「言葉を話す動物がいて……それでまた、もとの動物にもどっていくっていう、そういうお話だったような……」
あれはどの本だったろう?
どこで見たんだろう?
その物語と、ウツロニウムとの関連性は?
わからない。
でも……。
――いや、それは気になるけれども、百聞は一見に如かず、じゃて!
ナマズはもう立派にことわざまで使いこなしている。
エリカはうなずいて、
「とにかく、その本持ってきます!」
――あ、でも、な?
逸るエリカの背中に、ナマズは声をかけた。
――わし、もう、『解剖』されるんじゃって!
エリカは急いだ。
走った。
転んだ。
雨はいよいよ、本降りになってきた。
それでも、走った。
「かもめ亭」に向かって。




