第9四半期「会談、AZUMANISHIKIにて(前編)」
「……お口に合いませんか?」
菜の花色のソースがかかったバラみたいな前菜をナイフとフォークで優雅に切りわけながら、まだほぼ手つかずのエリカのバラを見て、花鏡院は尋ねた。
白いテーブルクロスのうえに、ナイフ、フォーク、スプーンがずらり。今宵のコースは、「ボッたくり」――ボッチ島の食材をたくさん使った料理――とのことだ。
これからまだ、こんなに運ばれてくると思うと気が重い。
「あ、いえ……あの、めずらしいお料理だから、よく見ておこうと思って」
「ははは」
目はほとんど笑っていない。
「……まず、目で味わう。美しさを玩味する。なるほど、それこそ『食』という営みのあるべき姿かもしれません。食事はもともと精励と人間との懇親会。聖なる意味を帯びた、『驟雨渇』的行為だったようですね」
こちらの専門を意識して、ということなのだろう。ワイングラスをゆらゆらさせながら話を振ってくれたけれど、
「……みたいですね」
あいにく、エリカに言えたのはそれだけ。
とはいえ、ただ黙っているのもつらくって、ぜんぜん好きでもないシャンパンに口をつける。それから、花占いでもするみたいに、生ハムを一切れずつ口に運んでいく。
――なんで来ちゃったんだろう。
アズマニシキ、改め「AZUMANISHIKI」最上階の展望レストラン。ふだんは就活生たちの懇親会や、異業種交流会、大企業のパーティなどで使われるらしい大きなホールに、何十席も設えられている。
でも、今は貸し切り。二人のほかには誰もいない。せいぜい、生演奏のピアニストくらいだ。
そのひとには悪いけれど、演奏に聞き惚れているふりをして、エリカはしばらくのあいだ気まずさを凌いでいた。魚料理を食べ終えるくらいまでは、それでなんとか間がもった。
でも、「ごろごろ豚の香草包み焼き、タラタラ牛を添えて」が運ばれてきたころ、最後の一曲が終わり、ピアニストは席を立ってしまった。
花鏡院は拍手もせず、真剣な顔でこっちを見ている。
いよいよ本題に入るのだろうか。エリカはそう思った。
――BOCCHI-21のことかな。
いちだんと、気が重くなる。逃げ場を求めて、さっき勧められるがまま頼んだ、ちょうどウツロニウムみたいな色のカクテルに口をつける。
ぜんぜん、おいしくはない。
花鏡院は、こう切りだした。
「……エリカさん。退屈ですか? 私と過ごす時間は。苦痛ですか?」
唐突な問いかけに、エリカはぎくっとしながら、
「あ……あの、いえ……そんなことは……」
と、あわてて誤魔化しにかかった。そんな様子を見て、花鏡院は、
「正直ですね、あなたは」
と、さみしげに笑ってみせた。
エリカは、なんだか無性に申し訳なくなった。
「あ、だから、わたし、そんな――」
「エリカさん。あなたは――」
いっぽう花鏡院はじっと冷静にエリカの目をのぞきこんで、こんなことを言いだした。
「どなたか、心に思う方がいらっしゃる。……当ててみましょうか」
「え? 思う人? そんな、わたしは――」
「……その方とあなたは……知り合って日が浅い……」
ちらりとエリカを見て、
「わけではない」
エリカはまた、グラスに手をのばした。そしてもう、あわてて一気に飲みほした。
すぐに、花鏡院がベルをならす。
「――同じものを」
所望のものは、すぐにきた。
「……その方は」
花鏡院はさっきの話をつづけた。
「あなたの……幼馴染みだ」
エリカはまた、どぎまぎ。
杯がまた、傾けられる。
「――ふふ」
花鏡院はエリカの目を見た。もうとろんとしている。
「わかりやすいお方ですね、あなたは」
「それって……馬鹿だ、ってことですか?」
ちょっとずつ、エリカは開放的な気持ちになってきた。
「なぜそんなことを?」
「……いいんです、わたし、馬鹿ですから」
「……大学で、学問をなさってるじゃありませんか」
「『お勉強』なんです、ただの」
エリカはまたひと口、飲んだ。
「ほう……?」
「みんな、そう思ってるんです。わたしはただの頭でっかちな、お勉強馬鹿だって。空理空論の、お花畑のお嬢さんで……社会では、なんの役にも立たない能なしだって」
「なぜ。……誰がそんなことを?」
エリカは頭を振った。
「言われなくてもわかるんです。……みんな、思ってるに決まってます」
「なぜ」
「だって、わたしは皆とちがうから」
花鏡院の興味深げなまなざしが突き刺さる。
しまった。
そう、思うことは思った。
でも、知らない。関係ない。そんな気持ちもどこかにあった。お酒のせいもあるだろうけれど、二次選考のとき、なにもかもぶちまけてしまったのだから、今さら隠す必要なんてないと、どこかやけっぱちになっていたのかもしれなかった。
花鏡院は、ほんのり上気したエリカの顔をよく見つめながら尋ねた。
「ちがう……とは?」
すると、なんだか不思議な気分がエリカを包んだ。
不安でも、警戒でもない。それは、あきらかに一種の安らぎだった。
話を聴いてもらっている。興味を持って、問いかけてくれている。話したい。ぜんぶ、打ちあけてしまいたい。
――そうよ。
ぼやけた頭で、エリカは思った。
もう、隠す必要なんてない。だってもう、誰に迷惑がかかるわけでもないのだから。わたしの周りにはもう、本当の味方なんて、誰もいないのだから。
「……わたし、就活ができないんです」
そうよ。どうせウツロ先生は知っているんだから。先生と花鏡院さんはビジネス・パートナーなんだから、いつ伝わったっておかしくない。
……そしてエリカはとうとう、なにもかも打ちあけてしまった。花鏡院は一見、親身にうなずきながら聴いていた。
告白がすんだとき、エリカは泣いていた。
花鏡院はハンカチとともに、こんな言葉を差しだした。
「……そう、ですか。そんな秘密を、ずっと抱えてらしたんですね。さぞかし、お辛かったでしょうね」
そんなふうに言われると、また泣けてきた。
そう、欲しかったのはこんな言葉だ。
アドバイス? そんなのいらない。励ましもいらない。
説教なんて絶対にほしくない。
わかってほしかった。
わたしの苦しみを、わたしの悲しみを――。
「でも、エリカさん。見方を変えれば、これはチャンスですよ」
「チャンス……?」
エリカはとたんに、がっかりした。
「あなたは病を抱えている。苦しみを知っている。だからこそ、人の苦しみに向き合うことができる」
いらだちを、エリカは感じた。なんて当たり前の意見だろう、と思った。うるわしくて、つめたい言葉。勝者からの共感は、いつもこんなふうに気に障る。
「エリカさん。あなたにうってつけの仕事があるのです」
失望は、深まるばかりだった。
「『傾聴』のことですか?」
「ええ。……傾聴は傾聴です」
「でもわたし、その件については――」
「……わかります、お辛いですよね」
こんな言葉にも、どれだけうんざりさせられてきたかわからない。ところが、
「こんな時に。……いえ、今に限らない。これまでにも、本当にお辛かったことと思います。あなた自身がいちばん苦しんでいるというのに、この世でいちばん、困難を背負っているというのに――」
この世でいちばん?
いきなり、そんなにまで言ってもらえると、ついさっきまで相手の対応をあれこれ不満に思っていた自分が急にちっぽけでわがままな心の狭い人間に思えてきた。
申し訳なくって、恐れ多くって、今度はエリカは、うんとじぶんを卑下したくなった。
「あの、『いちばん』とまでは、わたし――」
「いいえ、エリカさん。これは……一種のレトリックのようなものです。苦しみに限らず個人的感情は全て絶対的なものであって、相対的な尺度など通用しません。あなたが苦しみを感じる時その苦しみは世界最大の威力を持っているのです。ただ、別の一個人であるわたしの側からその苦しみの巨大さを表現するに足る言葉が見つからないので……どうにか表現に工夫を凝らしてみた次第でして」
エリカは無言で、目を泳がせながら、グラスに口をつけた。
「あなたは、本当に苦しんでいらっしゃる。そんなあなた自身こそ、『傾聴』を必要としている。それなのになぜそんな時に……他人の悩み事などに耳を傾けねばならないのか」
その口調は、ほんとうに憤ろしげに聞こえた。なにもそこまで、とエリカはしんそこ申し訳なく、居たたまれなくなった。
「お気持ちは、お察しします。いえ、察するに余りあるほどだ。……しかしエリカさん。もしあなたが……『語る』側だとしたら、どうされます?」
「わたしが、語る……? わたしの、悩みを、ってことですか?」
「そうです」
「それは……ダメです、そんな」
「なぜです?」
「だって、……就活生さんたちは、話を聴いてほしくてきてるのに……」
思った通りきわめて御しやすいこの女の、計算通りの心の迷いを見さだめて、花鏡院は、とうとう核心的なひと言を口にした。
「――虚人病」




