第8四半期「シズナの異変(後編)」
もくもくと、リョウは歩きつづけていた。
港についた日、コンサルタートルにみちびかれ、歩いた道だった。
やがて、橋を越えるころだった。ずっとむかしにも、こんなふうにおぶられ、ゆれていたことが……? そんな思いが、ぼやけた意識におとずれた。
――わたし……。
ほとんど言葉以前の、あいまいな想念が、あつまってくる。
――どうして、「エージェント」なんかになりたかったんだっけ……?
「あこがれ」。
結論ファーストで話すなら、先頭に立つのはまずそんな、こそばゆい言葉だろう。
戒儀室の祭壇の裏っかわ、宮塔室のすみっこ、通勤馬車の、幌の内っかわで――さくっ、とおばさん従業員の手づくり栄養補助食品をかじったり、ふうふう、あっつあつのエナジードリンクを啜ったりしながら、父にかくれてこそこそ読みふけった、「物語」のなかの「エージェント」。
格好よくってたまらなかった。
たくさんの驟雨渇生たちだけでなく、あのころは、別の名前でしるされていたはずの――しかし、もう誰にも、思いだすことはできない――レジェンド・リクルート、のような存在さえも支え、みちびき、精励たちと交渉しながら、「職」に就かせてしまう、異能の人びと。
……もちろん、シズナにだって、わかっていた。そんなの、本の中だけのお話だ。キョウカとくらべれば、劣等生のわたしだって、それくらい、当然わきまえていた。
――「伝承」と「物語」との区別はね、シズナ。きちんと、つけなければいけないよ。
お父様はわたしのいってみれば「悪癖」に、ちゃんと気づいていた。まだ、素顔だったころのお父様。肉体のあったころの、お父様。
――我々は、誇り高き、ホロウワークの一族。精励とコネクションを築き、四十営業日と四十時間の超過勤務にもわたる洪水から世界を救った――すなわち、全人類の「内定」を獲得した――はじまりの驟雨渇生の伝承を、ただしく、伝えていかねばならないのだからね。
……つまんない?
そう、もしかしたらその時は、そんなふうに思ったかもしれない。
だって、シズナの生まれたのは、仕事も、アイデンティティも、はじめっから、どうしようもなく、与えられてしまっている世界だったからだ。
奴隷は奴隷のまま、羊飼いは羊飼いのまま、商人は商人のまま、そして、貴族は貴族のまま、生まれ、死んでいく……。
――ちかごろ、妙な連中が増えてきたようだね、シズナ。恐れ知らずにも、シュウカツ生を僭称して、職業選択の自由をよこせなどと、傲慢もはなはだしい。我々は、精励たちの書く宇宙の履歴書の、ほんの一行のインクの染みにすぎないというのに。
――シズナ。こんな世にあっても……いや、こんな世だからこそ、我々は、いにしえの精励たちからの貴重な御伝承を、益々有難く拝聴していこうじゃないか。
その貴重な御伝承とやらが、もしほんとうに、ほんとうの話だったとして、そんなのは、もう何千年も前の、嘘みたいなむかしのことだった。
居場所をあらそって、戦う人びとがいたなんて。
戦って、勝ちさえすれば何者にでもなれたなんて――。
そんなの、無限に広大なページの外にどこまでもひろがる、研修、研修、懇親会、研修、研修、懇親会――そんなちっぽけなきらびやかさに彩られたシズナの毎日とは、なんの御縁もない、とっても素敵なつくり話にすぎなかった。
驟雨渇生も、エージェントもいない。
言葉で氷を砕く船だとか、全身氷のスフィンクス、そんな冒険なんて、なおさらありっこない――。
生きて、歳をとって、やがて死んでいくだけの、そんな日常。
――お姉ちゃん、今日の研修、また、居眠りしたでしょ。先生、あきれてたよ。
――いいのよ、「シュウカツ」のマナーなんて。今の時代、実際に使うことなんてないんだから。
――でも、大切な伝統よ。わたし、こういう家に生まれたものとして、語り継いでいく責任があると思うけどな。
――はいはい、キョウカは、お利口さんよね。……あーあ。私も、あと何千年か、生まれるのが早かったらなあ。そしたら、エージェントになって、すてきな驟雨渇生を――。
それが、ある日、こわれた。
偉大な、物語。
崇高な、活動理念。
正義の、旗印。
勇ましい、大演説。
群衆。
群衆。
群衆。
群衆。
新時代の旗手、――就活生たち。
「砲・煉・槍の徹底により、『都』はほぼ、焼け野原と相成りました」
「貴族、および反動派の皆様におかれましては、――誠に遺憾な結果と相成りましたね。来世でのご活躍をお祈り申し上げます」
「新たなエポックをメイクするためにしかたないとはいえ、お気の毒に存じますね。ところでこの共感力を生かし、わたくし、教会に就職を――」
そして――。
――シズナ。ご挨拶申し上げます。わたくし、本日付けでエージェントを拝命いたしました。
――キョウカ……? なんなの? どうしたの? その、喋りかた……。
――ご理解ください、シズナ。わたくしどもは、今後益々プレゼンスの向上に努めなければなりません。それも、隠然としたプレゼンスの。そのためには――。
――なによ。なんで、そんな呼び方するの? ねえ、キョウカ。「お姉ちゃん」でしょ? ねえ、お願い。
――……申し訳ございません、シズナ。貴意に、添いかねます。
「――エージェントさん?」
……知らぬ間に、なにか、つぶやいてしまったらしい。リョウが、心配そうに声をかけてきた。
目をあけたシズナの、暗くかすむ頭に、現実はぜんぜん、飛びこんでこない。
けれども、まるで大きなカメみたく、シズナの重さぜんぶを受けとめきっているこの背中の持ちぬしの、見ちがえてしまった頼もしさに、――ああ、と思った。
「わたし、あんたに」
シズナは、言った。
「おなじこと、しちゃったのね」
「おなじこと……?」
どういう意味だろう? 考えてみるゆとりは、あまりない。息が、あがっていた。ゆがみの町は、まだ遠い。
「あんた」
シズナは、またつぶやいた。
「なんで、わたしに、ここまで……」
リョウは、うかんだ言葉をそのまま言った。
「自分に恥じたくない」
それだけじゃ、なんにもわからない?
そう思って、なにか言い添えようと思った。
でも、リョウ自身だって、よくよく考えてみれば説明できるようなやりかたで、この言葉をわかっているわけでもなさそうだ。
だからもう一度、おんなじようにくり返すほかなかった。
「自分に、恥じたくない、っていうことだと思います」
けれどもシズナには、もう、何も聞こえてはいなかった。
「――すまねえ」
そんな言葉しか見あたらないこと自体、すまなそうに、タナカは言った。
ベッドのシズナはとても苦しそうだった。たまにみじかくうめいて、ひどい悪夢にうなされているみたいだ。
「……オレには、わからん」
白衣の肩が、無念そうに落ちた。
この思いやり深い「ダチ」の連絡先を、きのうのリョウは知らなかった。
だから、この部屋にシズナを運びこんだ直後、備えつけの、電話線よりもゆがんだ受話器がつーと生きているのをたしかめると、出前や宅配や、とにかくタナカがアルバイトしていそうなお店にかたっぱしから注文しまくり、――翌朝、ようやくフィッシュバーガーを持って訪れたタナカにふたたび、医者に早変わりしてもらったのだった。
「……そうか」
リョウは目を伏せて、言った。
「しかたないよ、シズナさんも、『病気じゃない』って言ってたから」
それでも、ほかに心あたりなんてないからには、タナカを頼るしかなかった。
「ああ、熱はないし、ちゃんと呼吸もできてる。脈の乱れもそこまでじゃない。ただ――」
タナカは、深刻そうな表情で言った。
「ただ、これじゃ、……もたんぞ。……なにかが」
――うう、と、シズナはまた声をもらした。
でも、ふたりとも、どうしようもない。
タナカを見送ったあと、リョウはしばらく、廊下に突っ立っていた。うす暗くなってきたころ、向こうから、エリカがやってきた。
「……あ」
エリカのまなざしは、ちょっと、ぎこちなくさまよった。
「……エリカ」
リョウの声には、ぜんぜん、元気がなかった。当然だ、とエリカは思った。昨日、あんなことがあったのだから。
「リョウ。……もう、だいじょうぶなの?」
言いながら、わたし、ほんとうに、リョウの身を……? と、嫌になるほどみみっちい自己懐疑に、エリカは苛まれるしかなかった。
「うん。オレは、だいじょうぶ」
「――そっか」
それからエリカは、なんということなしに言った。
「わたしも、――もう、だいじょうぶ」
言ってから気がついた。リョウはきのう、わたしとエージェントさんの間にあったこと、わたしの身におこったことなんて、知りっこない。それなのに、わたし、自分からなにを言いだしたんだろう。
オレはだいじょうぶ、というリョウの言葉の意味を、エリカは、取りちがえていたのだった。
「エリカ」
リョウはわれながらなんとも情けない声で、言った。
「どうしよう」
エリカはおどろいて――かるい高揚も感じてしまって――リョウに駆け寄った。
「え? ――どうしたの?」
リョウは言った。
「シズナさんが」
エリカの顔色が変わった。
「シズナさんが」
空気の変化に気づく余裕もなく、リョウはつづけた。
「シズナさんが、大変なんだ」
重たいからだをどうにか動かして、焦る背中にエリカはついていった。じぶんでじぶんをひきずるみたいに。
――ほんとうに、わたしは……。
大変、という言葉のあいまいさのせいでも、むろんあるだろう。でも今のリョウは、これまでの長い付き合いでちょっと見たこともないほど、おろおろしている。だから、エージェントさんはほんとうに「大変」な状態にあるのだろうということは、はっきり伝わってくる。
……はずなのに、昨日の今日だからか、エリカは、シズナのことでしんそこ、誠実な心の痛みを感じることは、できそうになかった。
いま、こんなに胸のくるしいこの気持ちは、心配、あわれみ、思いやり、そんなうるわしい名前を授かるべき感情じゃなく、これは――。
――それでもリョウに連れられ、部屋に入って、じっさいに苦しむシズナの姿を見て、
「……エージェントさん」
それだけでもう、なんにも言えなくなってしまったのは、たしかだった。
ほんとうに、エージェントさんは、ほんとうに、ほんとうに、苦しそうだった。
けれども、そのエージェントさんに屈みこみ、むくわれない励ましの言葉をかけつづけるリョウを見ていると、また――。
――たまらずエリカは、部屋を出た。リョウはすこし、目を向けただけだった。
鞄のなか、端末がふるえたのは、そんなときだった。
いらだちさえ感じながら、エリカはそれを取りだした。
かもめ亭からではなかった。
ディスプレイの名前は、「ウツロ教授」だった。




