第1四半期「初陣、その後」
「最後に何か言いたいことは?」
(岡茂信『マイナビ2024 オフィシャル就活BOOK 内定獲得のメソッド 就職活動がまるごと分かる本』面接対策編 重要質問対策7)
なにかはわからないが、この世界から、とても大切なにかがなくなってしまったような気がした。
もしかすると、ものすごく余分な何かが加わってしまったのかもしれなかった。
いずれにせよ大変なことが起きたのはたしかだった。
身体が大きく揺れている。
それはわかるのに、じぶんが身体をもっている、ということのたしかさが感じられない。水の中にでもいるみたいだ。分厚い膜の向こうから、くぐもった、不明瞭な、大きな声がなにやらひっきりなしに聞こえてくる。
みんな、そんなに切実に、いったい何を叫び立てているのだろう?
そんなにまで叫ばなければならないほどのことが、この世界に存在したためしがあったろうか?
声は外だけでなく内からも聞こえてくる。こちらは、よほどはっきりと聞こえる。
――寂しい。寂しい。寂しい。寂しい……。
そればっかり。
耳を塞ぎたい。けれども手が動かない。
塞いだところで、この声から、この気持ちから逃れられるのかもわからない。
まぶしい。目を閉じているはずなのにまぶしい。
苦しい。息が苦しい。
頭が痛い。なんだか、気分が悪い。身体が、ぞくぞくと震えている。あちこちが熱をもって、じっとり湿っているようだ。額から、汗が落ちる。
なぜか、涙もでてくる。
「……寂しい……」
リョウはつぶやいて、薄目を開けた。
今、担架で運ばれているところだった。
両脇につき添っている看護師さんが、目を開けたリョウにおどろいて前を行く白衣の人物に声をかける。
なにもかもがぼんやりしている。
そのぼんやりを突き破ったのは、振り向いた白衣の男の、場違いな大声だった。
「――リョウ!」
「タナカ!」
担架に乗っけられたまま、思わずリョウは身を起こした。とたんに、身体がぐったりと重く感じられて、また倒れてしまった。
「おい、――無茶すんな!」
「タナカ」
なつかしいその名前を、今度はつぶやくように呼んだ。
「どうしてここに?」
「オレにきくことか?」
タナカは言った。格好はすっかりお医者さんだ。アルバイトをしているのだろう。
「前職は選考の会場警備。……実はこっそり……陰ながらお前のこと応援してたんだが、まあ、あんなことになっちまって」
「あんなことって?」
尋ねるリョウの声は弱々しかった。タナカは顔をそむけて、
「……それで、まあ、慌てて医者に転職したってわけさ」
聞こえなかったふりをした。
リョウは問いなおそうかと思ったが、いまはあまり、物事を考えられる状態ではなさそうだった。
「そうだろうさ」
「オレ、どうしちゃったの?」
「わからん」
タナカは苦々しげに言った。
「駆けつけた時にはもう、気絶してた。詳しいことはこれから調べてみよう」
「苦しい」
「え? ――呼吸か?」
タナカは緊張した様子で振り返った。周りの人たちも顔を見合わせている。
「それもそうだけど……気持ちが」
そうつぶやくリョウの表情は、もちろんリョウ本人にはわからないことだがほんとうに悲しそうだった。
リョウはただ、タナカが悲しそうな目をするので、そんなに、オレは悲しそうにしているのかと思って、なおさら悲しくなった。どんどん、どんどん悲しくなっていった。
タナカはふたたび歩きだしながら、かたわらの看護師さんに尋ねた。
「なあ、――こいつのまわりに、本、落ちてなかったか?」
タナカはリョウの宝物をしっかりと覚えていた。こういう時、あれが特効薬になると思って気をきかせたのだ。
看護師さんは、何のことだかわからないという顔をした。
「ほら。こんくらいの、立派な――」
「タナカ」
リョウは悲しみを深めながら言った。
「あの本は、もう、ないんだ」
タナカは口を開けたまま、一瞬、動きを止めてしまった。それからゆっくりと言った。
「……そうか。……スマン」
「ううん」
と、リョウは言った。それでせいいっぱいだった。
本がない。物語が浮かんでこない。
果てしない一時間だった。いや、二時間かもしれない。あるいは三時間? どうでもいい。もう、なにもかもどうでもよかった。
看護師さんに案内されてシズナが入ってきたとき、ベッドに横たわったまま、リョウはどんな表情をしていたのだろう?
シズナはリョウを見た。
話したいことはひとつもなかったが、話さなければならないことはたくさんあった。
シズナ自身、ひどく消耗している様子で、廊下を歩きながら、それとなく受診を勧められたくらいだった。
でも、今はリョウのもとへ急がねばならなかった。
「話したいこと」のなかには、文句もたくさんあった。
――なに? あのデタラメな就活。
あの朱雀を前にして、どうしてあんな無防備に空想にふけったりできるの? 計算? 馬鹿なの? それともわたしへの、当てつけ? それとも――。
怒れば、怒るほど、怒りたくなった。無謀な就活に走ったリョウへの怒り。よりによって第一次からあんな絶望的な状況を用意した、運命のようなものへの怒り。そして、本なしの状況になにも対策を打とうとしなかった――わかってる。現実から、逃避した――その結果、こんな事態を引き起こしてしまった自分への、怒り。
……が、カーテンを開けて、ベッドの上、頭を抱えてヒザを屈し、虫みたく縮こまっているリョウの背中を見て、シズナが感じたのは、同情とか憐憫とかじゃない、もっと、痛みみたいなものだった。
攻撃的な気持ちはあっという間に萎えていった。
立ちつくすシズナにリョウが気づくまで、しばらくかかった。
「エージェントさん?」
そうして、寝返りを打って、こちらを見たときのリョウの瞳。
「――お疲れ様、です」
シズナは、どんな言葉も返すことができない。リョウは、もとより返事など期待していなかった。
「……申し訳、ございません」
消えそうな声だった。
「……なにが」
シズナは、立っていられなくなって隅の椅子に腰を下ろした。
リョウは、しばらく黙っていた。シズナはいつものように、聞き直したりはしなかった。
「選考は……」
壁ばかり見ているリョウから、ようやく、言葉が絞りだされた。
「どうなりましたか?」
「……めちゃくちゃよ」
シズナはそう言ってから、これではまるでリョウを責めているみたいだと思って、そっと、
「――朱雀のせいで」
と、つけくわえた。こいつなんかへの、そんな自分の気づかいが不審だった。
「……じゃあ……?」
中止? オレの就活は、ここで終わり?
「……さあ。それは人事が決めることよ」
話さなければならないこと、の中心はまさにそこだった。でも、今のリョウに話すことはためらわれた。シズナ自身、事態を正確に理解しているわけでもない。理解できたところで、それを受け容れられるかどうか、わからない。
「悔しい」
リョウは、つぶやいた。そして布団をギュッとにぎりしめた。大粒の涙が落ちた。
シズナは驚いた。
知らず知らず慰めのようなことを言っていた。
「……まだ、決まったわけじゃないでしょ?」
「すみません」
リョウは手の甲で涙をぬぐいながら言った。
「オレだけ、こんなふうに」
「『オレだけ』って何? わたしは、別に――」
「エージェントさんにとっては、よくあることなんですよね。オレみたいな就活生を、いっぱい見てきたんですよね。きっと――」
涙はなかなかとまらない。
「でも、オレは……オレは……」
「……父親のことを知りたいんだっけ」
――わたし、なぜ、こんなフォローを?
リョウなんて利用対象にすぎないはずだった。でも、なぜかシズナの口をついて出ようとするのは、本音の言葉らしかった。
「それなら別に……他にいくらでも、やりようはあるでしょ? 『就活』という手段を取らなくったって、ZAKURO社の内情を探ることはできるわ」
リョウの答えは、シズナにとって意外なものだった。
「それも、もちろん大切だけど、でもオレは」
リョウはしゃくりあげて、
「オレは、就活がしたかった。もっと、もっと、就活したかった」
リョウはせつなくてたまらなかった。
あかがね色の本片手に、ぼんやりと就活を夢みていたあの日々。
勇気を振り絞り、本気の気持ちをオカミにぶつけたあの夜。
観光船のマストの上から、タナカと見たあの水平線。
毎晩通った夢のようなあのお祭り。
カメのおじいさんとのあの散歩。
送りだしてくれたエリカの、ちょっぴり寂しげなあの笑顔。
―ーぜんぶ、「就活」がくれたものだった。
リョウは、ようやく気がついた。就活は、父さんの謎を解き明かすためのたんなる手段なんかじゃない。就活は、リョウにとってもう「就活」としか言いようのない、他のものでは代えのきかないなにかになっていた。
今さら気がついても、もう遅い。そんな後悔が、リョウを打ちのめしていた。だから泣きかたはどんどん激しくなっていった。わんわんわんわん、とめどなく泣けてくるのだった。
そんなリョウの姿を見て、シズナは、おのずと自問せざるをえなかった。
――そう、わたしは? わたしは、どうしたかったんだっけ。
打倒・ホロウワーク?
……そう。
それは今でも変わっていない。
でも、その後は? 父も、キョウカもいなくなった後、わたしは一体何を目指せばいいの? 何から逃げつづければいいの?
何のために生きていくのか?
それもシズナがこれまで、考えずにすんでいた……そして、あえて考えまいとしていたことのひとつだった。
けれどもシズナはリョウのようには、泣くことができなかった。
怒ることも、もう、できなかった。
くちびるを噛んだ。




