第5四半期「シッポの成果物」
その日、エリカはすぐに自室で休むつもりでした。
しかしこんなことがあっては、居ても立ってもいられません。中庭を駆け抜けて、階段を駆け上がって、ドアを開けると、シッポは跳び上がって天井に頭をがつん、目から、星が飛びだしました。
「エリカ姉ちゃん!?」
「ご、ごめんね、シッポ……」
「言っただろ! 勝手に入って来るなって!」
「ごめんなさい。――でもね、シッポ。すごいことがあったから――」
「え? ……なんだよ。すごいことって」
「それをね、伝えたかったの」
エリカは興奮気味なまま、さっそく、ついさっきの出来事について話しはじめました。心配をかけてしまいそうなくだりは、適宜省略しながら――。
シッポは、
「師匠が?」
と、一瞬、眉を吊りあげはしたものの、思っていたほどには驚きを示さなかったので、エリカにしてみれば、なんだか肩すかしを食ったような感じでした。
「だって、ここに連れて来たってんなら、話は別だけどさ。でも……そっか。師匠、ここにもどって来るつもりはないんだ」
「そうみたいね。あのスーツの話も、もっと聴いてみたかったけど――」
それよりも、シッポの関心事は別にあるようでした。
「姉ちゃん、――どうしたんだよ?」
「え? ……だから、そのことを伝えに――」
「その格好さ。……ふだん、そんな服着てないだろ?」
「お出かけしてたのよ」
「どこに」
「え? えっと……公園とか」
「公園?」
シッポは落としたまなざしをキョトキョト妙にさまよわせながら、
「誰と。――ひとりで?」
「リョウと」
どうしてそんなことにこだわるのだろうとエリカはふしぎでした。
「アンちゃんと?」
ぐっと眉を顰めて、
「なに、『デート』ってやつ?」
「ち、――ちがうわ!」
エリカははげしく頭を振りました。
「シッポのスーツの話もしたのよ。リョウ、すごく楽しみにしてて――」
そこで、――しまった、とエリカは口をつぐみました。
選考まであと数日、いま、ぎりぎりの状況で作業をすすめているはずのシッポにとってデリケートな話題であるはずなのに、つい勢いで口にしてしまったのです。
「できたよ」
シッポはなぜか、ぶっきらぼうにつぶやきました。
「できた?」
エリカはシッポの目を見て問いかけようとしました、けれどもシッポはけっして目を合わせてくれようとはしません。
「できたの? スーツ?」
「……う、うん」
息だけがぬけていくような声でシッポは返事をすると、くるりと身体をひるがえし、
「……当然さ」
「すごい……やったじゃない!」
エリカはいまさらのように室内を見回して、すみっこにマネキンを見つけました。
立派なスーツで装った、立派なマネキン。
このまま紳士服売り場に並べてもおかしくないような、濃紺のジャケット、スラックス、純白のワイシャツ、黒い革のベルト、足もとには、ソックスに、鞄まで。
「すごいわ……ほんとうに、本物みたい」
エリカは駆け寄って、生地にふれるとかぶれてしまう恐れがあるのですが、それでもすれすれまで鼻先を近づけながら、我ながら素朴すぎる感想を、もらしたのでした。
シッポは黙っています。
……様子がおかしい。
赤黒い、オパールのような輝きのボタンをじっと見つめながら、エリカは嫌な気持ちが胸のうちでしだいに増幅していくのを感じていました。
ボタンは見事でした。
見事すぎました。
生地だって。まるで、この部屋にはおよそ見あたらない、精密機械で織ったみたいなきめ細かさです。
――もしかして……。
「ねえ、シッポ」
氷のような気持ちが、身体の奥を蝕んでいくのを感じていました。感じまいとして、大げさに、はしゃいでみせました。
「お疲れ様会、しなきゃね! いつにする? 明日? 明後日?」
「どう思う?」
シッポの声は陰鬱でした。
「どう思う? そのスーツ」
「うん……そうね」
エリカは言葉に詰まって、
「……わたし……就活とか、よくわからなくて――」
「そうじゃないだろ!」
突然、シッポは声を上げました。
「そんなの……オイラが、そんなのつくれるわけないだろ?」
シッポは目に涙をいっぱいに溜めて、歯を食いしばって、下を見ていました。
「じゃあ、これは……?」
エリカはシッポの目の前まで歩いていって、そっと、問いかけました。
「……盗んだのさ!」
シッポは腹に溜め込んだものを、なにもかもぶちまけるように言いました。
エリカはほんとうに、逃げだしたくなりました。ただでさえ今日は、ひどく疲れているのです。他人のとげとげしい感情の爆発がひとしお身にしみるようでした。
それでも、――傾聴。
こんなときこそ、傾聴をこころがけなければいけないと、逃げだしたい気持ちをこらえて、
「シッポ、……ごめんね。わたしが、よけいなこと聞いちゃったばっかりに――」
「なんで、姉ちゃんが謝るんだよ!」
怒りは怒りをどんどん、呼び寄せていくのでした。
「なんで、姉ちゃん、来ちゃったんだよ! よりによって――オイラ、黙っていようと思ったのに!」
「……黙っていたとしても……」
「黙っていればわからなかったさ! アンちゃんには」
「わかるわ」
エリカはつぶやきました。
「リョウは、就活生さんだもの」
「アンちゃんは、どうせオイラになんてはなから期待してなかったのさ。――だってそうだろ? ぜんぶ、気まぐれから言いだしたことじゃないか。いざとなったらアンちゃんは、カツバトで変身すればいいんだし――」
「シッポ。……リョウはね、シッポのこと、信じてたと思う。ううん、信じてると思う。今も」
「オイラのことなんて、なんにも知りやしないくせに。……どうせオイラはなんの才能もない……いや、ドロボウの才能だけピカイチの、一生貧乏底辺暮らしのクソガキだよ。このまま年だけ取っていって、なんの仕事もできないまま、誰からも必要とされやしないまま――」
「ちがうでしょ? シッポ。……リョウにね、ノートを見せてあげたでしょ? リョウはね、きっと、うれしかったと思う」
「……なんでだよ」
と、つぶやきながら、エリカの言わんとするところは、シッポにもわかるような気がしていました。
「リョウもね、ずっとひとりで……もちろん、わたしに聴かせてくれることもあったけど、でもね、わたしの知っている以上にたくさんの物語を、ひとりぼっちでこれまでつくりつづけてきたんだと思う」
「就活のこと?」
「そうね、……それも、きっとそう」
「アンちゃんは、就活生になれたからいいよな」
「だから、シッポ。あなただって、これから――」
「エリカ姉ちゃんは」
不意に、シッポはこんなことを言いだしました。
「アンちゃんのこと、自分について話すみたいに、話すんだな」
「……そう? それはやっぱり、幼なじみだから……」
「それだけかよ!」
と言って、シッポはいっそう、むくれてしまいました。
エリカはエリカで、たった今言ったばかりの、幼なじみ、という言葉に、以前なら感じることのなかったよそよそしさを見いだして、きいんと立ちすくんでいました。
黙ったままでいるエリカをちらりと見て、シッポは吐き棄てるように言いました。
「とにかくもう、仕事はやめた!」
「シッポ」
エリカはすっかり困惑して、こんなことを言ってしまいました。
「……大丈夫よ。きっと、大丈夫」
――大丈夫? なにが?
するどい自問が込みあげてくるのと、シッポの苛立ちの再爆発と、同時でした。
「なにが『大丈夫』なんだよ! 無責任なこと言って!」
「あ、……ちがうの、シッポ、ごめんなさい」
エリカは愕然とする思いでした。「傾聴」の最中、こんなふうにいいかげんな慰めを口にしたことなど、これまでなかったからです。
やはり、疲れているから……?
「オイラ、ほんとうに、才能がないんだ! 才能がないって思われるのが、怖かったんだ!」
思いっ切り、何に使うものなのか、工具を机に叩きつけて、シッポは喚きちらしました。エリカはすくみあがって、必死に言葉を探しながら空回りするばかりの頭と、つめたくこわばった身体、どこまでも重たいこころを感じていました。
「姉ちゃん、オイラ、どうなんだろう? オイラ、才能ないのかな?」
その眼は血走っていました。今、荒れ狂う感情の波に溺れ、もがき、誰よりも苦しんでいるのはシッポ自身だということは、それはエリカにもわかっていました。
けれども今のエリカは、正直、シッポのことがもう怖くてたまりません。この恐ろしい状況から逃れるために、
「……大丈夫、シッポ。そんなことないわ」
そのためだけにまた、安易な言葉を口にしてしまったエリカは、とたんに自己嫌悪のドン底に陥りました。
「だから、何が大丈夫なんだよ! 正直に言ってくれよ」
「シッポ……」
――お願い、もうやめて。わたしを苦しませないで。
そんな言葉が喉もとまで出かかっていました。エリカはぐっとこらえていました。こらえるだけで、いっぱいいっぱいでした。
「オイラに、生きている価値なんてないんだ。なんの仕事もない、なんの役にも立たない――」
シッポは息を吸いこんで、思いっきり叫びました。
「オイラ、死んじゃったほうがいいんだ!」
とうとう、何かの決壊をエリカは感じました。
「――わたしだって!」
叫びました。
すると今度はシッポのほうが、びくっと震えて怯えたような表情でエリカに釘づけになりました。
「わたしだって――」
しゃくりあげながら、それ以上のことは言えませんでした。
「……わたしだって……」
……声は、消えていきました。まだ荒いシッポの息づかいが聞こえていました。
だんだん、部屋は静かになっていきました。
いつの間にか、ふたりとも疲れ切って、床に座りこんでいました。
「ごめんよ、姉ちゃん」
シッポは言いました。
「オイラ、……本当はわかってたんだ。姉ちゃんや、アンちゃんのこと騙せたとしたって、自分のことはぜったいに騙せやしないって……」
「自分のこと……」
なにか、大切なことに気づけそうな気もしました。けれどもすごく疲れていて、頭がうまくはたらいてくれません。いや、これは頭の問題なのか、それとも……。
くすっとシッポは哀しい笑いを漏らしました。
「……笑っちゃうよ、ほんとう」
エリカが黙っていると、シッポはつづけて、
「だって、二週間……三週間かけて、ボタン三つだぜ?」
「ボタン……」
ぼんやりと、エリカはおうむ返しに言いました。
それから、
「え?」
ふと気がついて、疲れも何もふっ飛んで、思わず立ち上がりました。
「ボタンって……?」
「見ただろ、さっき」
「あの――」エリカはマネキンに駆け寄りました。「この、宝石みたいなボタン?」
「そんな大そうなモンじゃないよ」
皮肉でも言われているのじゃないかと、シッポは疑り深くエリカを見やりました。
が、シッポにまっすぐむけられているエリカのまなざしは驚嘆のほか何もあらわしてはいません。
「これ……すごく……」
ああ、なんと言っていいのでしょう?
「すごく……すごいわ」
するとボタンは、さっきまで血の塊のような色合いだったのに、不思議と青くさわやかな光をはなちだすのです。
「これ、シッポがつくったのね?」
「だから、そうだって言ってるだろ。……まあ、材料はちょいと、失敬してきたモノだけど……。そこに置いてあるので、オイラが作ったのはそれだけさ」
エリカは、ボタンに見とれていました。
そのボタンが、七色にきらめいていました。




