第4四半期「時を失った男(後編)」
声の先に立っていたのは、ひとりの男でした。
男、男、男。こうも「男」ばかりでは、区別がつきません。とりあえず、エリカにからんでいる男のひとりを鷲鼻、もうひとりを鉤鼻とネーミングしましょう。
そうして、たった今現れたこの男は……。
青葉若葉の好季節に、暑くないのでしょうか。薄汚れたカーキ色のコート。
目深なフードの下、わずかにうかがえる瞳には覇気がなく、今この現実でない、どこか遠くを見ているようです。
そしてぼっさぼさの長髪、無精ひげ。年齢は四、五十代といったところでしょうか。手にはかじりかけのリンゴを持っています。
男は鷲鼻、鍵鼻の所業に介入するわけでもなく、見て見ぬふりで立ち去ってしまうわけでもなく、ただ黙って、持ったリンゴを、時折しゃり、しゃり。
じっと、見つめているのでした。
そう、傍観ではなく、見つめているのです。
鷲鼻が威嚇的な声を発して、男をにらみつけました。
男は小首をかしげた後、手もとのリンゴをじっと見下ろして――ようやく合点がいったというように、鷹揚な口ぶりで、
「ああ」
と、ふたたび鷲鼻にまなざしをもどしました。そして、くっきり歯型のついたリンゴを差し出して、
「欲しいのか?」
「不要でございます!」
唖然とする鷲鼻にかわり、怒声で応じたのは鉤鼻でした。
「そうか」
男は言って、ふたたびリンゴをしゃり、しゃり、しゃり……。
きたなく髭にまみれた口もとをひたすらに、もそり、もそりと、動かしています。
「誠に失礼ではございますが」
鷲鼻は業を煮やしたように言いました。
「貴殿におかれましては、可及的速やかに消え失せていただくことは可能でございましょうか。わたくしどもは、重要至極なプロセスの最中でございますので」
「そうか」
男は淡々と言いました。そしてやっぱり、リンゴを、しゃり、しゃり、しゃり……。
鷲鼻も、鉤鼻も、明らかに苛立っていました。囚われのエリカも身の危険を忘れて、言葉をなくしています。
「貴殿におかれましては」
鉤鼻が、あざけるように言いました。
「言語という手段による有効なコミュニケーションは、可能でしょうか」
「言葉か」
男はしみじみとそうつぶやいて、とうとう芯だけになってしまったリンゴをくるり、くるりと、いったい何がそう気になるのか、ためつすがめつ、まなざしにさらしながら、何事かひどく真剣に考えこんでいるようでした。
「言葉……」
「わたくしの見解といたしましては。――このお方」
鷲鼻が、頭上で人差し指をくるくると回しながら、鉤鼻に言いました。
「完全に、『コレ』でございます」
「完全にアグリーです」
鉤鼻も、薄気味悪そうに応じました。
すると男はあくまで自分のペースで、ゆっくりと、こう言いました。まっすぐ両者に、まなざしを向けて。
「言葉は、嫌いだ」
「――理解不能でございます」
鷲鼻はエリカを鉤鼻に任せ、拳を鳴らしながら、男に近づいていきました。
「貴殿におかれましては――わたくし、方針の変更をいたします。益々『ご拳傷』にて、『ご凄傷』とさせていただきたく、存じます」
「そうか」
あくまで物静かな男の顔面に、鷲鼻は唾を吐きかけ、
「言葉が、お嫌いとのことでしたね?」
「ああ」
男は胸ぐらを掴まれてなお、態度を変えずに言いました。
「リンゴは、リンゴだからね」
男の謎めいた物言いに、鷲鼻はもう、取りあおうとすらしませんでした。
「それなら――」
鷲鼻は片手を大きく振り上げ、
「こちらにて! ご『拳倒』ください!」
エリカはとっさに目をつむりました。
しかし暗闇の中、聞こえてきたぎゃっという悲鳴は、あきらかに鷲鼻のものでした。目を開けると、声のぬしは果たして、男の足もとにのびていました。
「……悪いね」
鷲鼻に向けられたその言葉は皮肉でなく、お義理でもなく、せつないほど真摯な響きがしました。
それから男はそっとかがみこんで、親指と人差し指で、倒れた鷲鼻の額の上の、微小な輝きのつぶをそっと摘みあげました。
リンゴの種でした。
「貴殿、一体何者でございますか」
鉤鼻は怯えたようにそう言って、捕まえていたエリカを突き飛ばしました。エリカは無事、男に抱きとめられました。
それから男はたっぷりと時間をかけてあちこち見まわし、
「それは、オレに聞いているのかい」
「他に、どちら様がいらっしゃるとおっしゃる!」
「このお嬢さんも、君自身もいるだろう」
鉤鼻の顔が恐怖にゆがみました。あまりにわけのわからない男だと思ったのです。
「オレが――オレという人間が、いったい、何者なのか?」
男の中で、すっかり、熟考がはじまってしまいました。それがひとまず済んだとき、そこにはもう、鉤鼻の姿はありませんでした。
「わからない……」
男はつぶやきました。
なんとなく、悲痛なものをエリカは感じました。
「あの……」
どう言っていいのかわからず、けっきょく、いちばんありふれた言葉を選ぶしかない自分を情けなく思いながら、エリカは問いかけました。
「大丈夫ですか?」
そのとき男の表情に、よぎったのは驚きのかげであるようにエリカには見えました。
「君が……」
男は初めて言葉を口にするようなたどたどしさで、言いました。
「君が、大丈夫かい?」
「あ! はい……ご、ごめんなさい!」
エリカは真っ赤な顔で男に背を向けて、いそいそと、着衣の乱れを直しました。その間に、背後から衣擦れのような音が聞こえていました。
なんだろう? 振り返ると、男はスーツ姿になっていました。脱いだコートを差しだして、
「使うか?」
「あ――!」
その厚意ももちろん意外でしたが、それよりも、エリカが驚いたのは――。
「もうずいぶん、クリーニングにも出していないが」
「あ、大丈夫、……大丈夫です、ありがとうございます」
「そうか」
男は、あっさり引き下がりました。
別れの言葉もなしに、背を向けて、去って行こうとする男に、勇気を振り絞ってエリカは問いかけました。
「そのスーツ……!」
「ん……?」
男はゆっくりと、半身だけ振り返りました。
「シッポの――」
と名前を出したところで通じるわけもないことを一瞬忘れてしまうほど、エリカの驚きは大きなものでした。
「あの、……『時をまぬがれるスーツ』……!」
すると、男は、――どんな表情をしたのでしょう。すぐにまた、背を向けてしまったのでわかりませんでした。
「あの、……ゆがみの町に、住んでます、よね……?」
男は言いました。
「どこにも、住んでなどいないさ」
「でも――」
「滞在したことなら、たしかにある」
「そのスーツ、あなたが……?」
「さあ……。どうだったかな」
「あなたのことを、『師匠』って呼んでる子がいるんです。スーツ職人、目指してて……」
余計なお世話かな? とは、もちろん思いました。
が、こんな遭遇、奇蹟的です。シッポもきっと、許してくれるだろうと思いました。
「あなたも、スーツ職人さん、なんですか?」
「オレは……」
男は、手短に答えを出したようでした。
「わからない」
「あの、お名前、とか……あ、わたし、エリカっていいます」
「そうか」
男は言いました。
「あの、お名前だけでも……」
エリカは、けんめいに食い下がりました。
男は、言いました。
「忘れた」
虚人病、という言葉がエリカの頭をよぎりました。でも、それとはどこか、事情がちがっているような――。
「君の名前も、おぼえていられる自信はない」
「……ゆがみの町に、もどられるんですか?」
「もどるところなど、ないさ」
「じゃあ、どこに……?」
この男を、どうにかしてシッポに引き合わせたいと、エリカは思っていました。しかし男はこれ以上、長居しようとはしませんでした。
最後にこう言って、闇の向こうに消えていきました。
「どこにも」




