第3四半期「時を失った男(前編)」
あの大切な本をうしなったリョウの気持ちに、じゅうぶんに寄り添えなかったことに気がついたのはひとりになってからでした。
ほんとうは、リョウにもっといろいろなところを見せてあげるつもりでした。
映画でも観に行ったり、カフェや、ファミリーレストランでゆっくり、就活も大学院も忘れて昔みたいに話をしたり、とっておきの場所から夕日を眺めたり、いつもおんなじ服を着ているリョウに、もうじき来る夏のための洋服を見繕ってあげたり……気が向けば、水族館や、動物園や、遊園地にだって、行くことができたのです。
でもそれはぜんぶ、今やもう、うつくしすぎるただの夢でした。現実のエリカは、ひとり、ぐったり、暮れかけの町を歩いているのです。
ふいに鞄のなか、ふるえるものがありました。
着信です。ディスプレイには、「かもめ亭」の文字。
執拗に振動しつづける端末を、エリカはそのまま、鞄にもどしました。用件は、知れています。
――「傾聴」。
「かもめ亭」を訪れる、エリカ目当ての就活生の数はいつしか途方もなく膨れあがって、たかだか一、二週間の帰省だけでは全員の相談に乗ることなどできるはずもないくらいになっていました。
おまけに、内定証明書が散乱したという原因不明の「災害」――ウツロニウムが検出されたという――まで起こり、島の就活生たちが不安な状態にあるいま、電話を介して彼らの悩みを聴いてやったらどうだろう、そんなふうに、先日両親は提案してきたのです。
――傾聴?
今のわたしにそんな資格はない。
――資格?
いいえ、それは言いわけにすぎませんでした。たんに聴きたくない、聴ける状態じゃないのです。それでも両親はエリカが心からはりきって、「傾聴」の才能を発揮しているのだと思い込んでいるのでした。
もちろん、はじめのうちは、それもあながち誤解とはいえませんでした。
こんなわたしでも、誰かの役にたつことができる。
それはとても幸福にそっくりな感情でしたし、その役割に、生きがいめいたものすら感じていたほどでした。
けれども、いつからでしょう。
個人的な地獄めぐりから生還した就活生の晴れやかな表情は何よりの報酬だったはずなのに、それでエリカも先導者なりの充実感を得られていたはずなのに、なぜか、ともに妙な寂しさが込みあげてくるようになったのは?
――みんな、勝手に癒されて、勝手に巣立っていく。
そんな、突きはなされたような気持ちにさいなまれるようになったのは?
――そして、リョウ。
リョウもいま、いなくなろうとしている。わたしのそばから。大きく羽ばたいていこうとしている。わたしの知らない、絶対にたどりつくことのできない、就活の世界に向かって。
――こわい。
エリカはそう思いました。
怖くてたまりませんでした。みんな、この世界でちゃんと居場所を勝ち獲っていくのに、このままじぶんだけ、独りぼっちになってしまいそうで。
「ドブネズミ疾駆する昨今。貴殿におかれましては、ご機嫌いかがでしょうか?」
男の声がしました。丁重な文言と裏腹の、軽薄な笑いにみちた声でした。
「このような一角をひとり歩きとは。リスクヘッジに問題があるように、お見受けいたします」
「あ……」
気がつくと、滞在先の界隈を通りすぎて、いつもなら決して寄りつかない暗い道に迷い込んでしまっていたのでした。
「アグリーでございます」
男はもうひとり、いました。
「どうなさる御意向ですか? 性根汚らわしき者どもに襲われたケースにおかれましては」
「具体例といたしましては、わたくしどものような」
ふたりは顔を見合わせて、野卑な笑い声をあげました。
――就職浪人生ッ!!
さまざまな事情から、カツバトを持つことができず、あたらしい就活システムから弾きだされ、ギャング化したかつてのエリート就活生たち。
世の九割九分九厘の若者がカツバトを所持している――などという統計は一部識者にいわせれば実は眉唾もので、目の前の男たちのような層は勘定にいれられていないのです。
「ファースト・インプレッションといたしましては、わたくしども、貴殿の見目麗しさに猛々しき情念が益々ご隆昌な次第です」
男が言いました。
「つきましては、物陰までアテンドさせていただきましても宜しいでしょうか」
「ご検討願えませんと、誠にご硬刃でございます」
そう言って、刃物をちらつかせます。
「いや……」
すぐ、逃げなきゃ。頭ではわかっているのに――。
「――誠に、ご清楚な香りがいたします」
「漢字一文字で表すならば、『甘』です」
必死に抵抗をこころみたエリカを、あっけなく拘束し、男は言いました。
「やめて、――やめてください!」
暴れてみても、叫んでみても、泣きたくなるくらい無力なエリカに、シチュエーションを好転させるすべなどありません。
「やめて! お願い、やめて!」
もがきくるいながら、とうとう男どもの第一目標が達成されかけた、その時でした。
「――どちら様ですか!」
就職浪人生のひとりが、鋭い声を発したのです。




