第2四半期「つかの間の休息(後編)」
ふたりは、並んでベンチに腰を下ろしました。
輝かしい並木の下、よく刈り整えられた芝生に白や、薄紅、黄色っぽいのまで、散りたての花びらがまだらをつくっていました。
そろって、ふたりはホットドッグにかぶりつきました。
リョウは、あぶなく袖口にケチャップをつけるところでしたが、こんなこともあろうかと、エリカはおしぼりを余分にもらっていましたし、ポーチの中にはハンカチやウェットティッシュの用意もありました。
「もう」
と、エリカは言って、袋からだしたおしぼりでリョウの指先を軽くふいてあげました。
「ん」
と言いながら、それをうけとって、口もとはきちんと自分でぬぐいました。
「ありがとう」
「そんなにがっつかないの」
自分も口をぬぐいながら、エリカは言いました。膝上にブラウンのハンカチをひろげて、そのうえにボール紙のトレーを乗せていました。
「おいしい?」
「うん」
口から、とろけるチーズをひき離すのに苦戦しながら、リョウは律儀にうなずきました。
「ひさしぶりよね、こうやって一緒にごはん食べるの」
「……そうだね」
エリカはリョウの横顔を見ました。毎日のお弁当についての感想が、もしかしたら何かあるのではないかと思って。けれどもリョウは、
「このあいだ、うちに来た時以来かな」
うち、とはもちろん日曜亭のことです。
「ううん。ほら、ゆがみの町について、最初の晩。カレー、食べたでしょ?」
「ああ、そうだった」
リョウはまじめな顔して、まっすぐ前を見たままうなずきました。
エリカもまっすぐ前を見ていました。
すると、いきなり、リョウが立ち上がったのです。
「どうしたの?」
「宜しくお願い――」
リョウは大きな声で言いました。
すると、そのリョウ目がけて――いや、正確にはそのすぐ隣のエリカのほうに、何か一直線に飛んで来る様子なのでした。
「致します!」
リョウはふたたび大きな声とともに、斜め右前に身体を向けると、そのまますばやく頭を下げました。
会釈するリョウのおでこに、――かつん! と硬質の音とともにぶつかって、そのままなだらかな放物線を描きながらはね返っていったのは、白球でした。
リョウは一度も目をつむることなく、ボールの返っていくほうをぐっと見さだめていました。すると、そちらから、スーツ、によく似た黒い、ぶかぶかのジャケットを羽織った少年二人組がやって来て、リョウの前で整列し、木槌でも振り下ろすみたいに、大きな頭をぐわっと下げました。
「はい! 質問があります!」
顔を上げてすぐ、少年が挙手して言いました。
「今の、お辞儀ですか?」
「このたびは、こちらの――」
もうひとりの少年は片手に握ったボールをなんと「大人の語彙」化したものか、思案してから、
「――ものを、あの、取ってくださって、まことにありがとうございます!」
「ちょっと……」
エリカは動揺しながらも、あくまでやわらかく、諭すように言いました。
「あなたたち、ここはボール遊び禁止よ? 誰かにぶつかったら、危ないでしょ?」
「遊びじゃない!」
急にぞんざいな口調になって、少年は言いました。
「オレたち、『会話のキャッチボール』をしてたんだ」
エリカは当惑して、
「遊びじゃなくったって……『ボール』って言ってるじゃない」
「それは比喩ってやつだよ、もう!」
もうひとりの少年も乱暴に、じだんだ踏むようなしぐさを見せつけて、
「これだから、非・カツバトユーザーは! 察してくれよ! オレたち、『カツバト』買ってもらえる年じゃないだろ? だから、こういう『ダイタイシュダン』で就活の練習してるのさ! 『オルタナティブ』ってやつだよ!」
エリカは頭を抱えるような思いでした。
「……カツバトは禁止でも、就活ごっこはだいじょうぶなのね」
そんな抜け穴があったとは。
「ごっこじゃない!」
「お前になにがわかる!」
口々に少年たちは抗議しました。
「オレが話したいのは――いや、コネクションを築きたいのは貴殿のほうでございます!」
急に、丁寧な口調になって少年がリョウに言いました。瞳には羨望のかがやきをやどして。
「就活生さんでございますよね?」
「え? それは……その、いちおう……」
リョウは誇らしいような、照れ臭いような笑みを、ほんのり浮かべていました。それからはもう、少年たちの質問責めです。
「いまの、カツバトですか?」
「まだカツバトのないオレたちにもすごさがわかりました」
「どうやったら就活生になれますか?」
「母ちゃん、父ちゃんに一筆したためてくださいよ!」
「いまどきカツバトくらい、オレらくらいの年から持ってたほうがいいですよね?」
「やっぱZAKURO社、受けるんですか?」
「てかこれカツバトですか? 見たことないモデルです!」
「私服? 私服の就活生?」
「いまどきめずらしくないですよね? 刑事にも私服刑事とかいるし――」
リョウは困惑したような、あいまいな笑みをエリカに向けました。
エリカはわざと大げさに立ち上がって、――それからわざと、すこしだけ、とげとげしく言ってやりました。
「リョウ! わたし、喉乾いちゃった!」
少年は、また急に。
「自分でお茶でも汲んどけ!」
「勝手に乾いとけ!」
リョウはポリポリと頭をかいて、見かねたように言いました。
「ダメだよ、そんな口のききかたは」
すると少年は、
「はい! 承知いたしました!」
「今後は気をつける所存です!」
またまた、急に。――ボールにリョウのサインを受け取ると、白目を剝くほどエリカを睨みつけてから、行ってしまいました。
「ごめん、エリカ」
「別に、リョウが悪いわけじゃないわ」
と、言いながら、少しつっけんどんな言いかたでした。
「……怒ってる?」
怒っている? それはすこし、ちがう気がします。けれどもこの釈然としない気持ち、とげとげとした、ぞわぞわとした、もどかしさのような、こころもとなさのような、この気持ち……。
「リョウは、就活生さんだから」
エリカは、拗ねたように言いました。
「就活ぬきの一日なんて、もう、無理よね」
「ごめん、でも、あの時、ああでもしないと……」
そう、リョウがお辞儀しなければ、ボールはエリカに直撃していました。自分を護るすべなんて、なにひとつ持っていないエリカに。
「……うん。……それは……ありがとね」
「……うん」
ゆっくり歩きながら、言葉を交わしていました。
「……あれ、エージェントさんに教えてもらったの?」
「いや……」
リョウはまなざしを彷徨わせてから、
「ううん」
「……そうなんだ。……すごかったわ」
すごすぎて、――怖いくらいでした。
「でも……サインまでしてあげるなんて」
なぜでしょう、さびしくて、たまりません。
「リョウはもう、就活生さんなのね」
「どうしたの? エリカ」
不安げなリョウの声を聞いて、それでようやくエリカは我に返ったようなここちでした。
「あ……。ごめんなさい……」
「エリカ……」
横を見るとエリカは、あわれなくらい小さくなっていました。
「就活、嫌い?」
「わたしは」
エリカは慎重に、口を開きました。
「……リョウが……」
リョウが……。
――リョウが……?
心配? ……もちろん、心配でしかたがありませんでした。
エージェントさんとの「修行」の日々といい、昨日の出来事といい、リョウがなにかとんでもないことにまきこまれつつあるような気がして、不安でしかたがありませんでした。
カツバトだって、そうです。いかに就活が、前とくらべて安全なものになったといっても、カツバトを使いつづけていれば「虚人病」の恐れがあります。
その虚人病を、もしリョウが発症して、リョウ自身のことも、エリカのことも、なんにもわからなくなってしまったら……。
――わたしのことも?
エリカは悟りました。
――そうだ、わたし、最低だ。
けっきょくわたしのいちばんの問題は、わたしなんだ。
リョウの就活にたいして、わたしの抱く恐怖、それは、リョウが就活生として、わたしの手のとどかないところにいってしまうんじゃ、という恐怖なんだ。
そしてわたしは――ほんとうに、最低だ。こころのどこかで、リョウの就活がこのまま終わってくれることを願っている。
つまり、リョウが、初戦で敗退してくれることを。
そしてまたあの日曜亭のすばらしい退屈な時間が、元通りに、もどってきてくれることを。
「だいじょうぶだよ」
と、リョウは元気に笑ってみせました。
「オレ、勝ってみせる」
それから、
「エリカは?」
自分の話題ばかりで恐縮したのか、遠慮がちにではありますが、リョウは水を向けました。
「大学院に、行くんだって?」
もしかしたら避けたい話題のひとつかもしれない、という心配はもちろんありました。
が、エリカはオカミたちには直接打ちあけていたようですし、そのオカミもとくに口止めされていた様子もなくリョウに教えてくれたことですから、べつにリョウにだけ秘密にしておくような意図も、理由もないはずでした。
たんに相談相手として、あのころのリョウでは物足らなかったというだけの話かもしれません。
リョウはもう、あのころのリョウではありません。エリカがなにか悩みごとのようなものを抱えているとして、それをじょうずに「傾聴」できる自信はじゅうぶんにありました。
エリカはすこし気まずそうに答えました。
「うん。……オカミさん、言ってた?」
「言ってた。――すごいなあ」
感心するようにリョウは言いました。
「大学院かあ。オレ、全然わからないけど」
「うん。わたしも」
「え?」
「全然、わからない」
ブローチの件で、エリカはウツロの激怒を買っていました。
「おたがい、がんばろうよ」
と、リョウは言いました。これもおよそリョウらしくない物言いだと、エリカには感じられました。
「オレも、就活、がんばるからさ」
「……そうね」
エリカは、気持ちを奮いたたせるように言いました。




