第3四半期「『集活』と『傾聴』」
就活生には、なれない。
それはエリカ自身のほかウツロしか知らないはずの、父親、母親、リョウや、オカミにだってつたえられていない、秘密でした。
強いものばかりが優遇される既存の就活制度に真っ向から反旗を翻したウツロの著書を偶然手に取り、その思想に打たれて大学を目指したいきさつのあるエリカは、いざゼミに入った時、この人なら、とすがるように、それまで隠し通してきた十五年前のあの日、就活を奪われたあの日のことを打ちあけたのです。
あのときウツロは、ほんとうの意味で傾聴してくれていたはずでした。
それを、まさか、そんな言いかた――。
「喜びなさい。就活の潮目が変わろうとしている。君にも、就活可能な時代が来るかもしれないぞ。そうだ、大学院なんか、行かなくていいじゃないか」
さらに、エリカの身体は重たくなりました。
「研究計画書、だめでしたか?」
「いや、読んでない。だがわかる。大体ね、君みたいな女の子はかびくさい研究室で頭など捻っていないでもっと華やかな世界で、別の意味で『貢献』するべきなんだ。なに、楽なものじゃないか。受付に立ったり、愛想を振りまいたり、お酌をしたり。それだけしていればそう、酷い仕打ちをうけることもない。そもそも、君の実家は民宿だろう」
「はい」
「いいじゃないか。接客でもやれば。君ならきっと評判もいいだろう。いや、噂に聞いたところだと、君はもう……人気者らしいね。一丁前に、就活生たちの相談になんか乗っているらしいじゃないか。それも『大学生』の肩書きがなくなったら、どうなるかわからないがね。まあ、どうにもこうにもいかなくなったら、その時は結婚して、専業主婦にでもなればいい。いいじゃないか、君ら女は、それが許されるのだから」
「先生!」
限界でした。
「先生、本当に、どうしちゃったんですか?」
「だから、なにがだね」
「前の先生は、そんなこと言う人じゃなかった。『弱くてもおろかでもどうどうと生きていける世界』。それが先生の理想じゃなかったんですか? わたしは、その考えにひかれて――」
「もちろん、そうだ。それは何も変わっていない。だから今日、その理想の実現に向けて、大きな一歩を踏みだしたところじゃないか」
「でも今の先生に理解できるんですか? 『弱くておろかな者』の気持ちが。いまの先生は――」
するとウツロはぞっとたじろいでしまうような目つきで、
「できるとも。私こそ弱者。私こそ、おろかものだ。君も見てきたろう。知性のかけらもない馬鹿な学者どもが、地位や名誉に飛びつく猿のような就活生どもが、わたしをどんなふうに冷笑してきたか。君も今、わたしを否定しようというのかね。――ん? どうなんだね!」
そう言ってエリカの両肩をがしっと鷲掴み。けれどもエリカの感じたのは恐怖以上に、空しさでした。
「先生は」
エリカは言いました。
「先生は――先生こそ、『虚人病』だと思います」
「なんだと?」
ウツロは一瞬ひるんだような表情を見せ、とっさに、エリカを突き放しました。
「先生は、先生の『真の望み』をわかってない、と思います!」
「それはむしろ、君自身について言えることだろう」
「わたし? わたしは――」
「君は、ほんとうに院なんかに進みたいのかね? 私には、どうもそうとは思えないが」
「わたしは」
エリカは言葉に詰まって、
「――わたしは、就活学を、学んでいきたいんです。この生きづらい世界で、いつの間にか『弱者』になってしまった人たち皆が力を『集』めて生きる『活』動、『集活』の研究を――」
「必要ない。そんなものは、必要なくなるんだ、もうじき」
「先生!」
「わたしには、ウツロニウムがある。君も現実に目を向けたらどうだ。つまり、君の取ろうとしているのは消極的選択なんだよ」
「ちがう」
けれども、エリカにそれ以上のことは言えなくて、
「ちがいます!」
「いいや、さらに言えばそれは虚偽。欺瞞。傲慢。そして、冒瀆だ。君のかかげた理想は――いや、もっと言おう。わたしたちのこれまでふけってきた『学問』などというものは、所詮、机上の空論に過ぎんのだよ」
とウツロは顎をしゃくり、まさに机上に置きっぱなしの研究計画書を示しました。
「あんなものが、何の役に立つというのかね? 君は、目の前で飢え、凍えている最底辺の『弱者』に一体、どんなことがしてやれるのかね。まさに赤ん坊に食らいつこうとするハゲワシの前で、君に一体なにができる」
「それは――」
「いや、いや、よろしい。いいだろう。弱者に食べ物を分け与え、暖をとらせ、ハゲワシを撃退し、赤ん坊にミルクをやったとしよう。だが、それで何になる? この世界に一体何羽のハゲワシが、そして、何人の弱者や無力な赤ん坊が存在すると思うのかね」
「だから」
エリカは込みあげてくる恥を自覚しながら言いました。
「それは、皆で、力を合わせれば……」
ウツロは、これまできっと向けられてきたにちがいない何百何千の嘲弄を一度に凝縮したような蔑み笑いを向け、
「君は、物事を知らないんだよ。真の世界というものは君がこれまで読破してきた何百何千の書物の外にこそ、広漠としてひろがっているのだ。君は現実を知らない。社会を知らない。人間を知らない。痛みを知らない――」
「知ってます!」
と、そこに思わず強く反応してしまったことが、恥の感覚をいっそう強めました。
「いいや、知らない。知らないんだよ、何も。虐げられ、痛みを背負った人間の残酷さを、君は少しも理解していない。――いいかね。彼らはこれまで世界に拒まれてきたんだ。輪の外に排除されてきたんだ。そして、そこに全く存在しないものとして、忘れさられてきたわけだ。そんな彼らに、本当の意味で他人と打ち解け合うことができると思うかね。他者をゆるし、他者を信じ、他者と連帯して、世界の脅威に立ち向かっていけると思うかね。そんなことは、断じて不可能。君の言っているのは、人間というものを片側からしか眺めたことがない、眺めようとさえしない、お花畑育ちのお嬢ちゃんの、蜂蜜みたいな空理空論にすぎんのだよ」
ウツロの、目を血走らせた長広舌のあいだ、エリカは、必死に反論の言葉を模索しつづけていました。けれども、そんなふうに何か言い返そうとすること自体、ひどく恥知らずなことのようにも思えるのでした。
わずかな沈黙のあと、少しだけ冷静さを取りもどしたようにも見えるウツロは、こんなことを言いだしました。
「だが、道は、ないわけではない」
エリカは、伏せていた目をそっとウツロに向けました。
「知らないものは、学べばいい。これから、知っていけばいい。――そこでだ。君に、これをあげよう」
ウツロが差しだしたのは、大きなブローチ、のようなものでした。夜空を支配する怪鳥の瞳のような、あるいは結晶化した血のような、嫌な感じのする、うつくしい宝石です。
「先ほどの、実家の民宿の話だが、君は確か、『傾聴』を得意としているのだったね」
エリカは、渡されたものを胸につける自分を遠くから観察しているような錯覚にとらわれながら、機械的に、うなずきました。
「フィールドワークだ。行ってきなさい、『ゆがみの町』に。そして、住人に接触をはかり、『傾聴』を実践してきなさい。聴けば、聴くほど、その石は輝きを増していく。――わかるね。わたしの言っている意味が」
うなずいている自分が、遠くに見えました。
「より多くの可能性に惑わされる優秀な就活生よりも、切羽詰まった暮らしぶりで今ここに集中せざるを得ない彼らのほうが、高純度のウツロニウムを放出してくれる。その石が、青くうつくしい輝きに満ちたころ――もう一度、ここに帰ってくるがいい」
そしてこう、つけくわえました。
「計画書に、目を通してあげよう」




