第1四半期「ゆがみの町へ」
「夜時間を活用するうえで、
とても大切なことがあります。
それは、日中の自分を引きずらないことです」
(後藤勇人『結果を出し続ける人が夜やること』)
「でも、明けない夜はないんです」
(渡辺憲一『リクナビ、マイナビ就活に疲れたら読む本』)
さて、本題――リョウとシズナの動向――にもどりたく存じます。
船旅は、首長竜にもくらげの化物にもとくだんのご縁はなく、つつがなく終わりました。が、シズナが伸びをしながらタラップを渡りきった、その直後。
人混みから、風をまとった小さな影が飛びだして、走り抜けざま、
――ごめんよ!
のひと言とともに、ちょいと脇腹を小突かれる感覚が。
はっと振り返ってみても、あたりは下船した就活生たちで益々賑々しくなりつつあり、声の主は、トレースできそうにありません。
嫌な予感、というかもう確信とともに、お尻のポケットに手をいれてみると、
「やられた……!」
やっぱり、財布がなくなっていたのでした。
どうする? おまわりさんに通報する? 事態に気づき大慌てのリョウの意見も、なるほど、あれが何の変哲もない、普通の財布なら、そう的外れではありませんでした。
でも、あれはれっきとした「レガシー」の一つ。叩くたび、無限に経費の支給される、成金羊毛の長財布なのでした。この世界の連中には、できるだけ知られたくありません。
しかたなく、シズナは今回の一件を重大インシデントとして定義することにしました。そしていつもの手順で、身体にまとった青い光を拡大・伸長させていき、何かリョウには理解不能な言葉を、ぶつぶつ唱えると、あらわれたのは――。
あらわれたのは、大きなカメでした。そして、不思議なカメです。甲羅がホワイトボードになっています。
なんでも相談に乗ってくれる賢者亀カツモン・コンサルタートルは、その甲羅に文字を浮かべ、声でなく、筆致で心をあらわすのでした。
――お嬢様。
ボードの文字はかすれています。
「悪いわね」
シズナは少し、苦しそうに言いました。リョウは、心配そうに顔をのぞき込んでいます。
「『マナ』のことだけど――」
――わかっております。
その筆致は、事情を知らないリョウにも、どことなく悲しげに見えました。
コンサルタートルのみちびきで、二人は、財布泥棒をトレースすることになりました。
往来には、たくさんの人が歩いているのに、誰もこの奇妙なカメに注意をはらうものはありません。不思議がるリョウに、コンサルタートルは、こう説明してくれました。
――皆、ご自分の忙しさにとらわれていますからな。
リョウは、さらなる説明を待って、甲羅に目を落としつづけました。しかし、甲羅は甲羅のままです。
カメの歩みにペースを合わせて歩くのは、正直とても大変でした。でも、リョウは自分より、隣のシズナがやけにしんどそうなのが気がかりでした。気づけば、肩が大きく上下しています。
「エージェントさん?」
しかし、シズナは見向きもしません。
リョウは小走りに隊列を抜けだすと、自動販売機に有金をみんな投入し、ペットボトルのお水を二本、買ってもどりました。一本はシズナに、そしてもう一本は、コンサルタートルの、干からびた甲羅に。
シズナは黙ってひったくると、そのまま、一気飲み。
水を浴びたコンサルタートルは、上機嫌です。
――ふぉ、ふぉ、ふぉ。
と、瑞々しい飾り文字が甲羅に浮かび上がりました。
――さすが、お嬢様の見込まれた、就活生。
そう言われて、頭をかいているリョウに空の容器を押しつけながら、シズナは、
「そんなんじゃないわ」
と、吐き棄てるみたいに言いました。
夕暮れ時、一行の差しかかったのは、これまで見たこともないすがたをした町でした。
キャズムだらけの道路の両側、フェルミ推定で棟数を概算するのも嫌になるくらいずらっと、灰色のビルが並んでいます。壁には、スプレーでかかれたドクロ型四象限分析図。怒鳴り合いのディスカッションが聞こえてくる割れ窓の下、エナジードリンクの空き缶や、くしゃくしゃに丸まったエントリーシートが大量にころがっていました。
治安。この町の異様さがけっきょくただそれだけのファクターに帰着するなら、ボランティアに力を入れている一般の就活生などにも、じゅうぶん改善可能な状況でしょう。しかし、何よりも、二人が目を疑ったのは、この町の「ゆがみ」なのでした。
ビルも、電柱も、道端の枯れ木も。比喩でなく、言葉の通りに、ゆがんでいるのです。飴細工みたいに、ソフトクリームみたいに、ローレンツ曲線みたいに。
その、常軌を逸した光景のなか、灰色のスーツの、不思議と没個性な見かけの人々が平然とたむろし、
「兄ちゃん、適職知りたくねえか?」
「ねえお兄さぁん、ちょっと善いこと――ボ・ラ・ン・テ・ィ・ア♡――してかなぁい?」
「カツバト、ホンモノ、ゼッタイ、アルヨ」
いちいち会釈で応じるリョウの尻を、シズナは思いきり、キック。
「馬鹿! こういうのは、無視すんのよ」
その痛みがようやくひいてきたころには、あたりはもうすっかり暗くなり、そこかしこにぎらぎらと、目の痛くなるような蛍光色のネオンサインが灯りはじめました。
違法就活賭博。
偽造エントリーシート。
捏造証明写真。
密造リクルートスーツ。
かたわらのシズナに思わず、すがりつこうとして、二度目の蹴りを食らいそうになったリョウは、ふと、コンサルタートルの姿が見あたらないことに気がつきました。
シズナも、当然気がついていたふりをして、
「目的地に着いたってわけね」
そう言ってあたりを見回すと、路地のほうから、なにやら言い争うような声がします。足音を殺し、近づくと、暗がりからはたして今朝の、
――ごめんよ!
とおなじ、ように聞こえなくもない、声変わりしたてくらいの、少年の声が聞こえてきます。対してもうひとりは、若い女。
不測の事態に見まわれぬよう、へこんだビルの壁を背に聞き耳を立てていると、言い争いというより、少年が、一方的に女を責めているようにも聞こえます。女のほうは、言っていることの内容まではわからないものの、聞いていてなんだかむかむかしてくるような、物柔らかな口調で少年をなだめているようにも。
とにかく、腕ずくでやれる相手と見定めたシズナは、青い光こそまといませんが、今朝からの、いえ、屋敷をでてからの疲れが、めらめらと怒りのエネルギーに転化されていくのを感じていました。額の脂汗をぬぐい、突入の好機をうかがっていると、驚いたことに、先に飛びだしたのは、なんとリョウのほう。
「――は?」
ひそめていたシズナの声が、一気に爆発しました。
「あんた、――ちょっと」
何考えてるの、と引っ掴みかけたシズナの手をすり抜けて、リョウは、路地の奥へと駆け入っていきます。追いかけるシズナは、額に時計のある、あの毛むくじゃらのカツモンを思い出しながら、もっと、ぐんぐん、ボルテージ上昇中。
「ねえ。――ちょっと!」
鋭く尖ったその声は突然の闖入者に硬直したドロボウ少年か、それともすぐ目の前のリョウか、どちら宛てのものだかもう、わかりません。
しかし、リョウにしてみればそれどころではありませんでした。雑居ビルの入り口からもれる、か細いあかりの前で、まだドロボウと決まったわけでもない、シルクハットの少年とそろってこちらを見ているのは、なんと、エリカだったのです。




