第16四半期「それぞれの出発」
雨がいよいよ激しくなってきた。
引っくり返された段ボール箱から、本がたくさん散らばった。
エリカが子どものころから、ヨシヒトとアヤコはきっと将来に期待して、ということだろう、本ならいくらでも取り寄せてくれた。
島には書店がない。この本、本、本の山はぜんぶ、わざわざ船便で海を渡ってきたものだ。
リョウにもよく物語の本を、こっそり貸してあげたものだ――というのも、リョウが物語本に夢中になるのを、オカミさんはあまりこころよく思っていなかったようだから。
それにしても、なつかしい本ばかりだ。
どんなとき、どんな場所で、どんな気持ちで読んでいたか思い出せないものはない。
けれども内容は不思議と薄れたり、あるいは奔放な記憶のなかで勝手に創り変えられたりしてしまっているみたいだ。
――あの本、どこにあるんだろう。
どの物語だったろう。
一冊一冊、すみずみまで読み返している余裕はない。
おそらくもうナマズさんにはそれほど多くの時間は残されていないのだ。
手当たり次第捲りながら、記憶を蘇らせていくしかない。
馬鹿げているだろうか? 物語本のなかにヒントが隠されているだなんて、そんなこと本気で思うなんて。
そうかもしれない。
――リョウの影響かな。
ふとそう思いあたった時、目に留まったのは、床に散らばったどの本でもなかった。
本棚。
まるで開かれる時を待って、待ちつづけて、待ちわびて、今にも眠りにつこうとしているような……そんな格好で仕切り板にもたれかかっている、緑色の本。
――あ……!
そう、難しい古典語で書かれた、あの緑色の本だった。
エリカは手を伸ばした。
いざ手に取ってみると、ひどくかび臭かった。
貴重な本にはちがいない。
ちがいないのだけれど――。
――ちょっと読んで、挫折しちゃったのよね。
当時の、大学入学前のエリカの語学力では手に負えるしろものではなかった。
おそるおそる、本を開く。鉛筆と赤ペンで書き込みをしてあるページはすぐに見つかった。
かるく、目を走らせてみる。
――「貢献」の儀式……貢献って、あの貢献? 社会貢献とかの? それとも「献身」とか? ううん、「献上」かも知れない。
と、読み取ってから気がついた。
その単語には、四年前のエリカはとくになにもメモを添えていない。
それなのに……。
――わたし……。読めてる……?
本を持つ手が震える。
読めてる……?
読めてる!
たしかに、読めている。
逸る気持ちで、他のページを捲った。ランダムに。
――「代理人と、就活生の物語」……。
母語でない言葉を、その言語のままイメージに変換できる熟達者のなめらかさは、さすがにまだない。
けれども一度母語に置き換えて、そのうえで解釈を試みることはじゅうぶんにできる。
できる。
最初っからできたわけじゃない。
――わたし、……勉強してきた。
そう、いっぱい勉強してきた。
努力してきた。
わたし、がんばってたんだ。
わたし、なんにもできないわけじゃない。
エリカは、椅子に飛び乗った。
そして、物語の世界に漕ぎだしていった――。
――エリカが物語の世界に潜っていったころ、リョウは外の世界に出てきていた。
港だ。
相変わらず花鏡院コーポレーションのトラックや、白装束の作業員達がせわしく行き来している。
隣にはランニング・ウェアの大男。
そしてリョウもまた、おんなじウェアを着用している。といっても、二人とも走っているわけではない。
立ち止まり、注意深くあたりの様子を観察している。
「うす」
大男は二次選考の対戦相手・オニガワラだ。
彼は図体に似合わぬ小声で言った。
「リョウさん、自分たち……怪しくないっすか」
リョウは素直に認めた。
しかし元のままの姿でうろつくよりは、よほど安全にちがいない。
でっかい身体の特徴的なオニガワラはともかく、リョウなどフードもかぶってしまえばもう誰が見ても今話題の「奇蹟の就活生」だとは気づかない。
この二人が、どうして夜の港なんかに?
それをあきらかにするためには、すこし遡ってみる必要がある。
置手紙でタナカとシッポのボッチ島行きを知ったリョウは、まず工房を訪ねた。万一、もどっているかもしれないと思ったからである。
が、何度ノックしても反応はなく、中からあのトン、カン、トン、カン! が聞こえてくるわけでもない。
と、いうことは、二人は行ったきりまだもどらないのだった。
そこに、シズナがやって来た。
表情は曇っている。というか、疲れている。憔悴している、といったほうが近いかもしれない。
用件は、思いがけないものだった。
「これ」
と、見覚えのある水色の封筒を取りだしたのだ。
一次選考の、合格通知。けもの臭さとつよい悲しみとが一時に蘇って、ウッと息が詰まりそうになった。表面に、やはりあの時と同じく「親展」の班が押してある。
「開けちゃった」
どこか平板な声でシズナは言った。やっぱり、疲れている感じだ。
リョウは手紙を受け取った。
それは二次選考合格通知、そして三次選考・SPIの詳細案内だった。
「もう、結果出たんだ……」
心から喜べない。
「まあ……わかっていたようなもんでしょ」
リョウはシズナを見た。
このとき、リョウはまだ知らなかった。
リョウの選考経過は各種メディアに過剰ともいえる賞讃、いやほとんど礼讃とともに、つぶさに報じられているということ。
それら報道内容は媒体によってバラバラに異なっているのに、なぜか誰もその食いちがいに気がつかないらしいということ。
一致点として、リョウは「圧倒的勝利」を飾ったことになっているということ――。
「オレじゃなくて」
リョウは、リョウらしからぬ自嘲とともに漏らした。
「レジェンド・リクルート、なんだよね。勝ったのは」
就活、あんなに楽しかったのに。
あんなにせいいっぱい戦ったのに。
シズナは、尋ねた。
「……三次選考、どうするの?」
「……やる」
リョウは、つとめて即答した。
「オレ、就活したい」
「……朱雀も残ってるらしいわよ」
三次選考ともなると、出場者は絞られてくる。みんな、相当優秀な者たちだ。氏名・年齢・略歴・志望動機などが、ネットニュース上で公表されているのだった。
「朱雀……。オレと同じ本を持ってた」
シズナは、なんにも答えなかった。
やっぱり、怒っている? 疲れている?
リョウは問いかけずにいられなかった。
「シズナさん、さっきのこと――」
しかし、シズナはそれを遮った。
「行くんでしょ? あの女のとこに」
「……うん。ボッチ島」
リョウの胸は奇妙に高鳴った。
就活を終えるまで、けっして帰らないつもりだった故郷の土を、久しぶりに踏もうとしているのだ。
――と、感慨に耽り込みそうになって、あわててつけ足した。
「あ、でも、三次選考までには帰るから――」
「勝手にすれば」
シズナは投げやりに言った。
「わたしじゃなくて、あんたの就活なんだから」
リョウの背中を見送りながら、シズナは思った。
カツバト・プロトタイプを起動させられるとしたら選考中。
きっと、選考中しかない。
その時に、やるしかない。
もし本当に、やるのなら。
――やるの? わたしは、本当に……。
リョウは毎回、すごく苦しそう。そして、すごく寂しそうだ。
光に包まれるたび、大切ななにかが壊れていっているような気がする。
合格通知を受け取った時の、あの複雑な表情。
はじめてまともに言葉を交わしたときと、まるで別人になってしまったみたいだ。
わたしはわたしの願望のために、リョウを苦しめるの?
このうえリョウの苦悩を増やすの?
父の言葉がよみがえる。
――永遠に夢のうちに生きる彼には、現実の苦しみなど、自覚する暇もない。自覚しようがないじゃないか?
そうかもしれない。
……それは、そうかもしれないけれど……。
……長い時間をかけて、シズナの出した結論はこうだった。
三次選考、それに賭けてみよう。
リョウがもどってくるかどうか、そこに賭けてみよう。
もどってこなければ、選考そのものがなくなる。
だからレジェンド・リクルートなんかの出る幕もない。
ということは、父の計画自体が成り立たない。そうなれば、わたしはリョウを裏切らずにすむ。
自分のなかで、きっと踏ん切りもつく。
でももし、もどってくるようなら……。
もどってきてしまったら……?




