34、従者と家族④
紅い瞳が、大きく見開かれる。
これがロロを苦しめることはわかっていたが、それでもミレニアは心を鬼にして言葉を続けた。
「お前の言う通り、私はきっと、”従者”に弱音を吐くことはない。これから先、生涯ずっと――それこそ、死の直前であっても、ずっと」
ピクリ、とロロの滅多に動かない頬が動く。
何か――ミレニアの知らない時間軸の中で、思い当たることがあったのかもしれない。
紅の瞳が苦し気に眇められたのを見て、ぎゅっとシーツを握り締める。
酷く心苦しいが――ここは、しっかりと伝えておくべきだろう。
「民を導く君主たるもの、孤独を恐れてはならない。救いを求める人々の手を取ることはあっても、いつでも手を離せるように、決して握り返してはならない。己が誰かに救いを求めて他者の手を求めるなど、もっての外。君主とは、与える者。持ち得るすべてを民のため、国家のために擲つ者。――ただ、過酷な運命を共にする、”家族”を除いて」
それは、幼いころから聞かされてきた、偉大なる父から授けられた君主論。
ふ……とミレニアは吐息で笑う。
どこか哀しい、笑みだった。
「従者もまた、私にとっては守るべき民の一人よ。彼らのために、全てを擲つ覚悟があるわ。勿論――必要とあれば、己の命を差し出すことも、厭わない」
「っ……!」
「その者が、頼りになるとかならないとか、信頼できるとか出来ないとか、そういう問題じゃないの。お前はとても頼りになる従者だし、信頼しているわ。勿論、お前以外の従者も、同じ。どの者も皆、優秀で、頼りになる、信頼すべき愛しい臣下たちよ」
優しい声音を紡ぐのは、女神の微笑。
――これ以上を決して踏み込ませない、慈愛の微笑み。
「付き合いが長いとか短いとか、そんなものは関係ない。出自が貴族だろうが市民だろうが、奴隷だろうが、関係ない。私を慕い、私に従うと意思を表明してくれた時点で、等しく私が庇護すべき民であり、臣下よ。私は、彼らの信頼にこたえる義務がある」
国を治めるのは、綺麗事ばかりではいられない。
時には、大多数の利益のために、不自由を強いる者も出るだろう。国家のために死地へ赴け、と命ずることもあるかもしれない。
どれほど心を賭して尽くしても、万人に好かれることは不可能だ。酷い恨みを買うことも一度や二度ではないだろう。
その血塗られた道を、恐れず覚悟を持って――己を恨む声すらも受け止め、背負い、最後まで歩き続ける者こそが、君主たりえる資質を持つ。
「怖い、苦しい、辛い、どうしたらいいかわからない――そんな弱音を、周囲に漏らすことは決してない。弱い君主に、民は付いて来ない。何より弱い君主は、大事な決断における他者の介在余地を大きくする。弱音をこぼし、他者の干渉を必要以上に許して下した決断の責任を取るのは、誰かしら?……他でもない、私でしょう」
「ですが……」
「そもそも、時に非情な判断を下すこともある君主が、感情に左右されていては、道を見誤る。だから君主は、”個”の感情を限りなくそぎ落とせと言われるのよ。何故なら、そうして道を誤った先――苦しむのは、私じゃない。巻き込まれた、愛しい民であり、臣下だわ。だから私は、覚悟を持って”決断”をする。勿論、”判断”をするための情報を、臣下に求めることはあるでしょうけれど――”決断”をするときに、他者を頼りはしない。……失敗したときの責任を、決して他者に背負わせたくないから」
翡翠の瞳が、凄絶な覚悟を持って、強く輝く。
それこそが、一つの国を建国するのだと決意したミレニアが胸に抱く、矜持だった。
「だけど、”家族”は、別だわ。――家族は、私の決断と運命を共にする存在だから」
「!」
ふ、と完璧な笑顔が崩れ、苦笑に近い色が混じる。
「革命が起きれば、旧支配勢力は、一族郎党皆殺しが基本よ。その個人がどんな罪を犯したかは関係ない。生かしておけば、後々、看過することのできない火種となりうる。疑わしきは、先に始末しておく――それが、鉄則だから」
瞳を閉じれば、つい昨日のように、己が生まれ育った城が炎に包まれた夜が蘇る。
たくさんいた兄姉も、その妻子も、皆、例外なく首を刎ねられていった。
革命が起きたにもかかわらず、今、こうしてミレニアの首が繋がっているのは、本当に奇跡としか言いようがないのだ。
「だから、君主が道を誤れば、何の罪もない家族に迷惑を掛けるわ。だけど――君主の家族として生きるとは、その覚悟を背負うこと。そうして一緒に背負ってくれる覚悟に感謝と敬意を表して――運命を共にする唯一の存在として、”個”としての自分を共有するの」
クルサールが言っていたように、人は、決して強くない。
君主とて、人だ。感情を表に出さないようにして、決断に個の感情を挟まないようにしているだけで、感情そのものが存在しないわけではない。
思い悩むこともある。苦しく、辛く、逃げ出したくなる時もある。
そんな時――誰にも助けを求めることを許されない君主が、唯一頼るべき先として選ぶのが、有事の際に、運命を共にする家族だ。
「お前が私の”家族”になってくれるなら、私はお前が望むように、お前に助けを求めることもあるでしょう。辛い、苦しい、と個人の感情を共有して、『助けて』と縋ることもあるかもしれない」
「!」
「だけど、お前が”従者”であり続けたいというのなら――最期まで決して私の申し出を受け入れないのだというのなら、仕方がないわ。私は誰か他の人間で”家族”になってくれる者を探し、その者と”個”を共有して生きていく。その決断をした世界では――今回のように、今にも倒れそうになったとしても、決してお前を頼ることはないでしょう」
パチッ……と薪が爆ぜて、小さな音が響く。
外は既に真っ暗になり、赤々と燃える暖炉の火が、二人の顔を照らし出した。
しばし、沈黙が続く。
じっと黙って拳を握り込んだままの護衛兵に、しびれを切らしてミレニアは口を開いた。
「だから、もしもお前が、私に弱音を吐いてほしいと思うなら――」
結婚の申し出を受け入れろ、と言おうとして。
ずっと俯き黙っていたロロが、不意に顔を上げる。
彫刻のように美しい顔が紅い火に照らされ、神秘的で芸術めいた魅力を伴い、ミレニアを正面から見つめた。
ドキン……と思わず、心臓がときめく。
「俺には、”家族”の記憶が、ありません」
「ぇ……?」
「物心ついたときには既に、奴隷小屋にいました。親兄弟というものの存在は、知識としては知っていますが、それ以上の理解がありません」
「え……えぇ……」
シルバーグレーの睫毛が微かに伏せられ、炎に照らされた頬に影を作る。
「俺自身、誰かに頼って生きたことはありません。奴隷小屋では、いつも、信じられるのは自分だけでした。奴隷商人はもちろんのこと、共に奴隷小屋に入れられている境遇である奴隷同士でも、頼り、縋って、弱みを見せれば、狡猾に利用される。いつ自分の命が脅かされるかわからない状態で、毎日息をして、鼓動を刻むため、独りで生き残る術を常に考えていました」
「そう……」
想像することしかできないが、きっと辛い幼少期だったのだろう。淡々と語るロロの言葉に、ミレニアも漆黒の睫毛を伏せる。
「貴女が、失った家族を大切に想っていたことは知っています。貴女の周りには、本来貴女が助けを求め支え合いたかった家族がいて――それが叶わず、彼らが各々が認めた家族と温かな交流を築いているのを、羨ましく思っていたのだろうと、想像することは出来ます」
心の内を見透かされるような言葉に、きゅっ……とシーツを握る手に力がこもった。
「想像は出来ますが――俺には、よくわからない。貴女が求める家族の温かさも、心強さも、何も」
「それは――」
「そんな俺に、貴女が望むものを与えられるとは思えません。……それを良く知る、普通の男を選ぶ方が、はるかに貴女の望むものを得られるはずです。心を許せる家族こそが、貴女が人生で本当に手に入れたいものなのだとしたら――なおのこと、こんな男を選ぶべきじゃない」
しん……と部屋に幾度目かの沈黙が降りる。
「そう……お前が、何度も頑なに「幸せにすることが出来ない」と言っていたのは、そういうことだったのね」
彼が頑なにミレニアを幸せに出来ないと拒否を示していた本質を理解して俯く。
ロロは、ミレニアを愛しているからこそ――彼女がその生い立ち故に人生で『家族』に求めるものの大きさと重要性を推察出来るからこそ――彼女に真に幸せになって欲しいと思えば、ミレニアの申し出を受けることは出来なかった。
青年は静かに、ゆっくりと、口を開いた。
「きっと、いつか、貴女に相応しい男が現れます。旧帝国の人間なのか、まだ見ぬ北の大地の人間なのかはわかりませんが――貴女が求める家族の温かさを知っていて、貴女を支え、貴女を喜ばせ、貴女を幸せにしてくれる男が、きっと」
切れ長の双眸が閉じられ、軽くうつむく。
きっとその男が現れれば――ミレニアは、弱い心を吐露して、助けを求め、心置きなくその胸で涙を流すことが出来るのだろう。
少女が女帝の仮面をかぶったまま、涙を隠して唇をかみしめることは無くなり、寂しさに翡翠を揺らすこともなくなる。
そうして幸せを心から享受するミレニアを遠くから見守ることが、ロロにとっての真の幸せ。
「俺に出来るのは、せいぜい――その男が見つかるまでの間、貴女が弱音を吐露する場となることです。俺には、それ以上何もできない。"家族"にはなれませんが……ただ、傍にいます。たとえ貴女の周りに誰もいなくなり、世界中が敵になっても、ずっと――貴女がどんな決断を下し、どんな運命を歩んだとしても、共に同じ運命を歩む貴女の”騎士”として」
”従者”は、契約の上に成り立つ双方に利害関係が生じる関係だ。どちらかに利が無くなれば、契約は解消されることもある。
だが――”騎士”は、己の信念を基に、生涯唯一の主を決める。
対価など求めることはなく――ただ、己が定めた”主”に仕えることが出来る誇りと喜びを胸に、生涯違えぬ絶対の忠誠を誓うのだ。
「俺は、貴女にとっては従者の一人かもしれないが――貴女が、名付けてくださったのです。名前を持つこともなく、何者でもなかった俺に向かって、”騎士”となれ、と」
家族の温かさも知らない、名乗るべき名前も持たない。ただ利己的に、自分の命を繋ぐことだけを考えて生きてきた浅ましい奴隷に、過ぎた名前を与えてくれたのは、他でもないミレニアだから。
「”家族”ではない俺に、弱音を吐くなど――と、お思いになる気持ちは、推察いたしますが……どうか、貴女の大切な人が出来るまででいい。辛く苦しいときには、独りで抱え込まないで、俺を使ってください。どんなに凭れかかっても、八つ当たりをしても構わない、体のいいサンドバッグとして使ってください。――貴女が望むかどうかに限らず、俺は、貴女がどんな道を歩んだとしても貴女と同じ運命を歩みます。仮に、貴女が道を誤り、国民から糾弾され、命を狙われるような事態に陥ったとしても――貴女の”騎士”として生きろと言われた俺が、貴女と道を違えることなど、生涯決してあり得ないのだから」
ミレニアが、唯一家族に弱音をこぼすことが出来る理由が、過酷な運命でも強制的に道連れにしてしまうせいだというのなら――ロロにもまた、資格があるはずだ。
それは、実際に革命が起きたあの夜に、証明していた。
世界中がミレニアの首を狙っていると思えたあの絶望の夜に――ロロは、ミレニアを抱え、決して誰にも屈しなかった。
酷い裏切りをしたクルサールにも。反旗を翻した民にも。――何度も執拗に命を狙う、死神のような運命にも。
誰一人味方がいない状況下で、何度ひざを折り、未来を諦めそうになったとしても、少女が巻き込まれた非情な運命の中、自らその運命に足を踏み入れ、最後の最後まで、足掻き続けた。
何十年も、ずっと、ずっと――絶望で塗り固められた修羅の道を、少女の”騎士”として、たった独りで歩み続けたのだ。
「……もう。やはりお前は、頑固だわ。従者としても、騎士としても」
大きく嘆息して、ミレニアは観念したような声を出す。
「どうやら、交渉の仕方を間違えたみたい。お前は、どこまでもまっすぐだけれど、とってもやりにくい交渉相手ね」
むぅ、と口をとがらせるミレニアの顔は、とても褒められているようには思えない。
ロロは控えめに視線を外して頭を下げた。
「全く……少しくらい可愛げのある反応を見せてくれてもいいじゃない」
シーツの下で膝を立てて、その上に頬杖を突くようにしながら、ぼやくように唇を突き出す。
ちらり、と視線をやるも、どうやらロロは言われている意味がよくわかっていないらしい。いつもの無表情の中に、「?」のマークが見えるようだった。
はぁ、と呆れたように嘆息した後、ミレニアは仕方がなく認める。
「嘘よ」




