31、従者と家族①
パチリ……と暖炉の火が爆ぜる音がした気がして、そっと瞳を開けると、見知らぬ木製の天井が目に入った。
「……ん……」
ミレニアは目覚めたばかりのぼんやりとした頭で、ここはどこだろう、と考えながらそっと目をこすって起き上がる。
つい癖で、レティを呼んで頭がすっきりするような茶をお願いしようとしたところで、予期せぬ声がすぐ脇から掛けられた。
「お目覚めですか」
「へ……?」
ぱちぱち
大きな翡翠の瞳が何度も瞬きをする。寝過ぎてぼんやりしていた頭が、驚きのあまり一瞬で覚醒した。
「ロ――ロロ!?」
寝起きにはあまり見ることのない青年の存在に驚いて、思わずシーツをかき集めて身体を隠す。乱れた寝間着姿を一番見られたくない存在だ。
しかしロロは気にした風もなく、いつも通りの無表情でベッド脇にじっと控えたまま、ミレニアの顔を覗き込んでいる。いつもは立ったままで職務に当たる彼が椅子に腰かけているの姿を見るのは、実はレアだ。
いつもと違う目線の高さから、至近距離で顔を覗き込まれて、ドキドキと勝手に心臓が駆けだした。
「な、ななな……何故、お前が――」
「……顔色は、良くなったようですね。熱は――……失礼いたします」
「ひゃっ……」
こちらの質問に答えることなく、武骨で大きな手がすっと額に添えられ、驚きのあまり間抜けな声を上げてしまう。
普段は自分から手を触れることを厭うくせに、どうして今日はそんなにあっさりと触れて来るのか。
すっぽり覆いつくされそうな大きさの温かさに、一瞬、心臓が止まるかと思ったではないか。
「熱もなさそうです。脈拍は――」
「ちょ、お前、一体何――ふ、ふぁっ!?」
額に置かれていた手が、するり、と当たり前のように滑って首の根元辺りに添えられ、ビクンッと身体全体が跳ねる。
ごつごつとして骨ばり、鍛え抜かれて固くなった無骨な掌が、驚くほど優しく触れるものだから――まるで恋人からの甘いスキンシップを受けているかのような錯覚をしてしまうではないか。
「……?……随分早いですね」
「おっ、お前がいきなりそんなところを触るからでしょう!」
いつもの無表情が軽く眉根を寄せて怪訝な表情を見せたのに対し、カァッと赤くなって反論する。ドクドクと心臓が暴れまわるようにうるさく鼓動を刻んでいた。
「……体調は」
「へ!?な、ななな何!?」
「体調は、もう、よろしいのですか」
(体調?――……あ、そういえば……)
ロロの紅玉の瞳に心配の色を見て取って、初めて眠る前のことが蘇ってくる。
馬車の中で疲労回復の魔法が効かなくなったと悟り、どうやって従者をごまかすか必死に考えた。野営地点到着までのわずかな時間を少し目を閉じて休めば、馬車を降りるときには再び魔法で誤魔化せるようになってたが、直近の周期から、どうせそんなに長く持たないことはわかっていた。あれはきっと、蝋燭の火が最後の一瞬だけ強く輝くようなものだったのだろう。
(何かに気づいた風のロロを無理やり狩りの部隊に入れ込んで、万一に備えて結界を張って――結界を張ったのを最後に、魔法効果が切れてその場に倒れ込みそうになってしまったから、ネロを伴って女たちが働く野営地点を離れて……)
ぐるぐる回る視界と、こみ上げてくる嘔吐感、割れそうな酷い頭痛を堪えて、必死に雪の中を歩いた。ゾクゾクとした寒気が襲ってきて、熱も上がっている気配があったため、倒れる前に早く野営地点を離れたかった。花摘みと誤解したらしいネロは怪訝な顔をしていたが、構っている余裕はなかった。
従者たちから見えなくなった、というネロの言葉に安堵したのを最後に、ダムが決壊するようにそれまで堪えていた吐き気が押し寄せ、服や地面を汚すことを厭わず、盛大に胃の中の物をぶちまけてしまった。
割れそうな頭の痛みの中、ネロの悲鳴のような声が響いていたのを何となく覚えている。
(熱と頭痛が酷かったせいか、どうにも記憶が途切れ途切れだわ……確か、酷い嘔吐だけは、ネロの魔法で治まったけれど、それ以外はどうにも出来ずに……疲労回復の魔法が効かないから、時間薬しかないとネロに伝えたところまでは覚えているけれど――)
そこからぷっつりと記憶が不自然に途切れている。――どうやらネロは、睡眠の魔法を使って、強制的に休息を取らせるという判断を取ったらしいと悟った。
ぐるり、と周囲を見渡すと、どうやらどこかの宿の一室らしい。
おそらく、そのままネロはミレニアを起こすことなく野営地点に戻り、魔法をかけられた状態のまま、眠るミレニアを近くの村なり街なりに運んだのだろうと推察できた。
(全くもう……従者にこんな姿を見せたくないと言ったのに――どうりで、ロロがこんなに過保護を発揮しているはずだわ)
やっと、どうしてロロが急に、緊急時以外は決してしない『自らミレニアに手を触れる』という行為に至ったか悟った。
彼にとって、ミレニアが過労で倒れ、意識を失うなど、緊急事態以外の何物でもないのだ。接触を気にしている場合ではない、ということだろう。
「姫……?まさか、まだ、どこか――」
じっと黙って俯いたまま頭を回転させているミレニアの身を案じたのだろう。ロロが再び過保護を発揮しようとする気配を感じて、ハッと質問を受けていた事実を思い出し、慌てて顔を上げる。
「あ、ご、ごめんなさい!大丈夫、大丈夫よ」
「……本当ですか?」
ぎゅっとロロの眉間に皺が寄り、思い切り疑わし気な視線を向けられる。――どうやら、全く信用されていないようだ。
(まぁ……それも仕方がないわよね。きっとロロは、馬車を降りた時点で、私の様子が何となくいつもと違うことに気付いていたようだし)
さすが、五年間――記憶のない月日を合わせるともう何十年間――毎日嫌というほど一緒にいた男だ。あの時は束の間の魔法効力のおかげで、疲労を一瞬だけとはいえしっかりと回復させていたはずなのに、彼は些細な変化も見逃してはくれなかったらしい。
それでもミレニアが主として采配を取ったため、違和感を抱きながらもミレニアを信じて従ってくれたのだろう。
いわばミレニアは、その信頼を裏切った形になる。
いくら口で「大丈夫」と告げたところで、疑いの眼を向けられるのはある程度許容せねばなるまい。
――それだけのことを、したのだ。
「本当よ。まだ倦怠感は残っているから、身体を動かすのは億劫だけれど――それだけ。頭痛も吐き気も収まって、熱もしっかり下がっているから」
「……」
「本当だって言っているでしょう。信じて、ルロシーク」
ぎゅぅっとなおも眉間に一つ深いしわを刻んだロロに、困った顔で訴える。
「それより、ここはどこ?従者の皆は?私はどれくらい眠っていたのかしら?」
少し話題を変えようと、窓の外を見ながら訪ねる。外は、チラチラと雪が舞っていて、ガタガタと窓を揺らす風が低く唸っていた。
記憶にあるのは、積雪はあるものの晴れ渡った空だった。そしてあの時汚してしまった服も着替えさせられて、今は楽な寝間着姿だ。恐らくそれなりの時間が経っているのだろうと想像し、問いかける。
「姫が倒れてから、二晩ほど経過しました。今は、三日目の夕方です」
「ふ、二晩!!?」
「ここは、ベスの林の先にあった一番近い村の宿屋です。村の規模はとても小さく、全員が宿泊することは出来ません。雪雲がまた近づいているという報告があったので、あまり大人数を村の外で野営させて凍死者や風邪を引く者が出ても困ると思い、最小限を残して他の隊は先に進ませました。ガント大尉が言うには、ここから北西方向――距離にして馬で一日ほど行ったあたりに、旧帝国軍の所有する保養所があるらしく、部隊はそこで悪天候をしのぐことにしました」
「さ、最小限、って……?」
「俺と、レティと、ファボットの三名です。ファボットは馬の世話と姫が回復してからの移動を任せるため、レティは眠っている姫の細やかなケアを任せるために残しました。万が一魔物が出たときの戦力となれるよう、ネロは他の者と一緒に行かせました」
「そう……ベスの林の先……軍の保養所……あぁ、思い出した。そういえば、そんなものがあったわね」
頭の中に、かつて紅玉宮にいたころに読んだ書物の内容を思い描いて呟く。
そこから距離を割り出し、当初のスケジュールとの差分を考え、ぎゅっとミレニアはシーツを握った。
「予想外に大きな遅れを取ってしまったわ。一刻も早く主力部隊と合流して――」
一瞬で”将”の顔になったミレニアが、顔を上げたときだった。
ぐぅぅぅぅ……
「きゃっっ!!!?」
急に自己主張を始めた腹の虫に驚き、慌てて両手で腹を抑える。
「~~~~~~っっ」
淑女が、なんとはしたないことだろう。
それも――好きな男の前で、なんと間抜けな事態か。
真っ赤になって言葉を失い、俯いてしまったミレニアに、ロロはぽつりと口を開く。
「……ほぼ三日、何も腹に入れていないのです。腹も空くでしょう」
「っ……忘れて……」
消え入りそうな声で呟く。穴があったら入りたい。
しかしロロは気にした風もなく、隣の小さなデスクに用意されていた小さな鍋へと視線を遣る。
宿屋で借りたらしいそれは、足のついた網の上に乗せられており、その下には木炭が置かれていた。
ロロは瞬き一つで木炭に火をつけ、鍋を温め始める。
久しぶりの食事となることを考慮し、消化に良いようにと、一人分の薬膳粥のようなものを作ってくれたらしい。
「レティが、もしも姫が目覚めたら食べさせてくれと、用意していました。少し前に持ってきたばかりなので、すぐに温かくなるでしょう。お待ちください」
「ぅ……ぅぅぅ……」
再び鳴り出しそうな腹の虫を必死に押さえつけながら、ミレニアは涙目で呻く。本当に、消えてしまいたい。
ロロはそんな主に構うことなく、くつくつと湯気を立て始めたそれを小皿に取り分け、小さな匙を取ると、いつも通りの無表情のまま、当たり前のようにとんでもないことを言い出した。
「――口を開けてください」




