30、雪の中で⑥
ぎゅっ ぎゅっ
新雪を軍靴で踏みしめながら、林の中を獲物を探して歩く。酷く寒いが、晴れているため、足跡が消されるような心配はない。元の場所に戻るのに困ることはないだろう。
(姫――本当に、大丈夫だろうか……)
ぼんやりと、先ほど見た少女の顔が浮かんで、ふっと物思いに沈む。
不意に取った時、いつもよりも冷たかった、小さな手。去り際、いつもより蒼白く感じた、美しい肌。
(車内でも本を読んでいらっしゃると言っていた……馬車酔い、か?光魔法で治す、などと言っていたが……もしかしたら、ご本人が気づかないうちに、疲労がたまっていらっしゃるのでは……)
帰ったら、休息を取るように進言した方がいいかもしれない。何せ彼女は、一度集中すれば、ソファだろうが執務机だろうが関係なく、体力がゼロになるまで徹底的にのめり込み、プツリと糸が切れたように眠ってしまうような少女だ。
まして、彼女の体力のなさは、誰よりロロがよく知っている。
魔法という便利な力を得てしまったが故に、気づかないうちに無理を重ねているとも限らない。
(……駄目だな。どうにも、集中できない。姫の身に明確な危険が迫るとわかっているとき以外は、姫の将としての判断に従う、と約束したのに――)
ふるっ……と頭を振って雑念を追い出し、意識的に林の木々へと目を凝らし、耳を澄ます。
野生生物の爪痕や鳴き声など、何かの痕跡があれば――と思っただけだったが、研ぎ澄ました聴覚は、予期せぬ音を拾った。
『――――』
「――!」
しん……と静まり返った冬の林に、甲高い声が聞こえた気がした。
思わず声がした方角を振り返る。
「おい、ロロ!?どこに行くんだ!?」
気づいたときには、全力で走り出していた。
傍にいた仲間の制止の声も無視して、必死に足場の悪い雪原を駆ける。
(狩りや採集に出ている男たちは、成人している奴らばかりだ――!あの、声変り前の、甲高い声は――)
脳裏に蘇るのは、最近の穏やかで生意気な少年の姿ではない。
何十回と繰り返した、悪夢のような記憶の中――いつだって、クルサールを殺そうとするたび、その身を挺してロロを止めようと歯向かってくる、凄絶な顔の、少年兵。
その彼が、必死な形相で「クルサール様!」と悲鳴のような声で叫ぶのを、何十回と聞いた。
今、鼓膜が拾った微かな声は――その時と同じ響きで、「姫サン!」と叫んだように、聞こえた。
「姫――!」
(無事でいてくれ――!)
護衛として傍に侍らせる、と言っていた少年兵の悲痛な叫びが意味することを考えると、心臓がバクバクと尋常ではない振動で暴れまわる。
今まで何度も経験した、愛しい少女を失う恐怖に指先がすぅっと冷えて行き、ガンガンと割れそうな頭痛が襲ってきた。
勘違いなら、いい。
野生動物の声を、ミレニアを想い続けるあまりに聞き違えた、などという間抜けな結果なら、何も問題ない。
一番怖いのは――この、最低最悪の想像が、現実となること。
ザクザクと乱暴に雪を踏みしめて駆けて行くうち、嫌な予感が的中したことを悟る。
遠くに、何やらうずくまっている黒髪の少年兵の背中が見えた。
「っ――!」
(姫は、どこだ――!?)
慣れない雪に足を取られて転びそうになりながら、必死に少年の背中を目指す。周囲に、なぜかミレニアの姿は見当たらない。
恐怖と緊張で息が乱れて、上手く呼吸が出来ない。ハァ、ハァ、と荒い息を吐くたびに静かな林に白い靄が漂う。
一秒が、永遠のように感じる。
なかなか埋まらない距離をもどかしく思いながら、必死に少年の傍へと駆け付けて――
驚いた顔で、少年が振り返った。
その腕の中に――ぐったりとした様子で、意識を失った少女を抱えた状態で。
「――ひ、め――……」
唇の端から、呆然とした声が漏れる。
ツン、と鼻を付く異臭は、人間の嘔吐物の残り香だ。見れば、少女の美しい口元が、微かに吐瀉物で汚れている。
「アンタ――なんで、ここに……」
ネロは、驚いた様子でロロを見上げて声を出す。
ぷつん……と、頭の中で、何かが切れたような気がした。
過程は関係ない。結果が全てだ。
体調が芳しくない様子だった愛しい少女が、何故か女たちがいた野営地点から遠く離れた場所で少年兵と二人きりで孤立しており、吐瀉物をまき散らして苦しみ、ぐったりと意識を失っている。
そして、少年は――現れたロロを見て驚き、色を失った。
「っ――!」
ドッ
「っ、ぅ、わわわっっ!!!?」
足元の雪を巻き上げるほどの強烈な勢いで踏み込んできた男に、ネロは驚きのあまり咄嗟にミレニアを抱えたまま全力で飛び退る。
一瞬前まで自分がいた場所を、いつの間に抜いたのかすら見えなかった白銀の剣が一直線に薙いで行ったのを視界の端で捉え、ぞくりっ……と背筋を冷たいものが伝い降りた。
雪のためにロロの踏み込み速度が落ちていなければ、今の一太刀でネロの首はパックリと裂けていただろう。
「貴様――!俺の姫に、何をした――!」
「な、何って、何も――う、うわっ!ちょ、待て!!!」
ギラリ、と光る血潮の色をした瞳には、問答をさせてくれる余裕などなさそうだった。
追い縋り、迷うことなくまっすぐに鋭利な刃が迫ってくるのを、後ろに飛び退くことで避けるが、二つ飛びのいた先で、ドンッと背中が木に押し付けられた。
これ以上ない隙を見つけ、ギラッと真紅の瞳が燃え上がり、少年の頭蓋を貫かんと、白刃を容赦なく突き立てようとして――
「ままままま待てって、待ってくれ!!!」
「っ!!!」
ネロは背に腹を変えられず、手にしていたミレニアの身体を盾にするように掲げた。
ビタッ……と、少女の顔の手前指数本分のところで、鋭い切っ先が押しとどめられる。
「貴様――姫の身体を、盾に――!」
ごぉっ……とロロの身体から怒りと共に純粋な殺気がまき散らされる。
今、炎の熱源が傍にあれば、彼の感情に煽られ、間違いなく大爆発を起こしていただろう。
(忘れていた――こいつは、あの、クルサールの側近――!気を許していいような、存在じゃなかった――!)
己の判断ミスにギリッと奥歯を噛みしめる。
少女を身体を傷つけるわけにはいかない。
それを盾にされるならば、回り込んで後ろからなます切りにしてやるだけだが、あいにく少年兵は木を背後にしていて、それは叶わない。
火であぶり殺そうにも、少女も一緒に巻き込む可能性が高い。
ギチギチ……と怒りのあまり震える手をそのままに、一瞬でも隙が見えたらすぐに剣を叩き込めるよう、濃密な殺気をまき散らすしか今のロロには出来なかった。
「殺す――殺してやる――!」
「待てって、話聞いてくれ!俺だって、姫サンの身体を盾にしたくてしてるわけじゃない!こうでもしないとアンタはきっと話も聞いてくれないから――」
「馬車から降りた時点で、姫は様子がおかしかった――馬車の中に、貴様もいたな……!俺の目が届かない車内で、毒でも盛ったか――!?」
「は、はぁ!!!?してない、してねぇよンなこと!!!!」
ぶんぶん、と少女の陰に隠れたまま首を振って、必死に無実を主張する。
「クルサールの指示か――!?どこまでも忌々しい男だ……!やはり、あの日皇城で、何が何でも殺しておくべきだった――!」
チリッ……ボッ!!!
「ぅぉおおお!!!ちょ、待てって、落ち着け、ホントに!!!」
怒りが頂点を超えたのか、何もない空間に炎が勝手に顕現し、小爆発を起こすのを見て、ぞっと背筋を寒くしながらネロは叫ぶ。
噂には聞いていたが、ネロがロロの実力を目の当たりにするのは、初めてだった。
(正真正銘の化け物じゃねぇか――!)
魔力暴走など、魔法の制御方法を学んだあとに起こすことはほとんどない。まして、こんな風に、何もない空間に炎が勝手に顕現するほどの魔力暴走など、聞いたことはなかった。
「クルサールは関係ない!!!俺も、何もしてない!!!姫サンが、急に倒れたんだよ!!!」
「ならばなぜこんな人気のないところで――!」
「姫サンが、”従者”には苦しむ姿は見せられないって――だから、唯一、この一行の中で従者じゃない俺を選んで、ここまで連れてきて、急に倒れて、吐いたんだ!過労だって言うから、光魔法で治そうとしたけど、もう効かないって言われて――」
「そんな言葉を、信じろと――!?」
「信じてくれなきゃ困る!!!疲労回復の魔法が効かないから、普通に体力回復させるしかないって言われて――だから、魔法で眠らせた!それだけだ!!!」
轟々と怒りの業火を瞳の奥に宿す青年に、必死に言い募る。
「どうしても、って言うなら、魔法で今から姫サン起こして、本人から説明してもらってもいいけど――倒れるくらい苦しんでた姫サンを起こすのは、忍びねぇって俺は思う!どうしてもアンタが信じてくれなくて、俺を殺そうとするなら、俺も死にたくないから起こすしかないけど!!!」
全力の弁明に対して、返って来たのは、沈黙だった。
ぷるぷると震えたままミレニアの身体を抱え、影に隠れる。様子を伺おうと顔を出した瞬間、頭蓋を一息に貫かれる未来予測しかできなかった。
どれくらい、そうしていただろう。
ネロにとっては、永遠にも似た時間が流れ――
「……確かに、姫は生きているようだ。穏やかに息をしていらっしゃる。――今のところは、お前の言うことを信じてやる」
キン……と小さく納剣する音が響いて、やっとネロははぁっ……と息を吐く。いつのまにか、息をするのすら忘れていたらしい。肺の中の空気が全て漏れ出たようなため息だった。
安心のあまり、ずるり、と腰が抜けて、ミレニアを支える手からも力が抜ける。
「姫――!」
咄嗟に、ロロはミレニアだけを受け止めた。べしゃり、とネロは無様に雪の中に崩れ落ちる。
哀れな少年兵には一切構うことなく、ロロはミレニアをしっかりと抱き留め、吐息と鼓動を確認する。
(よかった――よかった……!温かい……息を、している――)
腕の中に閉じ込めて初めて、少女が確かに生きていることを実感し、心の底から安堵が押し寄せる。ぎゅぅっと一度しっかり抱きしめてから、己のマントをはぎ取り、少女へとぐるりと巻き付けた。
そのまま横抱きにして、迷うことなく女たちがいる元の地点へと戻ろうと足を向ける。
「あっ、ちょ、待てって!姫サンが、従者には知られたくないって言って――」
「大丈夫だ。姫が過労で倒れたと知って、心配や気づかなかった不甲斐なさで胸を痛める従者は数知れないが、姫に失望するような人間はいない。――そんなことよりも、姫を温かな火の傍でゆっくり休ませるのが先決だ」
「ま……まぁそりゃ……そうだけど……」
正論を言われて、ネロは口をとがらせる。
ロロはネロの方をチラリとも見ないままに言葉を続ける。
「起きればすぐに、姫は強がる。次の町に着くまで、魔法が解けそうになったら、何度かかけ直して決して起きないように眠らせ続けろ。……馬車の中に、魔法で何か、火を用意する。この外気だ。定期的に換気をする必要はあるだろうが、万が一天候が悪化することもあると考えると、少しでも温かな方がいいだろう。その方がよく眠れる筈だ」
「ぅ……うん」
ここぞとばかりに発揮される過保護っぷりに舌を巻きながら、ネロはまだ震えている足腰に無理やり活を入れて立ち上がる。
既にロロは歩き出していて、マントの下から現れた逞しい背中しか見えなかったが、その頭の角度から、じっと抱きしめているミレニアの顔を凝視しているのだろうということは容易に想像がついた。
(腕に抱いた瞬間から、姫サンの顔しか見てねぇ……ガン見。俺、ガン無視。……あれ、コイツ、姫サンと結婚したくないとか言ってるんだったよな?……これで??え。なんで??)
ひくっと頬を引きつらせてから、心の底から意味が分からず、ミレニアに同情する。
(……っていうか、さっき、どさくさ紛れに俺の姫、って言ってたよな……)
あの非常時に出てくる発言なのだから、心の奥底にある彼の本音なのだろう。
先ほどの、背筋が凍るほどの殺気交じりの化け物じみた凄まじい怒りも。
今の、見ているこちらが切なくなるほどの熱っぽい瞳も。
ロロの言動の一つ一つ――視線一つ、吐息一つに至るまで――その全てが、全身全霊でこれ以上なくミレニアという少女を愛していると告げているのに、求愛を退けられているミレニアが可哀想でならない。
ネロは呆れたように嘆息してから、雪の中、ロロの高い背中を追いかけたのだった。




