29、雪の中で⑤
「姫サン!!?」
ドサッ……とくぐもった音と共に、足跡一つない綺麗な雪の上に、漆黒の髪が散らばった。
小柄な身体が、なす術もなく半分ほど雪の中に埋もれたのに驚いて、慌てて傍へと駆け寄る。
「ちょっ――オイ、どうし――!」
「ぅっ……う、ぐっ……ぉぇっ……」
少女は、雪の中に倒れ込んだ姿勢から、身体を折り曲げるように体勢を変えた後、苦しそうに嘔吐く。
「ガハッ……」
ひと際苦しそうな声の後、ビシャッ……と堪え切れずに少女の口から嘔吐物が飛び出した。
雪を溶かし、異臭を放つそれに、さらに催されたのか、一度吐き出してしまった後はもう堪えることは出来なかった。何度も咳き込むようにして、まっさらな雪の上に汚物をまき散らしていく。
「姫サン!!!姫サン!!!!オイ、大丈夫か!!!?」
雪に何度も足を取られながら、必死に駆けより、苦しそうに嘔吐を繰り返す身体を支えて起こしてやる。身体を起こすことも出来ない様子で何度も吐いていては、そのうち嘔吐物で喉を詰まらせ窒息しかねなかったのだ。
「ご……め、なさ……服が、汚れ――」
「んなこと気にしてる場合かよ!!?」
吐瀉物で少年の外套を汚してしまった謝罪を口にするミレニアに叫ぶ様に答えながら、ネロは慌てて少女の額に手をかざす。
「吐き気があるのか!?光魔法は使えないのか!?とりあえず、治れ、って祈ればいい!!?」
パァッ……と温かな淡い光が少年の小さな掌から放たれると、胃のムカつきはすぅっと収まる。
変に知識がないからこそ、ただ、治癒が完了した状態だけを思い浮かべて発揮される魔法は、魔力効率の悪さは否めないが、こういうときはとても便利だ。根本解決にはならないかもしれないが、目に見えている症状に対する対処療法としては十分だろう。
そんなことを頭の隅で考えながら、ミレニアはガンガンと痛み、ぐにゃりと歪む視界に瞳を閉じる。ゾクゾクと背筋に寒気が走り、頬の下の雪の冷たさが心地よいと感じた症状を分析するに、どうやら熱も上がってきそうだ。
「オイ、しっかりしろって!姫サン!!!起きろ!!!何がどうなって――なぁ!!?言ってくれなきゃ、俺、治し方わかんねぇよ!!!」
「や、めて――大声を、出さないで……従者たちが、気づいてしまうわ……」
オロオロとして声を荒げて身体を揺さぶる少年兵に、ぐっと眉根を寄せて制す。
「何を言って――!」
「お前、だけは……この一行で――従者、では、ない……から……お前を、選んだ……のに……」
吐き気は収まったようだが、ミレニアの荒い吐息は全く落ち着かない。途切れ途切れの弱々しい声に、ネロは頭を混乱させる。
(従者じゃない――!?どういう、ことだ……!?)
確かにネロは、ミレニアの従者ではない。あくまで、クルサールの臣下である。ただ、クルサールの意向で――あるいはネロ自身、それがクルサールの利になると判断し――この一行についてきているだけだ。
とはいえ、ミレニアのことは嫌いではない。主であるクルサールが愛を説き、結婚相手にと望んでいるだけのことはある女だと認識している。
従者の前では、まるで”神”のような振る舞いを当たり前にする女だと思っていた。
それが、どんなに難しいことか理解しているからこそ、信仰の違いが明確な彼女であっても、心のどこかで尊敬していた。
働かざる者食うべからず。勤労に関しては神も幾度となく説いている。ネロとしては、従軍する以上、手伝えることは手伝うつもりだったし、他の奴隷や従者たちのようにミレニアに心酔はしていないが、彼女に命令されることに否を唱えるつもりもなかった。
だが、それが今、何の関係があるというのか――
「従者、には……見せ、られない……こんな、姿――」
「!」
弱々しく、真っ青な唇が囁いて、ネロは思わず言葉を飲み込む。
――従者の前では、とにかく”神”のようにふるまう少女の姿を思い出す。
確かに、神は、信者の前では須らく完璧でなければいけない。
「大丈夫……ただの、過労、よ……っ、ぅ……」
「オイ……!」
苦悶に満ちたうめき声を漏らし、顔を顰めた少女に、彼女の矜持に従って今度は声を抑えたまま、それでも必死に呼びかける。
「過労……!?疲労回復の魔法を掛ければいいのか!?」
「待っ……て……もう……効か、ない……」
再び額に手をかざしたネロを弱々しく制す。
「効かない!!?」
思わず声がひっくり返った。
ミレニアは、割れそうな頭痛に耐えながら口を開く。
「光魔法、にも……限界がある、のね……早めに知ることが出来て、よかった……」
「はぁ!?」
「きっと……疲労回復、の魔法の、原理は……元の体力、に……不足分を魔力で、埋め――」
「ちょ……御託はいいから!結論先に言え!アンタはどうしたら治る!!?」
研究者の資質か、蒼い顔のまま苦悶の表情でつらつらと己の考察を口にし始めようとしたミレニアを制し、ネロは結論を急ぐ。
「大、丈夫……原始的、に……寝て、食べて……体力を、回復……すれば……いい……はず……」
「つまり――今アンタに必要なのは、早急な睡眠ってことか!?」
「そ、ういう……こ――」
苦しそうなミレニアの言葉を最後まで聞く前に。
パァッ――
ネロは少女の白い額に手をかざし、睡眠の魔法をかけていた。
そのとたん、すぅ――と少女は力を失い、ぐったりとネロへと身体を預けて穏やかな寝息を立て始める。
「ったく……いつからだ?この様子じゃ、馬車の中からだろ?どんだけストイックだよ、オヒメサマ……」
呆れて思わず口の中で呟く。
「あー……これ、どうしよ。眠ったままの姫サン抱えて戻ったら、何事かと騒ぎになるよな……ちょっと寝て回復したのを見計らってから帰る、とか?いやでも、吐いて倒れ込むレベルの過労なら、多少寝たくらいで回復するとは思えないし……」
ぶつぶつ、と呟きながら、身体を一つ揺すって少女の身体をしっかりと抱え直す。
「っていうか、身の安全は大丈夫なのか?獣くらいなら俺でもなんとかなると思うけど、寒さはどうしようもないし……一応、この辺りはギリギリ結界より中だと思うけど――っていうか、姫サン、こんな状態で結界まで張るとか、本当に何考えて――」
今更ながら、周囲の状況が気になり、くるりと周辺を見渡そうとして――
ギュッ……
新雪を踏みしめる音が、背後で響いた。
驚き、慌てて振り返り――
「――ひ、め――……」
紅い瞳の狂信的な奴隷が、蒼い顔で少年を凝視していた。




