27、雪の中で③
ガタンッ
「わっ……とぉ……」
ひと際大きく揺れた車体に不意を衝かれ、ネロが驚きの声を上げながら体勢を直す。声こそ上げていないが、レティも驚いたような顔でバランスを取っていた。
「姫サン、よく酔わねぇな……」
「酔わないわけじゃないわ。光魔法が便利すぎるだけよ」
揺れた車体のせいで、見ていたページがどこかに行ってしまった。むくれた顔で、ミレニアはパラパラともう一度手元の頁を繰る。
「馬車酔いのメカニズムは解明されているし、対処法も古くから伝わっている。薬で対処出来ることが、魔法で対処できないわけがないでしょう?」
「それはそうかもしんないけど……さすがに頻繁に魔法かけすぎじゃないか?」
「そう?……まぁ、魔力が底を尽きるようなことはないから安心して」
聖印が浮かぶほどの無尽蔵の魔力を有しているミレニアは、ちまちまと車酔いの症状に合わせた治癒魔法をかけ続けたところで、大して魔力を消耗しない。
「なら、いいけどさ」
大人しくネロが引き下がる。彼なりに、ミレニアの体調を心配してくれたのだろう。
不器用な優しさを見せる少年兵に微かに微笑みを漏らしてから、ミレニアは手元へと視線を落とす。
(とはいえ――少し、治癒魔法の弱点が見えてきたわね)
従者を心配させぬよう、何食わぬ顔をしながら、心の中で考える。
最初に馬車酔いの症状を感じて治癒魔法をかけてから、もう何回繰り返しかけたかわからない。
治癒の魔法は、あくまで症状を改善するだけなのだろう。回復後にその状態が続く――いわゆる、無敵状態が続くわけではないらしい。全快した後も、本を読み続ければ一定期間で馬車酔いの症状が出て来るのだ。
(それがわかったのは、一つの進歩ね。あと、魔法で傷や病を治癒しても、疲労まで取れるわけではない――疲労回復は疲労回復で、別に魔法をかける必要があるのがわかったのも、良かったわ)
そう。ミレニアは、自分自身の身体で、光魔法の治癒効果についての実験をしていたのだ。
(本当は、どこまでの怪我や病が治せるのか、その限界を知っておきたいところだけれど――さすがに、それを実際の人間で試すわけにはいかない。有事の際に、最善を尽くすことで事例を集めるしかないでしょうね)
とはいえ、クルサールとネロの話を聞く限り、聖印が身体に浮かぶレベルの光魔法使いであれば、ほぼ死者に近しい状態からでも復活させられる、ということがわかっている。
メカニズムがわからない全く未知の病、などという特殊事情でもなければ、ミレニアに治せない症状はない、と言っても過言ではないだろう。
普通の光魔法使いの限界値がどれくらいなのかがわからないのだけが難点だが、そればかりはこれから長い時間をかけて見極めるしかない。
(それよりも気になるのは――疲労回復の魔法をかければかけるほど、効果が切れたときの症状が重くなっていること)
ふるっ……と頭を振って、軽くこめかみに手を遣る。
揺れる馬車の中という劣悪な環境で集中して慣れない書物を読み続けていれば、疲労も蓄積していく。朝からこう頻繁に何度も魔法をかけ続ければ、魔法を使う疲労も蓄積していくだろう。
そもそもミレニアは、決して体力がある方ではない。いやむしろ、どちらかというと、無いに等しい人間だ。
(治癒と同じ括りなのかしらね。疲労回復をさせたところで、無敵状態が続くわけではないのはわかったけれど――症状が重くなるのは、どうしてかしら)
疲労を回復させた後には、その状態が続くことなく再び疲労が蓄積していくとわかったとき、その速度が最初よりも速いことに気付いた。いつもより早く疲労感を感じるようになったのだ。
それでも、魔法をかければすぐに全快する。特に気に留めずに魔法を繰り返しかけられたのは、最初の数回だけだった。
そのうち、疲労を感じるスピードが狭まっていき、だんだんと異常なまでに早くなってきた。あまりの頻度に、さすがに同乗者の二人に怪訝な顔をされて困り切ったミレニアは、時折手を止めて瞳を閉じ、休息を入れるようにした。
まるで、泥の底に埋もれているような、全身を取り巻く倦怠感。ぐるぐると回る視界。ガンガンと重たく頭蓋の芯に響くような耐えがたい頭痛。時折襲い来る、胃のムカつき。
めまいや頭痛、嘔吐感に関しては、最初は馬車酔いのせいだろうと思っていたが、光魔法をかけても回復しなかったため、別の理由だと思い至った。試しに疲労回復の魔法をかけたらすっきりと症状がおさまったため、一種の過労による症状なのだと理解した。
薬師の知識がある故に、魔法行使のイメージがピンポイントで描けることは、利点でもあるがこうした”原因不明の体調不良”との相性はあまりよくない、ということもわかった。
「ふぅ……」
一つ息を吐いて、ぱたん、と本を閉じる。
再び、過労の症状の気配が近づいてきたのを察したのだ。
(しばらく、目を閉じてやり過ごして――あぁでも、目の前がぐるぐるしているわね。頭痛も耐えがたい……レティやネロが心配しない程度に少し時間を空けたら、すぐにでも魔法をかけましょう)
心の中で決めて、回る視界だけでもなんとかしようと、瞳を閉じる。
何者かにハンマーで殴られ続けているような断続的な頭痛が少女を苛んだ。
「……ミレニア様?大丈夫ですか?」
「えぇ、大丈夫よ。キリが良いところまで来たから、頭の中を整理しようと目を閉じているだけ」
「そ……それなら……良い、ですが……」
体調不良等微塵も感じさせないいつも通りの口調で言い切る主に、菫色の瞳が心配そうに揺れる。
「その……少し……顔色が、よろしくないように見えて――」
「まぁ。本当?……では、念のため疲労回復の魔法をかけておくわ」
ゆっくりと翡翠の瞳が開いて、従者を安心させるように微笑む。レティは、少しほっとした顔を見せていた。
(よかった。良い口実をもらったわ。すぐに魔法をかけられる――)
ズキズキと痛む頭も、数刻前に食べた軽食を全てぶちまけたくなるような吐き気も、いつまでも耐え続けるのは苦しい。
これ幸いと、ミレニアは自分自身に魔法を練って――
「――――……」
「……ん?どうかしたか、姫サン」
ぱちぱち、と眼を瞬いたミレニアに、向かいに座っていたネロが気づいて問い返す。
「いえ、何でもないわ。……そういえば、もうすぐ昼休憩のポイントね」
ふぃ、と窓の外に視線を遣って、思いついたように言う。
「今日の昼食は何かしら。……雪原で食べる食事って、どんな味になるか、全く想像できないわ。ねぇファボット。まだしばらくかかりそうなの?」
ミレニアは御者台で馬車を繰る老御者に声をかける。
「そうですね。あと半刻もすれば到着すると思います」
「そう。……半刻」
「はい。べスの林での休憩を予定しておりますから、その程度かと。……真冬の林で、一体どんな食物や獲物がとれることやら」
ほっほっ、と朗らかな笑い声が返ってくる。
「いいのよ。何も収穫がなければ、携帯食料を食べればよいだけだわ。今後に向けて、雪の中で食糧を探す大変さを全員で体感しておきたいだけなのだから」
ミレニアは瞳を閉じて苦笑する。
まだまだ行軍は始まったばかり。様々な思考錯誤の途中だ。
(焦らない……焦らなくて、大丈夫……)
時に失敗をしてもいい。そのためのリスクヘッジが十分に適うと判断している状況でしか、チャレンジに踏み切っていないのだから。
それは――光魔法の、実験も同じ。
「でも、半刻というのは中途半端な時間ね。今から本を読んでも……それでは少し、眠ろうかしら」
「そうですね。少し、今日のミレニア様は根を詰め過ぎだったように思います」
レティが苦笑して、膝の上に持っていた小包を開き、中から厚手のショールを取り出す。
「こちらをどうぞ。お身体を冷やしてはなりません」
「まぁ。ありがとう、レティ」
ふわり、と完璧な笑顔で微笑んで、ありがたく温もりに包まれる。
「おやすみなさい」
すぅ――と翡翠の瞳を閉じて、ショールを肩まで引き上げる。
今までの行軍でレティが一生懸命リメイクしてくれていたショールだからだろうか。友人でもある彼女の優しい香りが染み付いているのか、ふわりと鼻腔を擽る微かな香りを吸い込み、ミレニアはそのまま外界の情報を全てシャットアウトしたのだった。




