25、雪の中で①
年が明けるとともに雪雲が去り、降り続いて積もった雪は残っているものの、視界は良好が保たれると見込んで、ミレニアは行軍開始を指示した。
あまりにも雪を嫌って安心安全な行軍ばかり考えていては、いざ、北方地域に足を踏み入れた後に深刻な犠牲を伴う可能性がある。
まずは、視界良好な中での雪中行軍、という状況下で腕を慣らしておくべきだろう。
労働奴隷たちが必死になって馬車の中や軍事施設で作業を続けたことで、非戦闘員たちも何とか最低限の防寒着が行き渡っている。
今はまだ、大陸の中心くらいの位置だ。これくらいの装備であれば、凍死するようなことはないだろう。風邪を引く者くらいは出るかもしれないが、蔓延する前に隔離して光魔法使いが治癒してしまえばいい。
案の定、慣れない雪道の中を行くのは予想以上に遅れを取った。体力と気力の回復のため、しばしの休憩として足を止めた地点で、ミレニアは手にしていた本を片手に馬車を降り、まっすぐに目当ての女の元へと向かった。
「――と、いう訳なの。だから、ラウラ。お前の協力が必要なのよ」
「ふぅん……?ふふ……可愛らしいオヒメサマだこと。”お願い”すれば、誰でも貴女の言うことを聞いてくれると思って?」
「ぐ……」
――玉砕。
夜の女王は、相変わらず一筋縄ではいかない交渉相手だった。
ミレニアが手にしているのは、軍事施設で手に入れた、北方地域の言語について書かれた書物。
ミレニアは気が急いていた。一刻も早く言語を習得しなければならない。
なぜなら、ミレニア一人が言語を話せたところで意味はないのだ。――ここにいる全員を、片言でもいいから、日常会話の意思疎通が出来るレベルに仕立て上げねば、北方地域の民族との共存路線での建国などは夢のまた夢なのだから。
つまり、ミレニアが習得した後、ミレニアが教師となって教えていく必要があるのだ。
しかし、当初の予定と異なり、思いのほか学習速度が遅い。
それは、参考文献を手に入れることが出来たのが、予想よりも遅れたという理由もあるが――何よりも。
(どうして――よりによって、この書物、全然頭に入ってこないの!?)
ミレニアは、幼いころから神童と呼ばれ続けてきた。その理由の一つは、書物を読めば、どんなに難しい内容だったとしても、まるで昔から知っていたかのように一度で暗記してしまえる特殊能力があったためだった。
ミレニアとて、全ての書物でそれが叶う訳ではないことはわかっていた。何冊かに一冊くらいは、なかなか頭に入らない本があるな、と気付いていた。
だが、今までは、頭に入らない本と出逢うことの方が圧倒的に珍しかった。
だから、きっと言語習得における参考文献とて、大丈夫だろうと踏んでいたのだ。
(一つハズレたから――と思って、別の書物にも手を出したのに、どちらも頭に入って来ないんだもの……!)
二冊を立て続けに読んで、二冊ともが外れるなど、人生で初めての経験だった。
故にミレニアは、こうしてラウラに交渉しに来ているのだ。
「お前くらいしか、北方地域の言語に関する書物、なんていうニッチな分野の文献を潤沢に仕入れられる当てがないのよ……!」
「ふふ。そうでしょうね。……それで?オヒメサマ。対価に何を支払ってくれるのかしら?」
ニヤニヤ、と笑う表情は完全に足元を見ていることを表している。
彼女が実は、ドン引きするくらいの被虐趣味の塊だなんて、一度彼女の痴態を目の当たりにしていなければ、決して信じられなかっただろう。
「軍資金はたくさんあるんでしょう?全て金貨で支払ってくれるのかしら?」
(最初っから、金貨の前提なのね!?)
銀貨での支払いを認めない時点で、既に高額になりそうな予感がひしひしとする。
「それとも――快楽で払ってくれるのかしら?……ふふふ。そこにいる貴女の騎士サマを一晩貸してくれれば、文献くらい、いくらでも献上してあげるわよ?」
「絶っっっっ対に嫌!!!!」
顎で後ろに控えているロロを指して言われた言葉を、間髪入れずに全力で拒絶する。
それだけは何があっても絶対に許可できない。一晩貸し出しなどした暁には、絶対にアダルトな関係に持ち込むつもりだろう。
ミレニアは、ロロが自分以外の女といちゃついているところなどとても許容できない。もしもそんなことになったら、二人が怪しげな行為をしている部屋に乗り込んで、無理矢理ロロを取り返しに行く。
嫉妬に駆られ、滅茶苦茶にロロを叱るか――滅茶苦茶に泣いてしまうだろう。
「お前、念のために聞くけれど、この間の行軍の最中、私のロロに不埒な行為をしていないでしょうね!!?」
「まぁ。”私の”――なんて、言うのね?物扱いはしない、と言っていたのに――」
「話をそらさないで!」
バッと手を広げて威嚇するように声を荒げる。
ラウラはニィ、と蠱惑的に膨らんだ唇を吊り上げて笑った。
「おかしなことを言うのね?貴女が自分で、そのように編成したんでしょう?」
「それは、お前が風紀を乱す行いばかりするから――!」
まだラウラが手を出していなかった男たちの中で、うっかり身を持ち崩しかねない者が先行部隊に多かったのだ。彼らを守るため、致し方なくラウラは後方部隊に追いやるしかなかった。
また――最後の最後、ラウラの手綱を握れるのは、何と言ってもロロしかいなかったから。
「決して、ロロに好きに手出しをしていいという意味じゃないわ!」
「まぁ。――でも、残念」
つぃ――と血のように真っ赤な唇が、弧を描く。
ほぅ……と熱い吐息を吐いて、うっとりと言葉を紡いだ。
「あぁ……あの夜は、今思い出しても――」
恍惚とした表情で虚空を眺め、何かを思い出して悦に入った女に、ざぁっとミレニアは青ざめ――
ゴッ……
「黙って聞いていれば、次から次へと――口を閉じろ、クソ女。姫の耳を穢すな、ゴミ虫が」
「あぁっ……♡」
ロロに殴り飛ばされ、倒れた先で涎を垂らして悦に入る女を、さらに追いかけて固い軍靴の裏でゴリゴリと踏みにじる。
ラウラがミレニアを挑発するような発言ばかりを繰り返しているのは、ロロがこうしてしびれを切らせて手を出すことを望んでのことだとわかってはいたが、ロロにも許容できる範囲と出来ない範囲がある。
「お前みたいな汚らわしい雌豚が、姫の視界に入っていることすら本来我慢がならないんだ。俺がうっかり手を滑らせてお前を殺す前に、さっさと役に立て」
「あっ……ふぅ……」
靴の裏から艶めかしい吐息が漏れているが、ロロは一切容赦しない。
「やめなさい、ロロ。構わなくていいわ」
「ですが――!」
「その女を喜ばせてやる必要などない、と言っているのよ」
ふるふる、と疲れたように頭を振って嘆くように言う。
朝から馬車の中で、ずっと細かい字を読み続けていたのだ。馬車酔いをしたところで、光魔法ですぐに回復できるとは言え、疲労はたまるらしい。
休憩が明ける前に疲労回復の魔法も掛けておこう、と心に決めて、ミレニアはチラリとロロを見る。
「それより――あの夜、って、何?」




