24、呼び名②
「……名前、を」
「?」
ややあって、言いにくそうにロロが口を開く。
「ずっと――名前を、呼んで頂けないのが――堪え、ました」
「名前……?」
呻くような苦悶の声に、きょとん、とミレニアが返す。どうやら、無自覚だったようだ。
ぎゅっと小さく拳を握り、ロロは静かに告白する。
「俺を遠ざけると決めた後――貴女は、俺の名前を、一切呼ばなくなったので」
「そ……そうだったかしら?そんなことはないと思うけれど――でも、普段からあまり呼ばないじゃない」
無意識だったことを責められているように感じ、思わず言い訳がましい言葉を発してしまう。
どうせ、ルロシークなどと呼ぶことはめったにないのだから――という気持ちで告げたのだが、ロロは小さく嘆息して瞳を伏せた。
「いえ。……ロロ、とすら、呼んで頂けませんでした」
「え!!?」
「ただ――お前、と。最後まで――俺が、夜、この部屋に訪ねて来るまでずっと、呼んで下さらなかった」
「ぅ……そ、それは……その……」
決して意図していたわけではない。
とはいえ、ロロと言葉を交わすことすら忌避していたのは事実だし、ことさら冷たく振舞っていたのは確かだろう。
「俺は、生涯、貴女にしか名前を呼ばせないと決めています。これは、俺にとっての宝物で――特別な、意味を持つものです。貴女に呼ばれてこそ、意味がある」
「ぅ……」
「いつも、戯れのように呼んでくださるそれを聞くことは出来ないことは勿論、愛称ですら呼んで頂けないというのは――自分でも予想外に、堪えました」
シルバーグレーの長い睫毛が、褐色の頬に影を作る。
美しく整った顔が愁いを帯びて、ドキン、とミレニアの胸をときめかせた。
「この部屋で、再び貴女に呼んで頂けたときは、胸が震えました。……それが、最も嬉しかったことです」
「……私の求婚ではないのね」
恨めしくつぶやいてジト眼でロロを見るも、ロロは軽く嘆息して話を流す。言わずもがな、という意味だろう。
やや複雑な気持ちにはなるが、言ってみても仕方がない。元より長期戦は覚悟の上だ。
そのため、今日は別の角度から攻めてみる。
「でも確かに、伴侶に対して”お前”という呼称はあまり相応しくない気がするわ」
「そもそも伴侶になど――」
「いつまで経ってもお前を従者扱いしていると体現しているかのような呼称だものね。きちんとお前に私の本気を自覚してもらうためにも、呼び方を変えようかしら」
また妙な話が始まっている。
ロロは苦虫を嚙み潰したような顔で押し黙り、主の気まぐれな言葉を待った。
「そうね――”貴方”、というのはどうかしら」
「――――――」
ドクン……と心臓が一つ、嫌な音を立てた。
それには気づかず、ミレニアは良い思い付きだと言わんばかりに、言葉を続ける。
「夫を呼ぶにはふさわしい呼称でしょう。決して従者には使わない呼称だわ。これならきっと――」
「やめてください」
気づけば、言葉を遮っていた。
ぴたり、とミレニアは大人しく口を噤む。
ロロの声に、冗談ではない響きが滲んでいることを、すぐに悟ったからだ。
「ロロ……?」
「……それ、だけは……やめて、ください……」
苦し気に顔を顰め、絞り出すようにして弱々しい声を出す。
「呼ばれるたび……嫌な、記憶が……蘇ります……勘弁して下さい……」
ぎゅっと固く拳を握り締めて、蒼い顔で苦し気に訴える声を最後に、しん……と不自然な沈黙が降りた。
「……そう。困ったわ。でも、お前がそこまで言うなら仕方がないわね。止めておきましょう。……違う呼称を考えようかしら」
記憶にある限り、彼と出会って五年間、一度もロロを”貴方”などと呼んだことはないはずだが――ミレニアは深く追求することなく、さらりと話を流す。
過去、まだ皇女の身分だったはずのミレニアが、ロロを”貴方”と呼んだということは――そして、彼がこれほど顔を青ざめさせるということは――詳しく話を聞かずとも、何となく想像は付いたからだ。
ぺこり、とロロは軽く頭を下げて感謝の意を示した後、静かに口を開く。
「……貴様、とでも呼ばれた方がマシです」
「お前……それはもう、従者ですらないじゃない……」
呆れるほど奴隷根性が染み付いた男を前に、ドン引く。どうやら、しばらくは”お前”呼びを継続するしかないらしい。
ミレニアは軽く肩をすくめて、手元の分厚い装丁の本を軽く撫でた。
「呼称といえば――この本に面白いことが書いてあったわ」
「?」
「北方地域では、あまりの寒さに喉を傷めないように、言語は小さな口で短く端的な言葉を発する傾向が強いそうよ。人名でさえ、一音か二音しかないのが普通みたい。事実だとしたら、私たちの感覚では、愛称にしか思えないわね」
「なるほど。それは確かに、随分と短いですね」
「えぇ。……ふふ。お前のことを、本名で呼ぶ者はますますいなくなりそうね?」
揶揄するように微笑まれ、無言で視線を外す。
確かに、北方地域で暮らし、彼らの文化に合わせて生きていくならば、誰も彼をルロシークとは呼ばないだろう。逆に言えば、ロロ、という愛称は、現地民にとっても呼びやすい呼称だといえる。
本名をミレニアにしか呼ばせないと決めているロロにとっては願ってもないことだ。
「今から、皆、向こうに着いてからの呼称を考えておくのも良いかもしれないわね。私のことも、愛称で呼んでもらう方がよいのかしら」
独り言のようにつぶやいてから、チラリ、とロロの方へともの言いたげな視線を投げる。
「……俺は、呼びません」
「もうっ!まだ何も言ってないじゃない」
「予想がついたので」
しれっといつもの無表情で言い放つ従者に、むっとむくれる。
もう少し言い募ろう――としたところで、コンコン、と控えめに扉を叩く硬質な音が響いた。
「失礼いたします。お茶の準備が整いました」
「まぁ、ありがとう」
外から響いたレティの声に、ミレニアが答える。
「……俺は、外に控えています。決して、窓辺には近寄らぬよう」
「もう、お前は本当に過保護ね」
レティは、初めて出逢った頃よりはいくらかマシになったとはいえ、まだまだ男性恐怖症を克服したとはお世辞にも言い難い。
ミレニアと気安い会話を楽しませるならば、ロロは同室にいない方がいいだろうという判断だ。
しっかりと釘を刺すロロに呆れるミレニアを置いて、黒衣の従者はするりと入口へと近づき、中から静かに扉を開けてやる。
自分の姿は扉の陰に隠し、レティの視界に入らないようにしながら、ひっそりと気配を殺した。
「失礼いたします」
一つ優雅に礼をした後、ティーセットを持ってレティが入ってくるのを見届け、ロロはすっとその視界の端に入らぬように横切り、そのまま部屋の外へと滑り出ると、パタン、と扉を閉めて廊下に控える。
「まるで隠密のような男ね……」
部屋の中から一部始終を見ていたミレニアは、呆れたようにつぶやく。
茶の準備を開始しながら、ふふっとレティは小さく頬を綻ばせた。
「はい。とても、優しい方です」
「まぁ。いくらレティでも、あげないわよ?ロロは私のものなんだから」
無口で不器用なあの青年の優しさに気付く人間が増えることは喜ばしいが、ライバルが増えるのは頂けない。
牽制するように言うミレニアに、レティは思いっきり苦笑した。
「誰がどう見ても、相思相愛で入り込む余地のないお二人の間に割って入ろうなんて思いませんよ……」
「そう?……ちゃんと、相思相愛に見えている?」
「はい。それはもう」
クスクス、と声を上げてレティは笑う。
今日のお茶会も、話題はきっと、彼女の恋愛話なのだろう。
いつも主としての顔を見せてばかりのミレニアが、唯一歳相応の少女のようにはしゃぐ姿を見られるのが楽しみで、レティは手早く準備を進めていくのだった。




