第一話 異界
月の無い静かな夜だった。
深夜、人気の減ったビルの隙間、丁度影になっているビルの暗い壁面が、突如生き物のように震えて膨れ上がった。音も無く黒い塊を次々と吐き出し、影からあふれた黒い塊はビルの隙間にこぼれる。時間を掛けて全てを吐き出した脈打つ闇は、大儀とばかりに一度大きく揺れ、ただの壁面に戻った。
塊が四つほど集団からそろりと離れ周辺に散らばっていく。うち一つが影から顔をのぞかせると、街頭の灯りが塊の姿をぼんやり照らしだした。
人の顔である。
厳つい男の顔だ。
酷く汚れているが、鋭い眼光をビルの隙間から周囲へと放ち、しきりと警戒している。暫く様子をうかがった男は影の中へ戻り、集団をぐるりと見まわした。屈んでいる者が二人、立っている者が一人、それぞれが何かを調べている。他の者達はビル影と同化するように息を殺して潜んでいる。
「周囲に不審な気配はない。そっちはどうだ」
「……駄目です」
屈んでいた一人が、戻った男に答えて顔を横に振った。
「……」
眉間に皺を寄せ、男は唸る。
「欠けた者はいるか?」
「ビルーケ公と、エリヤ公の一家、プレドロ公が……」
「オットーとヘルックがいません」
「他には?」
「おりません」
「やはり欠けたな……。大人数での「渡り」は無謀だったか」
「いえ、その程度で済んだのならむしろ成功です。『門』は長い間使われてはおりませんでした。管理していたとはいえ、起動確認をしていたわけではありません。ギリギリの状況で、これだけの人数が渡ることが出来たのですから、幸いです」
「……そう、考えるしか無いのだろうな。おそらくは」
立って何かを調べていた一人が言うと、男は苦い顔で頷いた。
「彼らの事は残念だが、こればかりはどうしようもない。今はまず、生き延びる事が最優先だ。申し訳ないが、落ちた者たちを弔うのは暫く勘弁してもらおう」
腰を下ろして壁に寄りかかっていた青年が、ゆっくりと立ち上がって声をかけると、男は恭しく首を垂れる。
「そのような礼はこの際不要だ。それより道士達、駄目だというのは真か?」
青年は僅かに眉根を寄せ、調査していた三人に尋ねた。
「真で御座います。どうやら、この世界では術を使えぬようです。モノの意識が非常に細く、弱いのです。無い物もあります。呼びかけにもほぼ応じないと言っていいでしょう」
「この土地だけがそうなのか、この世界全体がそうなのかは分りませんが、術の行使はほぼ無理と考えるのが妥当ではないでしょうか……」
屈んで調査していた二人が立ち上がる。一人が手の中にある幾つかの小石を見せた。足元に転がっていたただの小石だ。
「どうしても駄目か?」
「厳しいですね……。先ほど、小さくて簡単な術の発動を試みましたところ、強引に行おうとすると、自分の力が根こそぎ持っていかれそうになりました」
「術の行使は、命がけになると思われます」
「……っ」
道士の手から小石を受け取ろうとした青年が一瞬手を止める。
「……『石』を使っても駄目か?」
更に問いかけた声が幾分重さを増した。
「それでも難しいでしょう。出来ない事は無いかもしれませんが、人の消耗が大きすぎます。しかも、所持している『石』には限りがあり、現状、補充は不可能です」
自らの手に収まった小石を見つめる瞳に影がよぎる。青年はゆっくりと手を握り込み、話を聴きながら目を閉じると手の中に軽く意識を向けた。暫く後、ふと息を吐き出して瞼を開ける。
「確かに。……これでは無理だな。眠っているでも起きているでもない。ただ、「ある」だけだ。しかも、恐ろしく薄い」
「そうなのです。加えて、大気にとける気の流れも非常に希薄です」
術使用の可不可はこの集団にとって非常に重要な問題だった。場合によっては命運を分ける事にもつながる。
青年は改めて周囲を見回した。街灯からの灯りを頼りに、地面の隙間に生える草を見つけ、指で触れる。撫でるように意識を伸ばすと少しだけ反応が返ってきた。目が合ったような感覚がするも短い間の事で、すぐに逸れてしまう。あとは、ぼんやりと意識が漂い揺れているばかりだ。虚ろな反応に哀しくなり、青年は草から意識を離した。
暫くして、散っていった斥候が二人戻って来た。
「隊長」
「どうだった」
「難しいですね。この辺一帯は高い建物が多く、人の出入りもそれなりにありそうでした。人のいない建物もどうやら管理されているようで、身を隠すのに適した場所は見当たりません」
「こちらも同様です。それと、人気が無い場所で時折、視線の様なモノを感じる事がありました。気配はないのに視線だけを感じるのです」
「ああ、それは俺も感じた。かと言って術というでもなさそうだ。背筋がむずむずして落ち着かなかった。あちこちにいるから避けるのが大変でな。こちらの世界の術なのか、得体が知れない……」
三人は渋い顔を突き合わせる。
「いつまでもこの場に留まるわけにはいかんというのに……」
男は周囲を見渡した。背の高い四角い建物が周辺を埋め尽くしている。夜とは言え、影を出た向うの通りでは昼間のような強い光を放つ灯りが連なり、金属の箱が飛竜のような速度で走っていくのが見えた。人は少ないが、全く無い訳ではなく、時折千鳥足の男が賑やかに通り過ぎていく。
男の心中は荒れた。
戦火を逃れて異界に渡ることが出来たのはいいが、術を使えないのが痛い。改めて暗い路地に蟠る一団を見渡す。総勢二十人という、ちょっとした規模の集団である。
幸い王子は無傷、公が一、道士が四、うち一人は怪我で思うように動けない。魔道騎士は男を入れて十一。市民が三、これは母親と娘に少年一人だ。『門』に向かう途中で助けた。進む先にいた敵兵を切り捨てたらいたのだ。身を隠す場所も、安全な場所まで誘導する余裕も無く、かといって放置も出来ず。勢い、そのまま連れてくることになった。
地面に座り込む者、横たわる者、壁に背を預ける者。立ったまま休んでいる者達は、おそらく座れば動けなくなるのだろう。皆、泥や煤にまみれ、傷だらけで疲れ切っていた。限界は近い。
一刻も早く身を隠せる場所を見つけなければならない。夜空を見上げるが、灯りのせいか星があまり見えなかった。夜明けまであとどれだけ残っているのだろう。
勝手の違う異界でどこまでやれるのか。先の見えない暗闇に男は途方に暮れ、息を潜めて立ちつくしていた。
全員の状態を確認し終わると、男は今後の行動を王子達と大雑把に相談する。騎士達数人が手持ち無沙汰も手伝ってか、背嚢の中から水を一杯づつ渡して回っていた。道士と騎士達は非常時用の荷を可能な限り持ち出していたのである。男達も相談の合間に水筒を回した。
じりじりと時間が過ぎる中、斥候に出ていた最後の一人がようやく戻った。
「シンザです。遅くなりました」
「おお、やっと戻ったか。心配したぞ」
表情を僅かに緩め、男は無事に帰還した部下を労う。
「すみません、少し遠くまで行ったもので……。隊長、これを見て下さい」
シンザは懐から紙を一枚取り出して広げた。
「これは……」
「ここから少し離れた場所に広場があったのですが、その近くにあった立て板の写しです」
紙には荒い筆跡で地図が描かれていた。場所を示すと思われる記号の様な絵も幾つか描きこまれている。男は目を瞠った。今、一番欲していた情報の一つが手に入ったのだ。
「僕がいたのはこの印の所、ちょっとした広場です。文字らしきものも書き込まれていましたが、残念ながら読むことはできませんでしたので、写していません。それで……」
シンザは地図を指で辿り一か所を示す。
「ここです。ここ。おそらく、森か何かだと思うのです。建物もあるようで、その一角なのかもしれませんが、周辺と見比べてもそれなりに広さがありそうでした」
「内部には?」
「……申し訳ありません。時間的に無理でした。けれど周辺には塀がなく柵はあっても疎らで、侵入は容易です。警備はいないようでした」
「他に候補は?」
「難しいと思います。森の区画に行くまでにもいくつか見回りましたが、空き家はなさそうでした。大人数で潜めそうな場所も皆無です。そもそも建物一棟づつが狭い上に隣近所との距離も近い。高さのある植え込みなども少なく……。道には灯りが一定の距離で灯っており、建物にその灯りが入りそうです」
「……」
男は数舜黙考し、地図から顔を上げてシンザを見た。
「ここからの距離とルート、目的地点までの時間を出せ。準備ができ次第、移動する」
男の言葉を聞いて全員が動きだす。
「休みを取らせてやれなくて済まない」
「なんの、まだまだ余裕ですよ」
シンザはニヤリと笑って見せた。
「手の空いている者で誰か一人、女子供に手を貸してやれ。怪我をしている者たちはどうだ? 動けなくなっている者は? 王子、公も、申し訳ないが、もう暫く強行軍が続きます。不自由をおかけしますが、どうか耐えて頂きたい」
男は部下に指示をして回り、最後に王子達に頭を下げる。
「無論だ。よろしく頼む、アレシーフ」
青年が頷いた。
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2020・08・15 「皇子」を「王子」に修正。集団の内訳に負傷者分を追加。