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幸せとは。

作者: 水谷 小夜子

とっても短いです。


「うわぁ、寒っ!」


年内の仕事も無事に納め、少し浮き足立って会社を出た私は、刺すような外の空気の冷たさに思わず肩を竦めた。

やけに首が寒いと思えば、マフラーを巻いていなかったと気付き、鞄を開いたところではたと気づく。


あれ、今日マフラーしてきたっけ。


そうだ、今朝は年内最後の出勤日だというのに寝坊して慌てて家を出て、駅まで走るのに夢中で外の寒さを感じる間も無く電車に飛び乗って...と思い出す。


...最悪だ。


完全に自業自得だが、これは辛い。

悲嘆に暮れながら鞄をかけ直す私の頬を、残念だったわねと言うように冷たい風が掠めていく。



このまま突っ立っていては身体は冷える一方だと、歩き始めたところでトンと肩を叩かれた。

「よう。お前も今帰りか。」

「あぁ、お疲れ。そっちも終わったんだ。」

声をかけてきたのは私と同期の土屋だった。

同期と言っても土屋は営業部、私は広報部と所属部署が違う。営業部は今年度末は例年よりかなり忙しかったらしい。小耳に挟んだ程度なので詳しくは知らなかったが、土屋の少しやつれた顔を見ると本当だったようだ。


「ああ、何とかな。一時は年越せないんじゃねえかと思ったけどな。終わって良かったよ。」


疲れを色濃く顔に出して、深いため息のように言葉を溢した彼に私はもう一度心から労いの言葉をかけた。

と言っても、お疲れ様という他に言葉は思いつかなかったが。


「あー、どうする?どっかで飲んでく?...あ、でも」

「行く。」


疲れてるし早く休みたいか、と続けようとしたのを遮ってまで答えられたのに少し笑ってしまう。

そんなに飲みたかったか。

笑われたことにムッとしたのか、じとっとこちらを見てくる土屋にごめんて、と軽く謝る。

土屋とのやり取りは気を使わなくていいから楽だ。


「いつもの所でいい?」

「ああ。」


短く言葉を交わし、並んで歩き出す。



「つかお前、マフラー無くて寒くねえの?」


会社から少し歩いたところで、土屋が私の首元を指差して言った。コートでは覆う事の出来ない首筋は、風に晒されてすっかり温度を失っていた。ごもっともな指摘に、苦笑を浮かべつつ今朝の事を話す。


「お前、年内最後に寝坊って!」

「そんなに笑う!?昨日の夜寒くてなかなか寝れなかったのよ...!」


人の失態を思い切り笑う男に、態とらしくムッとして見せるとごめんってと思ってもない謝罪をしながら、奴は自分のマフラーを外していた。


「店までもう少しあるし、俺の貸してやる。」

「いや、いいわよ。アンタが寒いじゃない。」


ほら、と差し出された紺色のシンプルな男物のマフラーを、手のひらで押し返す。

たしかに寒い事には寒いが、人のを毟り取ってまで暖を取りたいわけではない。

大丈夫だからと土屋の顔を見上げるが、奴も手を引っ込めることはなかった。


「俺が見てて寒いんだよ、巻いとけ。」


そう言って奴は立ち止まると、同じように立ち止まった私の首にぐるぐるとマフラーを巻いていく。


「いや、だから...」


大丈夫だからと言いかけて、やめた。

マフラーを巻く手の向こうに、なんだか楽しそうな土屋の顔が見えたからだ。

諦めてされるがままになっていると、マフラーを巻き終えた男は満足げな顔をしていた。


「ん、これでマシになったろ。」

「...ご親切にどーも。」


この歳になって、誰かにマフラーを巻いてもらうなんて事があるとは思わなかった。

気恥ずかしさから、マフラーに半分くらい顔を埋めると、紺色の柔らかな布から僅かに煙草の匂いがした。



土屋は普段は煙草を吸うが、吸わない私と居る時は極力控えてくれる。だから、私は土屋が煙草を吸っているのを、会社の喫煙所に居るのを遠巻きに見た事しかない。

それに、香水を使用している土屋からは普通の距離で接している分には煙草の匂いもほとんどしない。

それが今、とても近くで土屋の煙草の匂いがする。

嗅ぎ慣れない、土屋の煙草の匂い。

それは何故だか私を酷く落ち着かない気持ちにさせた。


「どうした?」


急に押し黙った私の顔を、土屋は訝しげに覗き込んだ。

少し薄暗い道で良かった。

自分がどんな顔をしているか分からないが、決して明るいところで見られても良い状態では無いことは耳の熱さでなんとなく分かる。


「何でもない。寒いから早く行こう。」

「はいはい。」


苦手なはずの煙草の匂いが嫌だとは思わなかった。

それどころか、いつもよりずっと前に近くに彼を感じることが嬉しい、だなんて。そんな考えが頭の中で浮かんで、私をより一層落ち着かなくさせる。

マフラーを少し引き下げ、冷たい空気を吸い込んだ。


私達の間に甘い雰囲気は無い。

それを残念に思った事も無い。


けれど、この嗅ぎ慣れない匂いに包まれているのには、何故だか幸せを感じた。


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