第5話 灯台守のサツキさん
「あっ、そうだ忘れてた」
大工さんたちの姿が見えなくなってすぐ、こんにゃくおじさんが言った。
「この村に来た時に、必ず立ち寄る場所があったんだ。君たち、一緒についてきてくれるかい?」
もちろんです、と僕らは即答した。その答えを待っていたというように、おじさんはすぐさま西の方向へ向かって歩き始めた。
「この集落を出て、西の海沿いへ出たところに、とっても大切なお客様がいるんだ。もちろん、品物を買ってくれるお客様はみんな大切だけども、なんていうかなあ……俺だけじゃなくて、もしかしたらイモガラ島全土にとって大切な存在なのかもしれないな」
おじさんは、近くにいた赤ちゃんを背負った女の人にこう尋ねた。
「やあ、どうも。今日の灯台守当番は、サツキちゃんかな?」
「ええ、そうよ」
女の人は、赤ちゃんを後ろ手でぽんぽんあやしながらにこやかに答えた。
「彼女が戻ってきてくれてとても助かっている、とお母さんがおっしゃっていたわ」
「そうか、それはよかった。ありがとう」
おじさんはお礼を言って軽くおじぎをし、再び西に向かって歩き始めた。もと来た方とは反対側に、もうひとつの出入口があった。
そこを抜けると、相変わらず木々に囲まれた道が続いていたが、先ほど歩いてきた湖沿いの街道よりもいくぶん道幅が狭くなっていた。そして歩みを進めるにつれて、前方に少しずつ開けた景色が見え隠れするようになっていった。
「あ!」
思わず僕は声をあげていた。
「海だ!」
僕の暮らしているキノコ町も海に面していて、港からは毎日ワイル島行きの貨物船や南へ行くための(途中東海岸を経由する)船が出ている。だから一応海は知っているつもりだけど、こうやって森の中から見出す海の姿というのはそれとは違った感動があるものだ。深々とした緑に覆われた世界から、青い海の水平線がチラリと確認できた。
「やった! 早く行こうぜ、イノ」
シシゾーに至ってはもう泳ぐ気満々で、はやる気持ちをおさえきれずに今にも走り出さんばかりだった。それをおじさんが慌てて制した。
「こらこら、そんな勢いで走って行ったら危ないよ」
「えっ? そうなんすか?」
「だって、この先は断崖絶壁だよ? 落ちたらえらいことになるぞ」
苦笑いしながらおじさんが言った。僕は一瞬顔から血の気が引きそうになった。だって、シシゾーならばやりかねないから。
「西の海、とくにイモガラ島とワイル島の間の海は、とても波が荒いんだ。しょっちゅう渦潮が出るから、すぐ向こうに見えるワイル島へも北から迂回しなきゃならない、って貨物船の船員から聞いたことがあるよ」
職業柄いろんな人脈と通じていそうなおじさんは、さすがに僕の知らない土地の情報を色々知っている。
「だから、島の北側に港ができたんですね」
「そうらしいよ。こんなに平和なイモガラ島にも、実は長い歴史があるんだ。今となっては、学校の授業でもあまり詳しく教えなくなったけどね」
ふむふむと僕が感心していると、シシゾーが前方を指さした。
「おじさん! あそこに、灯台があるッすよ」
「お、見えてきたね」
道は少しずつ登り坂になっていったが、よく整備され、小石一つ落ちていないほどきれいに掃除されている。僕とシシゾーは、おじさんの引くリヤカーを後ろから押しながら進んだ。石が積み上げられた灯台の真下に到着すると、入り口かららせんの階段が上へと連なっているのが見え、そこから女の人の歌う声が聞こえてきた。
なれし こきょうを あとにして
けわしきかのち いざゆかん
うらみはすまい なんぴとも
すべてはてんのおぼしめし
きょうがわれらの よきかどで
「ああ、やっぱりサツキちゃんだ」とおじさんは微笑んだ。
僕は、その澄んだ歌声にしばし魅了され、声のする方を見上げながら呆然と突っ立っていた。が、その余韻を容赦なくぶち壊すほどの大声で、シシゾーが上にいるであろうひとに呼びかけた。
「すいませーん! こんちはー!」
すると、流れるような歌声がピタリと止み、少ししてから、どなたかいらっしゃるの? と声がした。
「はい! いらっしゃいます! オレたち、こんにゃくおじさんと一緒にここへ来ました」
敬語につられて変な言い回しになっていたが、当の本人はてんで気づいていない。それでも一応相手には伝わったらしく、すぐにらせん階段をゆっくりと降りてくる足音が近づいてきた。
「まあ、初めてのお客様たちね。ようこそ、〝見守りの岬〟へ。私はここで家族と共に灯台守を務めているサツキと申します」
姿勢が良く、凛とした表情の美しい女性が現れ、僕らに向かってていねいにおじぎをした。
「サツキちゃん、こんにちは。これ、いつものお弁当」
こんにゃくおじさんが、大きな葉っぱに包まれたこんにゃくおにぎりと団子のセットをサツキさんに手渡した。
「こんにちはおじさん、いつもありがとう。はい、ぴったりおつりなし」
「助かるよ、まいどありがとう。今、ちょっと灯台に登ってみてもいいかな?」
「ええ、もちろん! あなたたちも、この灯台の眺めをぜひ楽しんでいってね。さあ、どうぞ」
サツキさんが先頭になり、僕らはらせん階段を少しずつ登り始めた。彼女はうぐいす色のカーディガンにきれいめのジーンズ、という動きやすい恰好をしていた。たぶん、イモガラ島でも上から数えられるくらいの美人の部類に入るんじゃないだろうか。
「サツキちゃん、お父さんたちは?」
一番後ろからゆっくりついていきながら、おじさんがサツキさんに尋ねた。
「今日は、両親とも地質学会の会議に出席しています。兄は、昨日からイモガラ山の観測所に出かけました」
そういえば先ほど、おじさんは「灯台守当番」と言っていたけれど、当番でない日にもみんなそれぞれ忙しいらしい。案外やることはたくさんあるのかもしれない。
「サツキさん、灯台守ってどんな仕事をしているんですか?」
思わず好奇心につられて僕は尋ねていた。
「そうねえ……海を走る船からいつでも分かるように、灯台の明かりを日々管理することとか、みなさんのような観光客へのガイドとか、ほかにも色々ね。さあ、着きましたよ」
屋上へ出ると視界が一気に開け、ぐるりと張り巡らされた柵の向こうはもう海だった。潮風の香りが、心地よく顔をくすぐった。ザパァーン! ザッパァーン! と波が打ちつける音が繰り返し響いている。
「ほら、あの水平線の向こうに見えるのが、ワイル島よ」
サツキさんが示したその先には──シルエットではあったが、確かに島の輪郭のようなものが確認できた。火山島というだけあって、なんとなくゴツゴツしたような感じに見えた。これがあのワール=ボイドの故郷、ワイル島なのか!
恥ずかしながら僕はそれまで、友達の出身地である島を一度もこの目で見たことがなかったのだ。本に載っている写真やテレビでならうすうす知っていたけれど。
「思っていたよりも、近いんですね。あの島」
「ええ、意外とね」
僕の独り言みたいな呟きにも、サツキさんはちゃんと答えてくれた。
「直線距離で言えば、ちょうど真正面にワイル島が見えるわね。でも、手前の海をご覧になれば分かるように、この荒波では、まともにあちら側へ渡ることはとても困難なのよ」
海の方角へ設置された望遠鏡を覗き見ると、前方のワイル島の輪郭が肉眼よりはもう少し理解できた。
「向こう側の岸も、だいぶ険しい崖のように見えますね」
「ええ、そうよ。こちら側からは着岸するのが難しいから、北側のもう少し波が穏やかなところに港を開いて、そこから船が行き来しているの」
「オレにも見せてくれよ、イノ」とシシゾーがじゃれついてきたので、僕は望遠鏡を代わってあげた。
「おおー! すっげえ! すっげえ、崖!! 登ってみてぇー」
大感激するシシゾーのはしゃぐ姿に、思わずサツキさんも顔を綻ばせた。
「あなたほど身体じゅうで喜びを表現するひと、ここ最近では久しぶりに見たわ」
とサツキさんは言った。
「そっすか? あざっす!」
目の前の風景に夢中になりながらシシゾーが元気よくお礼を言うと、今度は僕まで吹き出してしまったが、つい、こんな意地悪な言葉が口をついて出た。
「それ、もしかしたらほめられたんじゃないかもよ?」
「あら、そんなことないわよ。私は本当に純粋な感情の表現として、嬉しく思ったの」
サツキさんは軽く前髪をかき上げながら、ふと、どこか遠くを見つめるような表情になった。
「話し相手に、自分の感情を素直に伝えられるということは、とても良い長所だと私は思うわ。そして、それを受け取った側も素直にその気持ちを受け入れられるということ、これはとても健全なことよね。たとえその答えが、仮に予想とは異なっていたとしても、ね」
「は、はぁ。そうですね」
しまった。これではまるで、僕が純粋なやりとりに対して水を差してしまったみたいじゃないか。急に恥ずかしさがムクムクと湧いてきて、僕は少し顔を逸らしてしまった。
「あら、ごめんなさい。何も、あなたを困らせるつもりで言ったのではないのよ。ただ……思ったことはわりとすぐ口に出してしまうの、私。それで昔はよく、職場でも上司と衝突ばかりしてたわ」
「衝突? 走ってぶつかってばかりだったんすか?」
シリアスめな話をしているというのに、シシゾーときたらとんでもないボケをかましてきた。
「ウフフ、もしかしたらその方が逆に笑い話になったかもしれないわね。でもね、」
とサツキさんは言った。
「心と心のぶつかり合いというのはね、身体同士が衝突するよりも時には計り知れない痛みを伴う時もあるの」
「おっ、サツキちゃんの持論が始まったね」
とこんにゃくおじさんが少し嬉しそうに、でも決してからかっているわけでもなく身を乗り出してきた。
「いやだわ、持論なんてほど大層なものでもないわよ、おじさん」
「いやいや、俺は君のそういう忌憚のない意見を聞くのが好きなんだよ。さ、どうぞ続きをお願いします、先生」
「まあ! おだてても何もでませんよ?」
と軽口を叩いて、サツキさんはオホンと一つ咳払いをした。
「こう見えても、一応昔は新聞記者をしていたから、何というのかしらね、世間に対する反骨精神みたいなものは多少なりとも持ち合わせているかもしれないわね。自分が正しいと信じていたことが実は真っ赤な嘘だったり、自分がそれまで拠り所にしてきたものにある日突然裏切られたり……生きていればまあ、色々あるわよね」
そうだそうだ! とシシゾーが合いの手を入れて、少しばかり影の差したような顔つきだったサツキさんの口元に再び笑みが戻った。
「サツキさん、新聞記者というと、『イモガラ新聞』ですか?」
「いいえ」とサツキさんは即答した。
「今ではもはや、イモガラ新聞がこの島における新聞購読の多数派を占めているけれど、かつてはそれに対抗しうる別の新聞が存在していたのよ。あなたたち、『イモガラタイムス』って聞いたことある?」
「イモガラ……タイムス?」
「ないッすね!」
僕とシシゾーがバラバラに回答するそばで、こんにゃくおじさんは既に何事かを知っているといった顔つきで、黙って僕らのやりとりに耳を傾けていた。
「……そう。世間的には、おそらくその程度の認識だったのかもしれないわね」
サツキさんが小さくため息をついた。意外と落胆しているらしかった。あ、今の場合は嘘でもいいから、名前くらいなら聞いたことあります、とか言っておけばよかったかな? いやいや! そんなこと、余計サツキさんに対して失礼じゃないか。
「でもね、私たちは、日々誇りを持って仕事に励んでいたわ。この世の中が少しでも良くなるような助けになれたら、と思っていたの。ところがどうでしょう! 切実に助けを必要としていたのは、私たちの所属しているまさにその内部だったのよ。皮肉なことよね」
「全くだよ」とおじさんが、サツキさんよりも大きなため息をついて言った。
「あれは実に、どうしようもない事件だった。遅かれ早かれ、いずれは暴かれて淘汰されるべき問題だったのさ」
……これははたして、一体どういう状況なのだろうか?
そもそも僕らは、おじさんの手伝いでモミジ村にやってきて、そこからこの灯台へも足を伸ばしただけだというのに。
「……うーんと、なんかよく分かんないけど、とりあえず、サツキさんのいた新聞社で事件が起きた、ってことッすよね?」
先ほど〝とても良い長所〟とほめられた、そのあまりにも素直すぎる感情によってシシゾーがストレートに要約した。
「手短に言えば、大体そうね。その事件のせいで、大勢の社員の生活が一変してしまったの。そう……もう、あれからだいぶ経つわね」
そう言ったきりサツキさんは、ふと口をつぐんで黙り込んでしまった。一同を取り巻く空気が急にしゅんとした。シシゾーはえっ? という表情でキョロキョロ僕らの顔をうかがい、おじさんは心配そうにサツキさんを見つめている。ハッ……ここは僕が何とかしなければ! でも、どうやって……
オロオロしながらも必死に勇気をふりしぼり、僕は無理に明るい声を出そうと試みた。
「あ、ああああの! えっと……とりあえず、ひとやすみしませんか?」
僕以外のみんなが、一斉にこちらを振り向いた。視線が僕に集中する。ひえぇ。こりゃ軽くスベったかも……? 冷や汗タラタラで焦りまくっていると、
「……それもそうね」
真っ先に発言したのはサツキさんだった。
「じゃあ、そろそろ下へ降りましょうか。休憩できる部屋があるから、そちらへどうぞ」
「さんせーい! そうだ、サツキさんお昼にしなよ。俺たちのことはどうぞお構いなく」
シシゾーがちょっと偉そうにそう言った瞬間、サツキさんのお腹がタイミング良くグーッと鳴った。あら、お恥ずかしいとサツキさんは頬に手を当てた。
「じゃあ、お言葉に甘えて、おじさん特製のこんにゃく料理をいただきましょう」
僕らはサツキさんに案内されて、休憩室へ入った。使い込まれたテーブルと椅子が置かれていた。そういえば、照明や棚などもどこか古き良き時代の重みを感じさせる。
「今お茶を入れますから、ちょっと待っててね」
「あ、じゃあ僕テーブル拭きますよ」
僕が率先して、テーブルの上を綺麗にすべく台ふきんを手に取ろうとした時、テーブルの上にあったなにか硬いものが手に触れ、チャリン、と小さな音を立てて木の床に落ちた。
しまった、と思い床を確かめると、そこには金のペンダントが転がっていた。トップの楕円形の部分がパカッと開いた状態になり、開かれた部分には同じ形に切り抜かれた写真らしきものが入っていた。
その写真には──僕もシシゾーもよく知っているひとの、それも僕らの知っている顔よりは若くてもうちょっとスリムな顔が映っていたのだった。
あっ、と思った時には既に遅し。僕の挙動不審な様子に気づいたサツキさんが、ハッと真顔になり、あわててそのペンダントを拾い上げた。
「あっ、あの……ごめんなさい、僕その……悪気はなかったんです」
しどろもどろになりながら僕はサツキさんに謝った。最後の方はほとんど蚊の鳴くような声に近いものがあった。
「……大丈夫よ。気にしないで」
サツキさんは、優しく僕の肩に手を置いて、慰めるように言った。
「どしたぁ? イノ」
無邪気に聞いてくるシシゾーにも大丈夫よ、と律儀に答え、サツキさんはペンダントを大事そうに握りしめてスッと立ち上がった。
「ね、テレビでも見る?」
サツキさんは努めて冷静にそう言って、テレビのスイッチをゆっくりと押した。
テレビではちょうどその日のその時間、芸能・文化に関するニュースを放送していた。
『──それでは、次のニュースです。あの〝賢者ブーム〟の立役者、先日出した本も大好評のシシヤマテルオさんが、賢者をテーマにした舞台の脚本を手掛けることになりました! 今日はなんと、その記者会見の現場から中継でお伝えしまーす』
一瞬、ピクッとサツキさんが肩を震わせたような気がした。僕は危うく叫びそうになるのを辛うじて唾を飲み込むことでこらえ、テレビの画面に意識を集中させることにしたのだった──