表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
イノシチ 旅に出る  作者: 宮本小鳩
2/20

第2話 森のレストラン

第2話 森のレストラン


「ところで、シシゾー」

と僕は言った。

「旅に出るにしては、随分と身軽過ぎないか?」

「ああ、それならほら」とシシゾーは、タンクトップの胸元からゴソゴソと何かを取り出した。

「これを首から提げてれば、いつでも手ぶらで旅行できるぜ!」

それは小さなお守りほどの大きさの小物入れだった。どうやら、財布代わりにしているらしい。

「……って、それだけ!? 着替えとかは?」

「ないよ」彼は即答した。「なんとかなるって。大丈夫でしょ」

ああ、またシシゾーの突発的な気まぐれだな、と思うのと同時に、おそらくこれはほとんど何も考えずに出てきたからとりあえずお金しか持ってこなかったんだろうな、という推測が僕の頭に浮かんだ。試しに僕はこう聞いてみた。

「それで、どこへ行きたいの? シシゾー」

「さあな。これから決めようぜ、その方がおもしれーじゃん?」

やっぱり。はたして全くの無計画ということが確信的になった。一抹の不安を覚えつつも、僕は急いで旅の支度を始めることにした。早く出発しないと、もう少しで日が暮れてしまう。

いつも愛用しているリュックに、着替え少々と上着、小物、部屋中からかき集めたお金の入った財布、そして商売道具の似顔絵描きセットを詰め込むと、僕は決心を固めた。当分、この家には帰らないかもしれない。でもこれは、もしかしたら何かのいいきっかけにつながるかもしれないのだ。それに、シシゾーもいる。いつもコイツには振り回されてばかりで、正直何が起こるかわからないのが怖いところだけれども、少なくとも淋しかったり退屈だったりすることはなさそうだ。そう考えると、なんだか徐々に期待が高まってくるような気がした。

その時ふと、テーブルの上に何気なく広げてあったとある雑誌のページに偶然目が行った。『今大人気のレストラン!ビストロ イモガランテ』と題された特集ページには、美味しそうに湯気の立つ料理の写真と、華やかな衣装を身にまとい踊るダンサーたちの写真が並んでいた。端の方に小さく住所も載っている。どうやら、森の湖の近くにあるらしい。以前、皆で特殊なキノコを探しに行った時にもこの森を歩き回ったけど、その時には通らなかった方のルートだろうか。おっ、何見てるんだ? とシシゾーが、すかさず顔を近づけて覗き込んできた。

「イモガランテ? ……あっ、オレこの店知ってるぜ! こないだもテレビでやってたよ。すっげー並ぶんだって! ダンスショーを見ながら食事できるらしいぜ。やったぁ! 行こうぜーイノ!」

話しているうちにすっかりその気になってしまったシシゾーが、ピョンピョン飛び跳ねながら僕の背中を押してくる。せかされつつもまあ待てってば、と軽く彼を諫め、僕はリュックを背負って立ち上がった。

さて、いいかげん出発しよう。戸締まり、火の元は十分に気をつけなければ。部屋中を確認していたら、テーブルの上のシイタケチップスについ目がいった。これはおやつ代わりに持っていくことにしよう。袋の口をゴムで止め、リュックの一番上に詰めた。

イノ、これも持ってこう、とシシゾーが、広げてあった雑誌を手に取った。そうか、この雑誌に載っている住所を目指せばよいのか。コイツもたまには気が利く。……なんて偉そうだけど、本当は内心嬉しくて仕方なかった。こうやって親友とふたりっきりで長い旅に出るのは、実は初めてだったから。




イモガラ島のほぼ中央には、イモガラ山とその北側に位置する大きな湖がある。この山と湖があるために、イモガラ島を北から南までまっすぐ縦断することはとても困難だ。そのために、僕らイノシシは大抵の場合、湖をぐるりと迂回してイモガラ山のふもとへ出た後、東や西へと分かれて行くのだ。

いずれは、そこで僕らは選択を迫られることになるだろう。でも今はとりあえず、近場での腹ごしらえが先だ。キノコ町の東部に広がる森の中に、そのレストランはあった。

「ビストロ イモガランテ」と書かれた木の看板が、豆電球に照らされていた。店の入り口の前には、既に長蛇の列ができていた。けれど、並んでいる客たちは皆、どこか余裕がありそうというか少しくらいのことでは腹も立てないような感じの穏やかで楽しげな表情をしている。見た目にはカジュアルな雰囲気なのだが、なんというかセレブっぽくもあった。

「うわ、すげえ行列! 何分くらいかかるかな」

シシゾーが文字通り飛び上がって驚き、急いで列の最後尾に並んだ。僕も後ろに続いた。

僕らが並び始めると、すぐ前にいた恰幅の良い紳士と上品な奥様が、にこやかに微笑みかけてくれた。僕もつられて微笑み返しながら会釈をした。その前にいたお客さんたちも、僕の顔を見るなりハッと何かに気づいたような表情になったが、すぐ元の穏やかな表情に戻り、満足げに頷いたりニコニコしたりしている。あれっ、街中でむやみに取り囲まれて騒がれるのとはえらい違いだ。

もしかしたらこれは──有名人あるあるネタなのではないだろうか? 一目見てすぐそうと分かる有名人でも、たまにはお忍びでどこかへ出かけたりしたくなるものだ。いわゆる、プライベートに配慮するというあれだ。おそらくここに並んでいるひとたちの多くは、僕の顔を知っているはずだ。それなのに、ここでは誰も僕を指さしたり大きな声で名前を叫んだり、むやみに近づいてきたりしない。ああ! 普通に行動できるということはなんてありがたいことなのだろうか! ここ最近の、僕を取り巻く喧噪の数々を思い出し、ついホロリとしてしまいそうになった。そもそも、僕はそんなに自分から目立ちたい性格ではないのだから。

……って、いったい僕は何様のつもりなんだ。ちょっと名が知れたからといって、この頃少しいい気になり過ぎているのかもしれないぞ。僕はあくまでもしがない似顔絵描き、それも兼業の、だ。これくらいで慢心していたら、ちっとも絵なんか上手くなれやしないのだ。精進、精進。

それにしても、この行列。あと、どれくらい並ばなければならないのだろうか。絵の修行云々以前に、まずは目の前に立ちはだかるこの試練に耐える必要があった。僕はともかく、飽きっぽいシシゾーにはたして耐えられるのだろうか? 大丈夫かな、と思いシシゾーの方を見ると、すぐ前にいたはずのタンクトップ姿がない。あれ? と周りを見回していたら、数メートル先で一斉に大笑いする声、続いてその中から明らかに僕の知っている声が聞こえてきた。

「……そうそう、そうなんすよ! だからオレもこう言ってやったんすよ、『イノシシに道を聞くときはまず道を譲れ』ってね!」

「プッ! アハハハ、これは傑作だな! 君、本当に面白いねえ」

「えへへー、あざッす!」

まったく、何の話をしているのか知らないけどずいぶんと楽しそうだ。シシゾーの奴、もはやおとなしく並ぶことすら放棄して、僕がいるのをいいことに自分はさっさと列を抜け出し、勝手に前の方へ歩いてしまっていた。さらに、初めて会ったばかりのひとたちともあっという間に仲良くなり、すっかり意気投合している。こればかりは、毎度のことながら僕には絶対に真似できる芸当ではない。

そうこうしているうちに、辺りはどんどん暗くなってゆく。森の影が深く大地に潜り込み、闇の中に見えない根を張って夜通し伸び続ける。長い長い夜は、たまに僕を不安な気持ちにさせるけれど、こうやってみんなと一緒に過ごす夜ならばたまにはいいだろう。何より、ここに並んでいるお客さんたちはみんな、美味しい食事と楽しいダンスショーを心待ちにしている。それに、今は僕もそのうちのひとりだ。星空をふと見上げた拍子に、僕のお腹がぎゅるると鳴った。

と、その時。

「おや、イノシチくんじゃありませんか」

どこかのんびりとした調子の声に呼び止められ、僕は振り返った。辛うじてまだ、お互いの顔がわかるくらいの暗さだったが、その声の主──飄々として、ひょろ長い身体の眼鏡の紳士──が誰なのか、僕にはすぐわかった。

「あ、ウリ山博士! こんばんは」

「久しぶりですねェ、イノシチ君。元気そうでなによりです、ホッホッ」

上品に腰を屈めて笑ったウリ山博士のそばには、これまた顔見知りの女性の姿があった。彼女の背後には、今日も相変わらず二体の鬼火が仲良く寄り添っていたけれど、どうやらほかのひとの多くには見えていないらしかった。

「こんばんは、イノシチさん」

「うり子さん! こんばんは、博士と一緒って珍しいね」

「ええ」と髪を軽くかき上げながら、うり子さんが小さく微笑んだ。「例のキノコを、みんなで探しに行った時以来ではないかしら」

「そうかもしれない」と僕は頷いた。「本当はあのキノコ、最初に見つけたのはシシゾーなんだ。それなのに、なぜか僕の手柄みたいになっちゃって」

「あら、そうでしたの? でも、みんなで見つけたのとほとんど同じよね」

うり子さんがそう言った直後、背後の鬼火たちがそうだね、とでも言うように同時にフルフルッと揺らめいた。何といっても、彼らは僕らが「例のキノコ」を探しに行った時、夜道を照らす道案内をしてくれたのだ。

そのキノコにまつわる新発見こそが、イモガラ島の、そしてお隣の謎多きワイル島の食糧事情に大いに貢献し、加えて長年正式な国交のなかったイモガラ島とワイル島の国交回復への重要なきっかけともなったのだったが──それはまた、別のお話。

「ところでイノシチ君、君がこの列の最後尾ですか? 私たちは、今夜このお店で予約を取ってあるのですがねェ。いやはや、これほど賑わっているとは」

ウリ山博士に言われて、僕はその時初めて気がついた。不思議なことに、僕の後ろにはこの長い待ち時間中、誰も並んでこなかったことと、同行者の存在をいつの間にか忘れかけていたことを。

「どうやら、僕が最後みたいです。あ、いえ僕と、シシゾーも」

「おや、シシゾー君も一緒でしたか! これはこれは、楽しい夜になりそうですね、ホッホッホ」

呑気に笑う博士を横目に、僕は慌ててシシゾーを呼び戻そうと試みた。

「おーい、シシゾー! 戻ってきてくれないかー」

「わりぃ、今戻るよ、イノ」

列の前方から声がしたかと思うと、瞬時に黒い影が疾風と共に僕らの目の前に現れた。博士とうり子さんの姿を認めたシシゾーは、たちまち目を輝かせた。

「わあ、お久しぶりッす! 元気でした? オレはこの通り、いつでも元気はつらつッすよ!」

聞かれてもいないのにペラペラとまくしたて、博士とはガッチリ握手を交わし、うり子さんにはさすがにそれはしなかったけれど、ちょっと照れて頭を掻きながら深々とお辞儀をしてみせた。シシゾーも実はキノコ探しに同行していた仲間のひとりで、その時以来うり子さんに惚れているらしかった。うり子さんはちょっと困ったように笑っていたけれど、決して嫌がっているふうでもなかった。博士はもともと接待が大好きなのでおおらかに受け入れてくれたが、ふと真顔になり慌てて腕時計に目をやった。

「おや! もう予約の時間を回ってしまいました。並んでいる皆さんには申し訳ありませんが、お店の方に直接聞いてみることにいたしましょう。イノシチ君、シシゾー君、よかったら我々と相席しませんか? そうすれば、すぐに入れるでしょう?」

ね? と博士にしては珍しく悪戯っぽいウインクをしてみせた。もちろん、こんな素晴らしくありがたい申し出に乗らない手はないので、僕たちは迷うことなく博士たちの後についていき……そのまま入店できることになってしまったのだった。


「いつも予約すると、たいてい四人席へ案内されるのですよ。私だけで訪れた場合でも、です。それではあまりにもったいないでしょう? ですから、そういう時には積極的に相席をお願いしています」

にこやかに話しながら、ウリ山博士はゆったりと椅子に腰を下ろした。

「今日は幸いにも、君たちに会えたおかげですんなりお相手が決まりましたよ。ホッホ、嬉しいことですねェ」

「いやーオレたちこそ! あざっす!」

シシゾーがむきだしの二の腕をぶんぶん振り回しながらどっかりと腰を下ろした。ギシッと椅子の軋む音がして、一瞬僕はヒヤヒヤした。この男には、勤めていたスポーツジムで馬鹿力のあまりジムの備品を壊しまくった〝前科〟があるからだ。

「私、ここへ来たのは初めて。とても素敵なお店ね、おじさま」

「お前にそう言ってもらえてよかったよ。いつかはここへ連れてきたい、と思っていたからねェ」

うり子さんの嬉しそうな様子に、博士は優しく目を細めた。彼らは叔父と姪の関係で、博士は彼女をまるで実の娘のように可愛がっていた。

「あー腹へった! 早速食べようぜ、イノ」

メニューをパラパラめくりながら、シシゾーが待ちきれないといった様子で身を乗り出した。

「ここのメニューはどれも絶品ですよ。特におススメなのは、なんといってもこれです、『たっぷりキノコの黒酢ソテー』」

そう言って博士が指さした所には、ほくほくと美味しそうなキノコ料理の写真と、まさにそれを指さしている本人と同じ顔が映っていた。「ウリ山博士責任監修」と、わざわざ赤い字で書いてある。こういうところが、意外とちゃっかりしている。

「わあ、美味そうッすねこれ! 大盛りにできないかなあ」

「いいですねェ、店員さんに頼んでみましょうか。あ、山菜とろろのふわふわグラタンも注文しましょう」

食べるのが大好きなシシゾーと博士は額を近づけ合ってメニューに見入り、あれもこれもと楽しそうにしている。僕もメニューに釘付けになりながら、何にするか迷っていた。お、ここでは「プリンセス・サトコ」が飲めるのか。それは僕のお気に入りのお酒で、イモガラ島でも特別なイベントでしか買うことのできない貴重品だ。それなりにいいお値段なので、そう何杯もというわけにはいかないか……ん? そもそもこのレストランの価格設定は意外とそれなりに……いいお値段ではないか!

現実に目覚め始めたところで、お店のスタッフの女の子が僕らの席へやってきた。

「こんばんは、ウリ山博士。ようこそいらっしゃいました。ご注文はお決まりですか?」

「おや、これはこれはクルミさん。すっかり制服姿も板についてきましたねェ」

クルミと呼ばれたその女の子は、少しはにかみながらエプロンの裾を直した。

「ええ、おかげさまで、毎日とても充実しておりますわ。……あら? 博士、そちらのお方はもしかして」

「ああ、こちらはイノシチ君ですよ。イノシチ君、こちらのレディはクルミさんといって、あのワール=ボイドさんのご友人です」

「まあ! やっぱりそうだったのですね。イノシチさん、以前はひめさ……ボイドさんが大変お世話になりました」

深々とお辞儀をされて、僕は戸惑いながらどうも、とつられてお辞儀をした。これはまた、懐かしい名前を。思えば、彼女がこの島に来ていた頃はあれこれ振り回されっぱなしだったっけ。

ワール=ボイドは、お隣のワイル島から来た自由奔放な女の子で、僕らの共通の友人だ。数か月前に故郷へ帰ってしまったが、彼女がこの島において残した〝伝説〟は今でも語り草になっている。

「見てください、ボイドさんの写真がたくさん飾られていますよ。どれもいい表情ばかりですねェ」

博士に言われて周りを見渡すと、そのレストランの壁には華やかな衣装を着て踊る彼女の写真が何枚も額入りで飾られていた。

「あ。本当に、このお店で働いてたんだ、彼女」

思わず口走ってしまい、僕はあわててすいません、と謝った。いささかボイドにもクルミちゃんにも失礼だったかな、と思ったのだ。

ところが、意外にもクルミさんは面白そうに笑ってくれた。

「ええ、実はここがそのお店なんですよ。ボイドさんがディナーショーで踊り始めてから、お店の売り上げが一気に倍増したんです」

「そうなんですよ」と博士が、我が事のように嬉しそうな顔で言った。

「それまでも、ここは知る人ぞ知る名店でしたが、彼女が突如としてディナーショーのステージに上がったその日から、口コミでさらに噂が広まりましてね。たちまち、行列の絶えないお店として有名になりました」

「そうだったんですか!」と僕は感心しながらも、彼女が実は僕よりもずっと絵が上手いということや、彼女の衣裳代の請求書を見つけて途方に暮れたことなどを次々に思い出していた。

そうこうしているうちに、いつの間にか注文した料理が次々と運ばれてきた。たっぷりキノコの黒酢ソテー、山菜とろろのふわふわグラタン、大豆ハンバーグステーキ、ニンジンとサツマイモのムース、そして食前にも食後にも合うプリンセス・サトコ。二つ分繋げたテーブルの上が、たちまちできたての料理でいっぱいになった。いただきます、の声と同時に一斉に手が伸びると、あまりの美味しさにみんな喋るのも忘れて黙々と頬張り続けた。これは並ぶ価値がある。

とその時、突然フッと店内の明かりが消え、奥にあった一段高いところにあるステージの上にスポットライトが当てられた。ざわっとしかけた客席が、次の瞬間にはもう大きなどよめきに変わり、あちこちから拍手と歓声が起こり始めた。

「皆様、大変お待たせ致しました! 今宵も楽しいダンスショーを、どうぞお楽しみください! それではミュージック、スタァートッ!」

威勢の良いアナウンスと共に陽気な音楽が大音量で流れ始め、天井のミラーボールがゆっくりと回り出す。舞台の左右から半々ずつ、色とりどりの衣装をまとった女性ダンサーたちが颯爽と現れ、最初は一糸乱れぬフォーメーションダンスから始まり、続いて各グループのソロダンサーがそれぞれ異なったダンスを披露していく。いつの間にか、客たちは食べるのも忘れてすっかりステージの虜となり、しまいにはひとり、またひとりとスタンディングオベーションを始め、ラストの全員でのダンスに差しかかった頃には既に、ほぼ全員総立ちとなってさかんに拍手を送っていた。

「ブラボー! ブーラボー!」

僕らのテーブルもみんな立ち上がり、シシゾーに至っては、興奮のあまり指笛を吹きまくっていた。

「皆様、お楽しみいただけましたか? ただいまのプログラムは、〝ワール=ボイド スペシャルバージョン〟でお送りしました! ありがとうございました~」

ボイドの名が挙がった途端、また客席からおおっとどよめきが漏れた。ボイドだってよ、まああのボイドちゃんね、などとあちこちでその名が親しげに繰り返されている。

「また、帰ってきてくれないかな~ボイドちゃん! 奔放でキレのあるダンスが最高だったんだよな」

隣の席の男性が、どこか遠くを見るような目でうっとりと呟くと、その隣に座っていた女性も大きく頷いた。

「本当よね~。彼女、ある日突然現れてスターになったかと思ったら、突然いなくなってしまうんだもの。今頃、どこでどうしているのかしらね」

確かに。と、僕も心の中で頷いた。彼女はある日ちょっと特殊な方法でイモガラ島にやってきて、やむを得ない事情で結局故郷のワイル島に帰っていったから、きっと元の生活に飽き飽きして退屈し始めている頃だろうな。

ショーの興奮が冷めやらぬ中、みんなお腹も心も満たされ夢見心地で席を立ち、お会計を済ませてそれぞれの家路に向かい始めた。

「イノシチ君、ここは私が」

ウリ山博士が、すかさず気を利かせて僕らの分までお金を払ってくれようとしたのを、僕は慌てて止めた。

「いえいえ、ちゃんと自分たちの分は払いますから」

え、いいんすか! と言いかけたシシゾーの口を塞ぎながら、いやいやぜひここはひとつ、と譲らない博士と、でもそれでは悪いですから、と粘る僕との間でちょっと揉めかけたけれど、そこは博士の方が一枚上手だった。

「そうですか。では、こうしましょう。全部とまではいかなくても、少しばかり私に肩代わりさせてください。そうすれば、お互いの顔も立つというものです」

そう言って、紙のお札を一枚、そっとテーブルに置いて、うり子さんと一緒に席を立った。

「今夜は思いがけずお会いできて、とても楽しかったですよ。それでは、また」

「ありがとうございます! 博士、どうかお帰りお気をつけて」

「あざっす! やったなイノ、これでこの先助かるぜ」

ちょ、まだ聞こえるかもしれないだろ、とはしゃぐシシゾーを諫めつつ、僕も実は全く同じ心境であった。何しろ僕らは、これから長い旅へ出るのだ。この後どこか近くで宿を探して、明日に備えなければならないのだから、先立つものがないとどうにも不安材料がつきまとう。

意気揚々とレジに伝票を出すと、店員はにこやかに合計金額を告げた。

その金額の数字に、思わず僕は耳を疑った。笑顔のまま、表情が凍り付いた。……えっ。予想以上に……お高いではないか!

それもそのはず。飲食代だけでも割といい値段な上に、ダンスショーのサービス料、いわばチケット代に相当するものが加算されるということを、すっかり忘れていたのだった!

「ん? どしたぁ、イノ」

能天気なシシゾーが僕の顔を横から覗き込んできたが、ショックのあまり僕は即答することができなかった。

結局僕らは──博士に恵んでもらったお金どころか、お互い家中からかき集めてきたお金のほとんどを足してようやく、ギリギリお会計を済ませることができたのだった……トホホ。




こうして僕らの旅は、開始早々何ともピンチな状態に陥ったのである。どうするイノシチ!


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ