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イノシチ 旅に出る  作者: 宮本小鳩
19/20

第19話 孤独なクジラのレストラン

 そうしてしばらくの間、僕らはホホー鳥の背中に揺られながら大海原を渡っていた。

 あんまり僕がヒイヒイ言って怖がるものだから、見るに見かねたシシゾーとシシヤマさんが僕を両側からしっかりとガードし、僕がなるべく周りを気にし過ぎずに済むように取り計らってくれた。

「まあ、自分のことで騒げるのは余裕が出てきた証拠でもあるしな」とシシヤマさんが笑った。

「さっきのお前、なかなか凛々しかったぞ。『来るなら来い!』なんてタンカ切ってさ、なかなか新鮮だったぜ」

「いやあ、お恥ずかしいです」と僕は頭をかいた。

「イノもたまには大きな声出せるんだな! 久しぶりに見直したよ、オレ」

 シシゾーまで、そんなちょっと失礼なことをサラリと言った。多分、本人にしてみればほめているつもりなのだろう。

 それでも僕自身さえも、今回の一件はなかなか我ながら新境地を開くことができたのではないか、と思っていた。シシゾーにズルズル引き込まれるような形で始まったこの長旅の中で、初めて僕は自分の意思で明確に行動したような気がしたからだ。

「なんかさ、色々あるけど、旅に出てきてよかったよ」

 それは、嘘偽りのない、僕の心からの本音だった。

「そうかあ! オレもだぜ、イノ! 嬉しいなあ!」

 シシゾーが豪快に笑いながら、遠慮なくバシバシ僕の肩を叩きまくった。あっ、ちょっと、揺れるって、と再び僕は高所の恐怖を思い出しかけてしまった。

「ほらほら、それくらいにしとけよシシゾー」

 シシヤマさんがたしなめてくれたおかげで、ようやくシシゾーはそうだな、と、おとなしくなってくれた。何だかんだいっても、ちゃんと言えば分かってくれる奴なのだ。

 ザブーン、ザブーン、と波の音が、うまい具合に心地良く聞こえてくる。落ち着いてきたら、何だかだんだん眠くなってきてしまった。

「イノ、眠いなら寝てもいいぞ。オレが子守唄歌ってやるよ」

 シシゾーが軽口を叩き、シシヤマさんがプッと吹き出した。僕もつい、いつかの彼のでたらめな即興ソングのことを思い出してしまった。

「え、あの温泉で歌ってたキノコの歌みたいなやつ?」

「いや、もっと壮大なスケールの」

「何だよそれ」

 一斉に大笑いした拍子に、ホホー鳥が自分だけのけものにされているとでも思ったのか、突然ボー、ボーと低い唸り声を上げ始めた。意外とヤキモチ焼きな鳥なのかもしれない。

「アハハ、ごめんごめん。君も、僕らの仲間だよ」

 ホホー鳥のフカフカした背中を優しく撫でてやると、単純なもので彼はたちまち機嫌を直し、ホホー、とまた普段通りの声を出した。

「ところで、こっちの方角で大丈夫ですか、シシヤマさん」

「ああ。順調に、南へ向かってる。ホホー鳥の方向感覚は抜群だな」

 シシヤマさんが、手を伸ばしてホホー鳥の頭をポンポンさすると、ホホー鳥は嬉しそうに喉を鳴らした。

「まあ、方向さえ間違わず、島伝いに行けば間違いないよ。ただ、もうしばらくはかかりそうだな。とにかくまあ、不便なところなのさ」

 とシシヤマさんは、少しバツが悪そうな顔をした。

「何しろ、俺たちが移動する手段よりも、特産品の米や野菜を各地に運搬する手段の方が優先されてる、ときたもんだ。イナホ村の米は、この島でもトップブランドの一つだからな。だから、お金のない若い連中には、品物を運ぶ貨物便に紛れ込んで都会に出る奴もちょいちょいいるんだな、これが」

 そう言った時のシシヤマさんは、どこか意味ありげにニヤリとしていた。おそらく、心当たりがあるに違いない。

「あっ、それ楽しそうッすね! スリル満点、って感じで」

 すぐ調子に乗りたがるシシゾーが、たちまち目を輝かせた。まずコイツなら、ほぼ確実にやりかねないだろうなあ。

「そうまでしてでも、憧れの地なんだよ。俺たち田舎者にとっての、キノコ町ってのは」

 しみじみと、シシヤマさんは呟いた。そんなもんッすかね、とシシゾーも呟いた。

 思えば僕は、自分がどこで生まれたのかさえも分からないけれども、もともとキノコ町の住民でなかったことは確かだ。子ども時代を過ごした「イノハウス」がどこにあったのかさえ、あまり正確には覚えていない、けれども……そうだ、住所は分かる。分かる、けれども。

「……あれ?」僕は首を傾げた。

(そもそもイノハウスって、どこの町にあったんだっけ? 住所は確か……「イモガラ島 南地区特区 森の中」……?)

 その時初めて、僕は気がついたのだった。

 生まれ育ったイノハウスの住所とされるものには、町や村の名前が入っていなかったのだ! こんなことがあるだろうか?

「ん、イノ、どうした?」

 深刻そうに思い悩む僕の顔を、横からシシヤマさんが覗き込んてきた。

「えっ? ああ、いえ」

 とっさに僕は笑ってごまかしたけれど、一度頭の中に浮かんだ疑問は思いのほか根が深そうに思えてきた。

「シシヤマさん! オレ、腹へってきちゃいました」

 シシゾーが、空気を読まずに、いやもしかしたらあえて空気を打ち破るようになのか、全然違う話題を持ち出した。

「そういや、俺も腹へってきたなあ。どこかで食事がてら一泊しないと、厳しいかもしれんな」

「そんなに遠いんですか、イナホ村って」

「ああ、思ってるよりも遠いぞ……ん? ありゃあ、何だ?」

 ふとシシヤマさんが、額に手をかざして遠くの景色を注意深く見つめた。

「あっ! あのでっかい魚みたいの、何すかね?」

 シシゾーもまた、同じ方向を指さした。そこには、何やらクジラみたいな大きな魚が佇んでいるように見えた。

「ちょっと、あのそばまで行ってみようよ。ホホー鳥、お願いしてもいいかな?」

 僕の頼みに、ホホー鳥はわかった! と言うようにホゥ、と短い声を上げ、少しばかり歩く速度を速めた。

「なんか、あの辺りからいい匂いがしてこないか? イノ」

 シシゾーが、身を乗り出して鼻をフンフンさせた。気がつけばシシヤマさんも同じように鼻を突き出して匂いを探っている。よほどお腹が空いているらしい。

「わかった! これ、スープの匂いだよ」

 シシゾーが、真っ先に匂いの正体に気がついたようだった。

「魚のダシと、いろんな野菜の混じったような……なんて言うかさ、身体に良さそうな匂いだよな。もしかしたら、あれは海上レストランかもしれないぜ」

「ふむ、言われてみるとそんな気がしてきたな」

 シシヤマさんも、それに同意した。僕もその匂いには気づいていたけれど、そこまで特定できなかったので自分の嗅覚があまり優れていないのかな、とやや落ち込みかけた。が、後になって考えてみると、むしろその時は匂いなどよりもこの目線の高さをどうにかやり過ごすことで精一杯だったのかもしれない。

 僕は、その大きな魚のような物体から目をそらさないように、集中して前方を観察し続けた。美味しそうないい匂いは、ますます強くなっていった。気のせいか、ホホー鳥の足取りもさっきよりどんどん速くなっていた。ズシン、ズシーン、と、背中の上に伝わってくる振動がどうも荒っぽさを増していた。

「おい、こら、もっと気をつけて歩けってば!」

 小柄なシシゾーが背中から振り落とされそうになり、とっさにシシヤマさんの手につかまって事なきを得た。

「おっ、どうしたどうした。あんまりあせるなよ、ホホー鳥」

 シシヤマさんは意外と余裕なもので、普段とは違ったこの絶景を大いに満喫しているようだった。

「やっぱり、ホホー鳥も腹ペコだから急いでるんすかね?」

「そうかもしれないなあ、ハハハ」

 楽しそうに笑い合う二人の様子を横目で気にしていた僕は、ふとあることに気がついた。

「あれ? なんだか、別のいい匂いもするような」

 何気なく風向きが変わって、そのためかまた新たな匂いが同じ方向から漂ってきたのだった。塩気とうまみを含んだのとは異なる、甘い香り。

「これは……果物、かな?」

「間違いない。果物、それもいろんな種類の混じったような匂いだ。よく気づいたな、イノシチ」

 シシヤマさんがほめてくれた。よかった、僕の嗅覚も大丈夫だった。ちょっと安心した。でもとりあえず、一刻も早くあの魚のようなものへ辿り着きたい!

 果物、なんて言葉を不用意に口走ったせいか、ホホー鳥はますます歩みを速めた。いやむしろ、もはや彼は疾走していた。僕らは振り落とされないようにと必死でホホー鳥の背中に埋もれながら羽にしがみついていた、その時。

 ドスーン!

 突然、ホホー鳥が何かにぶつかる音が衝撃と共に響いた。

 僕らは一斉に彼の背中から投げ出され、ボフッ! と土臭いわら山の中に突っ込んだ。

 一瞬何が起きたのか分からず、しばらくの間僕は呆然とそのわら山に埋まったまま、顔だけピョロッと突き出して辺りの様子をうかがった。どうやら、例の魚のような物体の場所に振り落とされたらしい。

 ちょうどそこはオープンカフェのようなスペースになっていて、運良くテーブルと椅子が並べられている所からは離れていた。このわらはおそらく、燃料か何かに利用するためのものだろうか? できるだけ慎重に、静かにわらから抜け出し、周囲の景色を見回した。

 そこは紛れもなく、海の上にポツンと佇んでいた。オープンカフェのほかに、室内にもテーブルと椅子がセッティングされているのが窓越しに見えた。タバタさんの推測通り、どうやらここはレストランとみて間違いなさそうだった。

 シシゾーやシシヤマさんはというと、一足先に出てウロウロと歩きだしていた。そのそばではホホー鳥が首を伸ばして、よだれをダラダラ垂らしまくりながら床に並べられていた干し果物を堪能している最中だった。干し果物の近くには、ていねいに下ごしらえされ開かれたイカがずらりと干されていたが、そちらの方は全く荒らされていなかった。

 そこへ、

「おい! お前ら、何してる」

 室内から、偏屈そうな剛毛のイノシシの男が大股で歩いてきた。手にはなんと、血の付いた包丁を握り締めているではないか!

「ひ、ひいぃ」

 僕は思わず、シシヤマさんの後ろに逃げ込んでしまった。

 そのおじさんは怒りをあらわにしながら、僕たちの方へずんずん近づいてきた。そして、まずホホー鳥の姿を認めると、いきなり彼に向かって説教し始めた。

「またお前か! せっかく、ドライフルーツを作ろうと思って天日干ししてたっつうのに! お前がまるごと平らげちまったんだな? どうしてくれるんだよ」

 おじさんはホホー鳥を恨めしそうににらみつけると、今度は僕たちの方に向き直った。

「あーあ、そこらじゅうよだれまみれにしやがって。おおかた、お前らがこの鳥にここまで来るようにそそのかしたんだろ、え?」

「いや、別に俺たちはそそのかしたとか、そういうんじゃ」

 シシヤマさんがあわててとりなそうとしたけれど、おじさんはふん、と鼻で笑った。

「そうやって、コイツがよくなついてるってことはよ、どうせバナナか何かでうまいこと手なずけたんだろう? お前らももう分かってるだろうが、コイツは甘いものとなると目の色変えて飛びつきやがるからな」

「そうなんすよ! おじさん、やけに詳しいッすねえ」

 シシゾーが、いつもの調子で全く人見知りすることなく話の輪に入り込んだ。おじさんはまさに今気がついた、と言わんばかりに、あぁ? と不機嫌そうな目でシシゾーを一瞥した。

「大体、この島の連中が必要以上にコイツを忌み嫌って、コイツのことを少しも知ろうとしてこなかったのがそもそもの怠慢だね」

 とおじさんは、世間の風潮をバッサリ切り捨てた。ことごとく手厳しい。

「確かに、その通りかもしれないッすね。おじさん、もしかしてホホー鳥のこと、前から知ってたとか?」

 シシゾーが、いかにも感心したというようにうなずきながら言った。

「あ? 知ってるも何も、コイツはしょっちゅうこの店に来るぜ。しかも、果物を干している時に限ってな」

 少しも動じることなく、おじさんは言った。

「なあんだ!」とシシゾーが笑いながら言った。そしてホホー鳥の方を振り返って、

「だったら、コイツもおじさんのこと、よく知ってるはずだよなあ? おい、お前おじさんに謝んなよ、いつもすいません、ってさ」

 するとホホー鳥は、内心どこかちょっと納得がいかないといった感じでホッホー、と手短に鳴き声を発し、なぜか僕もそれとほぼ同時にすみませんでした、と頭を下げていた。

「さて! とりあえず、これ早く掃除しなきゃな! おじさん、掃除用具あったら貸してくんない? オレがパパッとキレイにしちまうからさ!」

 そう言うが早いか、もうシシゾーは遠慮なく船のあちこちを物色し始めた。シシゾーのそんなチョコマカした様子を、おじさんは少しばかり面食らったような顔で見つめていたが、ふと、自分が血の付いた包丁を持っていたことに気づき、あわててそれを台所に置きに戻っていった。その間に僕らは掃除用具入れを見つけ、ササッとモップやらバケツやらを拝借し、みんなで手分けしてよだれまみれの床を掃除した。無傷のイカには細心の注意を払いつつ。

 しばらくして、おじさんが戻ってきた。グラスがいくつか並んだトレイを、大事そうに運んできた。

「おい。終わったら、これでも飲め」

 それぞれ少しいびつなグラスには、冷え冷えの水が入っていた。あざっす! と真っ先にシシゾーがグラスを一つ手に取り、僕らも後に続いた。一口喉に流し込んだだけで、ひんやりとした心地よさと共に適度な酸味が口いっぱいに広がった。それは実に絶妙な味わいのレモン水だった。

「うわ、美味いっすねこれ」

 シシヤマさんも、一口飲むなり感動の声を上げていた。

「これくらいだったら、タダで出してやる」

 とおじさんは、ブスッとしたままで言った。

「こっちも商売なんでね、基本的に金の払えない奴に食わせる料理はねえんだ」

「おいおい、誤解してもらっちゃ困るなあおじさん」シシヤマさんが苦笑いした。

「レストランって承知の上で来てるんだぜ、そんなせこい真似なんかするかよ」

「ふん、どうだかな」

 そう悪態をつきつつも、おじさんの表情は最初に出会ったときに比べていくぶん穏やかになっていた。

「いいか、あらかじめ言っとくぞ。お客様は神様じゃねえし、俺だって神様じゃねえ。そこを忘れるな」

「そりゃそうッすよねえ! だって、オレたちもおじさんもイノシシだもん、アハハ」

 いや、そういう意味じゃなくて、とシシゾーを肘でこづいていると、意外にもこれがおじさんにはウケたらしかった。

「まあ、そうっちゃそうだな。お前、なかなかおもしれえこと言うじゃねえか」

「そうッすか? あざッす!」

 いつの間にか、コワモテおじさん相手でもすっかり打ち解けてしまっている。何度このような場面に遭遇しても、うらやましいの極みである。

「おじさん、オレさっき一生懸命掃除したからさ、すっかり腹減っちゃったよ。ねえ、何か美味いごちそう、食べたいなあ」

 ほら、もう調子に乗って甘えている。

「まだダメだ。夜まで待ってもらわないとな」

 情け容赦なく、おじさんが言った。そのかわり、と付け加えて。

「ここは、俺の店だ。だから、その日ごとに気の向いたメニューしか作らない。それを頭に叩き込んでおかねえと、後からブウブウ文句言われたって俺は知らん。いいな?」

 わかりました、と僕らは神妙にうなずいた。よし、とおじさんもうなずいた。

「……まあ、店の手伝いでもしてくれるんなら、食事代だけで泊めてやってもいいがな」

 思わぬ態度の軟化に、僕らは思わず顔を見合わせ、心の中で互いにガッツポーズとハイタッチを交わしたのだった。


 孤独なクジラのレストラン。イモガラ島では、誰からともなくこの海に浮かぶお店がそう呼ばれるようになったという。

 巨大なクジラのように見える外観は、「のように」見えるのではなく、実はクジラそのものなんだ、とおじさんから話を聞いた僕たちは、驚きを隠せずにいた。

「イモガラ珍百景の一つにも挙げられると聞いたことがあるけどな、俺にとってはそんなことは別にどうでも良かったんだよ」

 とおじさん──これからは「クジラおじさん」と呼ぶことにしよう──は言った。

 すっかり夜も更け、テーブルについた僕らの目の前には、新鮮な海の幸をふんだんに使った料理がこれでもかと並べられていた。この日のディナータイムは、完全に僕らだけの貸し切りとなっていた。

「そんな呼び名があるなんてことはちっとも知らなかったし、そう呼ばれるようになってから、なんだか知らねえが珍百景なんてくくりにまとめられてよ。誰が好き好んで、こんな不便な場所を見物に来るかっつうの」

「え、じゃあおじさんのおかげで、イモガラ島の名物が一つ増えたってことッすよね? すごいじゃないッすか」

 パエリアを頬張りながら、シシゾーが感嘆の声を上げると、おじさんは、別にすごかねえよ、と毒づいた。

「俺はただ……このクジラが、なんだかほっとけなくなっただけだ」

「どういうことです?」

 ロブスターステーキの殻をむきながら、シシヤマさんが尋ねた。

 クジラおじさんは、しばらく窓の外を見つめて何か考えこんだ後、

「今日は特別に、暇だから話してやるか」と言った。

 おじさんの話とは、大体次のような内容だった。

 この海上レストランを始める前、おじさんはとある高級レストランのシェフのひとりだった。そのレストランのコンセプトは〝お客様のご要望には全てお応えする〟という、シンプルなようでいて実はとても難しいものだった。つまり、来店したお客さんは、食べたいメニューを自由に注文することができ、レストランは必ずそれを提供するということ。いついかなるオーダーが来ても、必ずそれに対応しますよ、というあまりにも無茶ぶりが過ぎるものだったのだ。

 この店の方針のおかげで、従業員たちは幾度となく厳しい目に遭い、辛い残業に耐え続ける羽目になった。ついに我慢の限界に達したおじさんは、ある日突然ブチ切れて厨房を飛び出し、そのままもう二度とそのレストランに戻ることはなかった。

 その後、元々漁師の経験もあったおじさんは、海で魚を獲りながらその日暮らしを送っていたが、ある日いつものように小舟で沖合に出た時、偶然この〝クジラ〟に出会ったのだという。

 見た目は明らかにクジラのようで、今にも動き出しそうな圧倒的な迫力があったが、全体的に石化したみたいに硬くこわばって、浮島のように大海原をゆっくり、ゆっくりと漂っていた。

 そして何とも不思議なことに、クジラの体内はまるで何かにくり抜かれたみたいにぽっかりと広い空洞になっていたのだ。

 広い海の片隅にぽつんと佇むクジラの姿に、おじさんは言いようのないシンパシーを感じた。クジラの体内を歩き回っているうち、これはもしかしたら、何かのスペースに利用できるかもしれないぞ、とひらめいたおじさんは、突如としてこのクジラを〝間借り〟してレストランを開くことを思いついたのであった。

「……そしてまあ今に至る、と。こういうわけだ」

 クジラおじさんは、長い話をようやく終えると、どこか肩の荷が下りたかのようにすっきりとした表情になっていた。

「なんだか、運命の出会いって感じですね。その無茶ぶりレストランも、今にして思えばここに至るまでの通過点だった、とか……って、まさかね。ちょっと、それはあんまりですよね」

 僕は、当時のおじさんが置かれた境遇に想いを馳せながら、おじさんおススメの白ワインをいただいていた。

「ま、初めから無理ゲーだぜ。そんなやり方で、ずっと続くわきゃねえよなあ」

 とクジラおじさんは、自らも白ワインをたしなみながら愚痴をこぼした。

「材料が一つでも足りなけりゃ、シェフだろうが手の空いた奴が容赦なく買い出しに行かされるし、仕込みが必要な時は何日も徹夜させられたり、そりゃもうひでえ有様だったぜ。お客はただそれを食うだけだから、まあ気楽なもんだ。こっちが必死で揃えた料理も、思ってたのとちょっと違う、って残されたり、やっぱり気が変わったから別のメニューにしてくれ、なんて作ってる途中で言われてみろ、たまったもんじゃねえぜ。ああ、あの頃ほど荒んでいた時期といったらなかったなあ!」

 そこまで一気に愚痴った後、おじさんはグラスに残っていたワインを一気に飲み干し、プハー! と気持ち良さそうに叫んだ。確かに、これだけ遠慮なくモノを言うタイプだと、そんな組織の中できゅうくつな思いをするなんて到底耐えられるものではなかっただろう。僕らはみんな、おじさんに心から同情した。

「それで、その後お店はどうなったんです?」

 フィッシュアンドチップスをかきこみながら、シシヤマさんがおじさんに尋ねると、彼はいかにも軽蔑したような笑みを浮かべてこう言った。

「俺がドロップアウトしてから、風の噂で聞いた話じゃ、それから一か月もしねえうちにつぶれたとよ。へっ、ざまあねえな」

「えっ、じゃあそこで働いてたひとたちは、みんな職を追われた、ということですか?」

「ふん、俺がそこまで知るかよ。俺は、連中からはあまり好かれちゃいなかったんでな」

 僕の懸念に対して、おじさんは残酷なほどにクールだった。シシゾーも気のせいか、いつになく神妙な顔をしていた。自分も仕事をクビになった身だけに、何か心に迫るものがあったのかもしれない。

「でもまあ、あいつらなら大丈夫だろ。シェフ、ソムリエ、ウエイター……みんな、それぞれの専門分野から選りすぐられたプロフェッショナルばかりだ、食いっぱぐれることなんかないさ」

 シシゾーのそんな様子を知ってか知らずか、おじさんは何気ないふりしてそう言った。

「そッすか! なら、良かった!」

 ちょっと落ち込みかけていたシシゾーがパッと顔を上げ、心底ホッとした笑顔を見せた。僕も同じくホッとした。

「いいか、お前ら」

 さすがに酔いが回ってきたらしいおじさんが、立ち上がって僕らの顔を見ながら言った。

「あれもこれも、なんて自由だと思うだろ? そういうのが実は一番、不自由なんだよ。少しくらいワガママにこだわって不自由だって方が、かえって自由に長持ちする場合もあるんだよ」

「いよっ、その通り! さすが大将!」

 シシゾーが口笛を鳴らしておじさんをほめそやすと、頑固そうなおじさんにもようやく初めて笑顔が浮かんだ。

「久しぶりに、今夜はえらく愉快な気分だぜ。さ、遠慮せずに食べな」

「あざっす!」

 みんな、すっかりいい気分になって、思い思いに特別なディナーを楽しんでいた。

 僕はふと、外にいるであろうホホー鳥のことが気になり、こっそり席を立って窓から夜の海を眺めた。

 クジラのレストランにそっと寄り添うように、ホホー鳥が丸まって、波間に漂いながら気持ち良さそうに寝息を立てていた。


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