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イノシチ 旅に出る  作者: 宮本小鳩
13/20

第13話 秘境良いとこ一度はおいで

 秘境の温泉の宿一帯は、一度足を踏み入れると思っていた以上に歩きやすく、どこかテーマパークのようなつくりになっていた。自然の良さを残しつつ、足元は歩きやすいように整備され、歩道に沿って可愛らしい花が並んで咲いている。至る所に親切な標識が立てられ、「この左 蒸し風呂」とか、「この奥 温泉卵」などと示されている。温泉卵? と首をかしげていると、待ってましたとばかりに女将さん、いやスルメおばちゃんが教えてくれた。

「あちらでは、できたてあつあつの温泉卵を食べられるんでございますよ。ほかにも、新鮮なお野菜を使った蒸し料理などもお楽しみいただけます」

 ふむふむと感心しながら、ふと僕は思い出しておばちゃんに尋ねてみた。

「そういえば、ここへ来る途中、トロッコから綺麗な花がたくさん咲いてるのが見えたんですけど……止め方がわからなくて、降りられなかったんです」

「まあ! それは大変失礼を致しました。ついほんの数日前までは、ここへ来るための吊り橋が通っていたのですが、思わぬ出来事で橋が壊れてしまったものですから、どうにもご不便でしたでしょう」

「んー、でもまあ、それはそれで面白かったッすよ」

 シシゾーが、スルメをもしゃもしゃかじりながら言った。

「あいにく、私どもの集落も人手が足りていませんで、なかなか橋の修理とトロッコの点検とがままならないのです。もう何日かしたら、男衆が出稼ぎから帰ってくる予定なのですが」

 おばちゃんは、どこか言葉を選びながら話しているように僕には思えた。

「……そうそう、ところでお客様は、この辺りの歴史をご存知ですか?」

 不意におばちゃんは、明るい調子になって言った。

「この辺り一帯はもともと鉱山だったのですが、数年前に閉山になりまして、その後私どもがこの地を譲り受けることになったのでございます。そして、こちらの温泉宿をはじめとして、途中でご覧になった花の公園、ここからもう少し海沿いにある物産店など、ほとんどが私どもによって運営されております」

 思っていた以上に多角経営だったんだな、と感心しながら、僕はおばちゃんの説明に耳を傾けた。

 山の向こうの、いやもっともっと向こうから、ホホー、ホホーと不思議な鳴き声のようなものが聞こえたような気がして、僕ははるか彼方に耳をすませた。それはまるでフクロウにも似て、オカリナのような深い響きだけれど、その一方で何か得体のしれない不安を抱くようにも思えた。

 突然、あれっ、とシシゾーが声を上げ、ふと前方を見ると、先ほどトロッコでカーチェイスを繰り広げた子どもたちが、それぞれ両手いっぱいに薪を抱えて僕らの前を横切っていった。どの子もうなだれて、しおしおとした様子で、けれども逆らうことができないといった感じであった。

「あの子たちには、お客様にご迷惑をおかけした罰として、宿の仕事のお手伝いをしてもらっているのです」

 とスルメおばちゃんはきりりとした眼差しで言った。

「でも、そんなに悪いことだったかなあ」とシシゾーが首をかしげた。

「情けはいりません。守るべき決まりはきちんと守らないと、あの子たちの将来のためにもなりませんから」

 その時、またホホー、ホホー、と遠くで鳴き声が聞こえた。先ほどよりも、よりはっきりと。するとスルメおばちゃんは、まるでその声に反応したかのように、ささ、こちらへ、と慌ただしく僕らを案内した。

「あちらの茶店スペースで、冷たい甘酒をご用意いたしましょう」

 おっ、やったあ! と無邪気に喜ぶシシゾーのそばで、僕はどこか引っかかるものを覚えながらも、一緒にその後へついていったのだった。


 周辺を一通り案内してもらって、再び宿泊する母屋に戻ってきた頃には、僕もシシゾーも結構お腹がいっぱいになりつつあった。夕飯の時間には、まだもう少し早いというのに。

 仲居さんに導かれ、お世話になる部屋の中に通されると、僕らだけでは持て余しそうな広さの畳の間、中央に置かれた長方形型のちゃぶ台、落ち着いた雰囲気の調度品、窓際に置かれた一対のテーブルと椅子、などが目に飛び込んできた。そしてちゃぶ台の上には、明らかにおばちゃんのお手製であろうと思われるスルメの入った丸い木の器がごく当然のようにセットされていた。

 窓の外には深い森が延々と続いていて、そのあちこちからかすかに湯気のようなものが立ち上っているのが見えた。あの向こうが、念願の秘境の温泉なのだろうか。

 そういえば、ここに着いてからもうずいぶん色々なおもてなしを受けたけれど、いまだに僕らのほかに別のお客さんらしき存在は見当たらなかった。これは実質、僕らの貸し切り状態、ということでいいのかな?

 そんな僕の心の内を察するかのように、シシゾーが僕らを案内してくれた仲居さんに尋ねた。

「ところで、ほかのお客さんて誰もいないんすか?」

 仲居さんは、ちょっと困ったように微笑んだ後、言葉を選びながら言った。

「ええ、実は……以前、テレビで特集していただいた折には、お客様もいくぶん多くお見えになったものでしたが、その後ほどなくしてちょっと……こちらへいらっしゃるための吊り橋が」

「あ、そういえば」思わず僕は、間に割って入ってしまった。

「ここに来る途中、その話を聞きましたし、実際に吊り橋が壊されていたのも見てきました」

「うん、それでオレたち、トロッコで来たんすよ!」

 シシゾーも、大げさな身振りで僕のコメントを後押しした。

「さようでございましたか」と仲居さんは、つとめて冷静に言った。

「手こぎトロッコでは、さぞやお疲れになったでしょう。お夕飯までまだお時間がありますから、ぜひ自慢の温泉をお楽しみくださいませ」

 はい、とうなずきながら、ふと僕は壁に飾られた額に目が留まった。あの大人気お笑い芸人、「イノシシ探検隊」のメンバーとスルメおばちゃんが仲良く並んで写っている写真が飾られていた。そして額縁の下には、「イノシシ探検隊様 ご宿泊の部屋」と書かれていた!

 意外とそういうところをアピールしないんだな、と思っていたら、再び廊下に出ると、ちゃっかり部屋の前に小さな矢印の描かれた紙が貼ってあり、そこにも同じ言葉が添えられていた。よくよく見たら、もときた玄関口のそばにも掲示板が設けてあり、「〇月〇日 イノシシ探検隊様 ご宿泊 大感謝」というメッセージと共に、イノシシ探検隊がおなじみの決めポーズを披露した写真とサイン色紙が飾られていた。

 母屋を出ると、待っていたかのようにふわぁと風が頬をくすぐった。なだらかな上り坂に入り、少しずつ森の中へ分け入り始めた時、シシゾーが叫んだ。

「やべ、タオル持ってくるの忘れた!」

 するとその直後──ほとんど呼吸を一つするかしないかのわずかな間に──ササッと僕らの目の前に仲居さんが現れた。その手には、ちゃんとタオルやその他の備品を携えていた。

「どうぞ、これをお使いください」

 何食わぬ顔で差し出されたタオルを、シシゾーはためらうことなく、あざーっす! と受け取り、いやー助かったぜ! と笑ってまた歩き始めた。その間に、仲居さんはあっという間に姿を消してしまっていた。

 あまりの早わざに、僕はあっけにとられていた。今の常人離れした行動について、はたしてシシゾーは何とも思わなかったのだろうか? まるで忍者のような素早さだった。……って、もしかして本当に……? などとぼんやり考えながら歩いていたら、うっかり足元の木の根っこにつまずいてしまった。わ、しまった!

 ……あれ?転んだはずなのに、地面にぶつかる音がしなかったし足も痛くないぞ。

「お客様、大丈夫ですか」

 気がつけばいつの間にか、つまずいた木の根っこのそばに先ほどとは別の仲居さんがしゃがみこみ、僕の身体を支えてくれていたのだ。

「あ、大丈夫です。すみません」

 戸惑いながらも、僕は言った。僕の無事を確認した仲居さんは、失礼いたしました、とまたしても風のようにどこかへ去ってしまった。

「すげえ、至れり尽くせりだな、イノ」

「うん……そうだね」

 ようやく立ち上がりながら、僕は一体これは何なのだろう、とますます疑問に思えてしまった。

「ここの温泉で働くには、忍者みたいな素早さが大事なのかな」

 何気なく僕が呟くと、シシゾーが面白そうに吹き出した。

「マジでそうだったらウケるな! そうだったらさ、オレここの面接試験、受けてみよっかな?」

「案外受かりそうだね、シシゾーなら」

 たった今目にした仲居さんたちの素早い行動に、僕はつい目の前のシシゾーがそうするところを想像して姿を重ねてみた。足は速いだろうからきっとすぐ駆けつけることができるけれど、ただシシゾーの場合はドタドタにぎやかな足音を立てたり、おーい! って大声を上げながらあまりにも分かりやすく近づいてくるだろうな、というのが容易に想像できた。だからたぶんシシゾーは忍者っぽくはない、かもしれないな。

「ん、どしたイノ、ニヤニヤしちゃって」

「あ、ああ別に、何でもない」

 つい笑いをかみ殺しながら、僕は言った。背後の藪の中から、かすかではあるが何かが走り抜けるような気配を感じたけれど、この時はさほど気にはならなかった。

 さらに何分か歩いていくと、行き先が三方向に分かれているところに来た。左から順に、「この先 熱めの湯」、「この先 普通の湯」「この先 蒸し風呂」との案内が示されている。

「どうする? シシゾー」

「そうだなあ……熱めでいってみるか!」

 ということで、僕らは一番左の「熱めの湯」へ行ってみることにした。少し道幅の狭くなった道をさらに上っていくと、進んでいくにつれてなんだか少しずつ、周りの気温が低くなっていくような感じがした。急に天気が変わって、冷たい風が吹いたり雨が降ったりしたわけでもないのに、一体どうしたわけなのだろう、と思いながらさらに歩いていくと──

「おい、見ろよイノ!」

 シシゾーが指さしたその先には、青々とした湖が静かに水をたたえていて、けれどもその湖の端の方だけなぜか石垣のようなもので区切られている部分があった。そして、区切られているその部分だけが、不思議なことに白っぽく濁った色をしていて、その水面からはほわほわと温かそうな湯気が絶え間なく湧き上がっていた。

 さらに信じられないことに、湖の上には大きな滝が堂々たる姿で流れ落ちていたのだったが──その滝は、湖に注ぎ込むギリギリのところで、完全に凍り付いてしまっていた。しかもその滝の周辺一帯、見事に雪に覆われていたのだった。

「な、何これ!?」

 思わぬ青と白のコントラストにすっかり目を奪われた僕らは、この不思議な光景の名前が『万年雪の谷』と名付けられていることをそばにあった立て看板で知った。その看板には、このような説明が書かれていた。

『この秘境において、一年中雪が溶けずに残っている〝イモガラ珍百景〟の一つに数えられる名勝であります』

 なんと、〝イモガラ珍百景〟などという名所が存在していたとは! まだまだ僕も勉強が足りないなあ、と感心していると、おーい、お前も早く来いよー、とシシゾーが後ろから僕を呼んだ。

「早く早く、お前も一緒に入ろうぜ! うっひゃー気持ちいい!」

 見れば、いつの間にかすっかり服を脱いだシシゾーが、ほわほわと湯気の立つ湖の温泉の部分に浸かってくつろいでいるではないか。

「えっ、ああ……うん」

 思わず僕は口ごもった。そうか。温泉、だった。

 温泉=服を脱いで入る=裸になる。当たり前である。でも……僕は今までこの〝当たり前〟なことが、ずっとなかなかできずにこれまで生きてきたのだった。

 何故ならば。そう、そうなのだ。僕は、いつも服のその下に身につけているイノシシの毛皮をほかの誰かの前で脱いだことがなかったのだ!

 以前、この〝秘境の温泉〟がテレビで紹介されていたのを、いつもお世話になっているキノコ町の巡査・イノガタさんの家で一緒に見た時、僕が何気なく発した言葉によってその場の空気が凍り付いたことがあった。


「……あれ? 皆、服を着たままじゃないか」


 着ている、も何も、イノシシは普通イノシシの毛皮を生まれながらに身につけているものだというのに、僕にとってはそれは生まれながらのものではなかったのだ。僕は小さい頃から、イノシシの毛皮を〝身につける〟ことによって、〝イノシシ〟であり続けようとしてきたのだから。

 けれど、つい数か月前、とある出来事がきっかけで、僕はその呪縛からようやく一歩だけ前進することができた。皆の前で、頭の部分だけは脱いでみせたのだ。それはもう、僕にとっては大変に勇気のいる行動だったけれど、意外にも皆は受け入れてくれたようだった。

 ……が! 全身、というのはいまだ未経験、であった。すなわち僕は、人前でプールどころか温泉にも入ったことがなかったのだ!

「おーい、早く来いよぉー。オレ、あったまり過ぎてふやけちゃうぜー」

 待ちくたびれたシシゾーがちょっと怖いことを言い始めたので、あまりにも長くその場に立ち尽くして躊躇していた僕だったが、ようやく意を決して行動に出ることにした。

「……あ、あのさ、こっち見るなよ! 脱いでる時」

「おう! 分かった」

 そう言ってシシゾーは、くるりと背中を向けた。今のうちに! と僕は、大急ぎで付け牙を外し、服を脱ぎ、さらに毛皮を脱ぎ……ま、まだだよ、まだだからね! と叫びながらめちゃくちゃにかけ湯をしまくった。いきなり触れたそのお湯は、思っていたよりも結構熱かったけど、それには構う余裕もなく、勢いよくザバン! と温泉に足から飛び込んだ。

「お、お、お待たせぇ!」

 変にひっくり返ったような声が出てしまった。その拍子にシシゾーがこちらにバッと振り返り……晴れてお湯に浸かることのできた僕の姿を見て、心から嬉しそうに笑った。

「イノぉ……ハハッ、やっと一緒に温泉に入れたぜ!」

 やったー! と大きくバンザイしたかと思うと、シシゾーはいきなり僕にザバザバとお湯をかけ始めた。わ、やったなコイツ、と僕もごく自然にやり返して、お互いずぶ濡れになったところで同時に大笑いしてしまった。

「はぁ……楽しー!!」

 シシゾーの絶叫が、暗くなり始めてきた辺りの景色にこだました。温泉の成分がじんわりと身体にしみわたってきて、僕もどんどんいい気分になっていった。

「シシゾー、いい湯だね」

「おう! しかも景色はサイコー」

 すっかり上機嫌のシシゾーが、ふと何かを口ずさみ始めた。


 そらーたかくー 

 まいーあがるー

 ラララー ラー ララー


 おっ、オリジナルソングかな? と僕は期待しながら続きに耳を傾けた。

 けれども、その続きが一向に出てこなかった。

「……?」

 もしかしてこれは、勢いで歌い始めたけど続きを全然考えてなかった、ってパターンかな? と思っていたら、


 ラララー ……………

 ……………     


 ……………  キノコ~♪


 と、唐突に歌は強制終了され、その後は何の意味もない、フフン フン フフーン フフーン……と、延々とハミングを繰り返し続けた。僕も、歌っていたシシゾーも、あまりのバカバカしさに大笑いしながら、キノコー キノコー♪としばらくの間、愉快に歌い続けて温泉を楽しんだのだった。


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