七
そこは、ただ闇が広がるばかりの空間。
灯りはない。暗くてハッキリしないが、おそらく物もない。どころか地もなければ、天もないのか、上下の区別すらつかない。
そんな暗闇の中に文字が浮かぶ。
声が響くわけではない。映像が浮かぶわけでもない。ただ、無簡素な文字のみが浮かぶ。
『諸君は皆、儂と同年代だ。郭嘉一人がとび抜けて若かった。天下泰平の暁には、後事を彼に託すつもりだったのに……』
その文字を読み取った少年は、心臓を掴まれたような心地を覚えた。直後、浮かんだ文字諸共、暗闇が吹き飛んだ。
「かはっ!」
水中からもがき出たかのような呼気を曹沖は吐く。
跳ね起きるように半身を起こした。二度三度、荒く呼吸をし、ようやく気息が整ったのか、どこか青白い顔で辺りを見回す。その額には大粒の汗が浮かんでいた。
「夢……?」
曹沖は怯えの滲み出た声音を出す。
日が昇りきっていないのだろう。まだ薄暗い部屋の中、曹沖は難しい顔で今見た夢の内容を反芻する。
余りに印象深かったためか、目が覚めてからも夢の内容は鮮明に思い起こされた。
「どうして、あんな夢を……?」
まさか、という思いが頭をつく。稀に自身の身に起こる不思議ではないのか、と。
「違う……ちがう、ちがう、ちがう、ちがう。そんなわけ……ない」
辺りが明るくなって侍女が部屋にやってくるまで、曹沖は寝台の上で震え続けた。
ここは許昌にある曹家の邸。その邸で働く侍女たちはどうしたものかと、思案に暮れていた。
というのも、現在この邸に滞在している曹操の息子の一人である曹沖が、常と異なり暗い顔立ちをしていたからだ。
許昌の邸の侍女たちは、普段曹沖たちが暮らす鄴の侍女たち――鈴玉たちのように長く傍仕えしてきた侍女ではなかったが、それでも曹沖の様子がおかしいのが容易に察せられるほど、今朝から曹沖の顔色は優れない。
――体調が悪いのだろうか? そう思い尋ねても、曹沖は否定する。そこに嘘は感じられなかった。
なら、何か不快なことでもあったのか? とも思うが、それもとんと心当たりがない。
一体どうなされたのかと、侍女たちは心配げに曹沖を見詰めるばかりである。
曹沖は曹沖で、自身を案じる侍女たちの視線に気付いてはいたが、空元気を装う余裕もない程の不安に苛まれていた。
そうして、俯き思案に暮れていたが、バタバタ! という荒い足音が近づいてきたので、ふと顔を持ち上げる。直後――
「倉舒!」
と、曹沖の名を強く呼ぶ声が響く。その声と同時に、声の主が姿を現した。
「朱虎兄上……どうなされたのですか?」
姿を現したのは、曹沖の一つ年上の腹違いの兄弟、曹彪であった。
「どうしたもこうしたもない! 鄴からの使者が、帝のおわす宮殿にすっ飛んで行ったらしいぞ! どうやら、北の遠征軍からの報せが鄴に入り、その情報を、鄴から許都へと早馬で送って来たらしい!」
曹沖は目を見開く。
「その情報とは!?」
「まだ分からん! 分からんが、下らぬ情報をわざわざ帝のお耳に入れたりはせんだろう! ならきっと……!」
曹彪は興奮したように言い募る。その声音からは、その報せが吉報であると信じ切っているような節が見受けられた。
対照的に、曹沖は体が震え出しそうになるのを必死に押し留めている。心中は、嫌な予感で埋め尽くされていた。
興奮していた曹彪だが、それでも曹沖の様子がおかしいことに気付く。
「どうした、浮かない顔をして?」
「いえ……」
「何だ、何だ、心配性な奴だな! そんなに不安そうにせずとも、きっと戦勝の報せに違いない! そんな怯えた顔をするな!」
「そう……だと良いのですが……」
曹彪は励ますように曹沖の肩を叩く。
「じき、この邸にも報せが届くだろう。勿論、戦勝の報せがな! 倉舒、今夜は宴会だぞ! 美味い飯をたらふく食える!」
そんな曹彪の言葉に、ようやく曹沖はぎこちない笑みを見せる。
「それは、楽しみですね」
「ああ、楽しみだ! 早く報せは来ないものか!」
やがて、使者が邸へとやって来たのは、兄弟の会話から数刻後、もうじき日も暮れようという時間帯であった。
使者を出迎えたのは、曹沖と曹彪にもう一人、二人の兄である曹植である。歌会の時分には体調を崩していた曹植であったが、それももう既に快癒していた。
曹植が代表して、簡単に使者を労う言葉を口にすると、早速報せの中身を問い質す。
「それで、遠征軍からの報せとは、どのようなものか?」
「はっ! 遠征軍は北方奥深くまで進軍し、白狼山にて烏丸族と会敵! これを散々に打ち破り壊滅的打撃を加え、かつ、北夷どもの単于(北方遊牧民の君主号)を称する蹋頓を捕縛、斬首した由に御座います!」
「おお! 大勝ではないか!」
曹植は喜びの声を上げる。
「して、袁尚らはどうなったか?」
曹植の更なる問い掛けに、使者は幾分声を落とす。
「はっ。残念ながら、取り逃したようです。袁兄弟はまたも落ち延びていったようで……」
「そうか……。それは残念だ。されど、あの兄弟がどこに逃げ込む積りか知らんが、最早どうあがいても滅びの運命からは逃れられんよ。少しばかり、寿命が延びただけに過ぎんだろうさ」
そう言って、曹植は満足げに頷く。すると、その傍に控えていた曹沖が進み出る。
「戦勝は喜ばしいことですが、遠征軍の被害はいかばかりであったのでしょう? それから、誰ぞ高名な将が斃れたりすることはなかったでしょうか?」
「そ、それは……」
この曹沖の問い掛けに、使者は袁兄弟のことを聞かれた時にも見せなかった動揺を見せる。
「何がありましたか?」
「……強行軍のために、軍に少なくない被害が出たと。それと……」
「それと?」
使者は一瞬押し黙るも、焦った様な早口で続きを語る。
「わ、私がまだ鄴にいた時には、遠征軍は未だ帰還の真っ最中でした。ですので、詳細な情報ではありません。そも、遠方からの報せというものは、途中で誇張されがちで、正確さに欠けます。例えば、軽い熱病で一晩寝込んだのが、不治の病などと伝わったり……『どのような情報が届いたのです?』」
曹沖が彼らしからぬ厳しい声音で割り込む。使者はごくりと唾を飲み込んだ。
「答えて下さい」
「……恐らくは誤報の類であるとは思うのですが、実は――」
使者の続く言葉に、曹沖は目を見開いた。
「倉舒! 落ち着け!」
曹彪は怒声を上げながら、彼の弟を押し留める。
「離してください、兄上! すぐに鄴に戻らないと!」
曹沖は完全に冷静さを失っていた。それは使者がもたらした報せが原因であった。
――郭奉孝、戦地で病を患い危篤。
それを聞くや、曹沖はすぐに行動に移った。荷物をまとめて、許昌の邸を飛び出していこうとしたのだ。
「馬鹿を言うな! もう陽も完全に落ちてしまっている! こんな夜間に出立する奴があるか!」
「……今日は雲一つない夜です。見て下さい、星も明るい。これなら……」
そう言い募りながら、曹沖は天を仰ぎ見る。
その瞬間、曹沖は見た。雲一つない夜空、無数に輝く星々の一つが一際強く瞬いたかと思うと、尾を引きながら夜空を切り裂いていくのを。
そう、許昌にいる彼にはただ、それを見上げるしかできなかったのだ。