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 そこは、ただ闇が広がるばかりの空間。

 灯りはない。暗くてハッキリしないが、おそらく物もない。どころか地もなければ、天もないのか、上下の区別すらつかない。


 そんな暗闇の中に文字が浮かぶ。

 声が響くわけではない。映像が浮かぶわけでもない。ただ、無簡素な文字のみが浮かぶ。


『諸君は皆、儂と同年代だ。郭嘉一人がとび抜けて若かった。天下泰平の暁には、後事を彼に託すつもりだったのに……』


 その文字を読み取った少年は、心臓を掴まれたような心地を覚えた。直後、浮かんだ文字諸共、暗闇が吹き飛んだ。



「かはっ!」


 水中からもがき出たかのような呼気を曹沖は吐く。

 跳ね起きるように半身を起こした。二度三度、荒く呼吸をし、ようやく気息が整ったのか、どこか青白い顔で辺りを見回す。その額には大粒の汗が浮かんでいた。


「夢……?」


 曹沖は怯えの滲み出た声音を出す。


 日が昇りきっていないのだろう。まだ薄暗い部屋の中、曹沖は難しい顔で今見た夢の内容を反芻する。

 余りに印象深かったためか、目が覚めてからも夢の内容は鮮明に思い起こされた。


「どうして、あんな夢を……?」


 まさか、という思いが頭をつく。稀に自身の身に起こる不思議ではないのか、と。


「違う……ちがう、ちがう、ちがう、ちがう。そんなわけ……ない」


 辺りが明るくなって侍女が部屋にやってくるまで、曹沖は寝台の上で震え続けた。




 ここは許昌にある曹家の邸。その邸で働く侍女たちはどうしたものかと、思案に暮れていた。

 というのも、現在この邸に滞在している曹操の息子の一人である曹沖が、常と異なり暗い顔立ちをしていたからだ。


 許昌の邸の侍女たちは、普段曹沖たちが暮らす鄴の侍女たち――鈴玉たちのように長く傍仕えしてきた侍女ではなかったが、それでも曹沖の様子がおかしいのが容易に察せられるほど、今朝から曹沖の顔色は優れない。


 ――体調が悪いのだろうか? そう思い尋ねても、曹沖は否定する。そこに嘘は感じられなかった。

 なら、何か不快なことでもあったのか? とも思うが、それもとんと心当たりがない。


 一体どうなされたのかと、侍女たちは心配げに曹沖を見詰めるばかりである。


 曹沖は曹沖で、自身を案じる侍女たちの視線に気付いてはいたが、空元気を装う余裕もない程の不安に苛まれていた。

 そうして、俯き思案に暮れていたが、バタバタ! という荒い足音が近づいてきたので、ふと顔を持ち上げる。直後――


「倉舒!」


 と、曹沖の名を強く呼ぶ声が響く。その声と同時に、声の主が姿を現した。


「朱虎兄上……どうなされたのですか?」


 姿を現したのは、曹沖の一つ年上の腹違いの兄弟、曹彪であった。


「どうしたもこうしたもない! 鄴からの使者が、帝のおわす宮殿にすっ飛んで行ったらしいぞ! どうやら、北の遠征軍からの報せが鄴に入り、その情報を、鄴から許都へと早馬で送って来たらしい!」


 曹沖は目を見開く。


「その情報とは!?」

「まだ分からん! 分からんが、下らぬ情報をわざわざ帝のお耳に入れたりはせんだろう! ならきっと……!」


 曹彪は興奮したように言い募る。その声音からは、その報せが吉報であると信じ切っているような節が見受けられた。

 対照的に、曹沖は体が震え出しそうになるのを必死に押し留めている。心中は、嫌な予感で埋め尽くされていた。


 興奮していた曹彪だが、それでも曹沖の様子がおかしいことに気付く。


「どうした、浮かない顔をして?」

「いえ……」

「何だ、何だ、心配性な奴だな! そんなに不安そうにせずとも、きっと戦勝の報せに違いない! そんな怯えた顔をするな!」

「そう……だと良いのですが……」


 曹彪は励ますように曹沖の肩を叩く。


「じき、この邸にも報せが届くだろう。勿論、戦勝の報せがな! 倉舒、今夜は宴会だぞ! 美味い飯をたらふく食える!」


 そんな曹彪の言葉に、ようやく曹沖はぎこちない笑みを見せる。


「それは、楽しみですね」

「ああ、楽しみだ! 早く報せは来ないものか!」



 やがて、使者が邸へとやって来たのは、兄弟の会話から数刻後、もうじき日も暮れようという時間帯であった。


 使者を出迎えたのは、曹沖と曹彪にもう一人、二人の兄である曹植である。歌会の時分には体調を崩していた曹植であったが、それももう既に快癒していた。


 曹植が代表して、簡単に使者を労う言葉を口にすると、早速報せの中身を問い質す。


「それで、遠征軍からの報せとは、どのようなものか?」

「はっ! 遠征軍は北方奥深くまで進軍し、白狼山にて烏丸族と会敵! これを散々に打ち破り壊滅的打撃を加え、かつ、北夷どもの単于(北方遊牧民の君主号)を称する蹋頓を捕縛、斬首した由に御座います!」

「おお! 大勝ではないか!」


 曹植は喜びの声を上げる。


「して、袁尚らはどうなったか?」


 曹植の更なる問い掛けに、使者は幾分声を落とす。


「はっ。残念ながら、取り逃したようです。袁兄弟はまたも落ち延びていったようで……」

「そうか……。それは残念だ。されど、あの兄弟がどこに逃げ込む積りか知らんが、最早どうあがいても滅びの運命からは逃れられんよ。少しばかり、寿命が延びただけに過ぎんだろうさ」

 

 そう言って、曹植は満足げに頷く。すると、その傍に控えていた曹沖が進み出る。


「戦勝は喜ばしいことですが、遠征軍の被害はいかばかりであったのでしょう? それから、誰ぞ高名な将が斃れたりすることはなかったでしょうか?」

「そ、それは……」


 この曹沖の問い掛けに、使者は袁兄弟のことを聞かれた時にも見せなかった動揺を見せる。


「何がありましたか?」

「……強行軍のために、軍に少なくない被害が出たと。それと……」

「それと?」


 使者は一瞬押し黙るも、焦った様な早口で続きを語る。


「わ、私がまだ鄴にいた時には、遠征軍は未だ帰還の真っ最中でした。ですので、詳細な情報ではありません。そも、遠方からの報せというものは、途中で誇張されがちで、正確さに欠けます。例えば、軽い熱病で一晩寝込んだのが、不治の病などと伝わったり……『どのような情報が届いたのです?』」


 曹沖が彼らしからぬ厳しい声音で割り込む。使者はごくりと唾を飲み込んだ。


「答えて下さい」

「……恐らくは誤報の類であるとは思うのですが、実は――」


 使者の続く言葉に、曹沖は目を見開いた。




「倉舒! 落ち着け!」


 曹彪は怒声を上げながら、彼の弟を押し留める。


「離してください、兄上! すぐに鄴に戻らないと!」


 曹沖は完全に冷静さを失っていた。それは使者がもたらした報せが原因であった。

 ――郭奉孝、戦地で病を患い危篤。


 それを聞くや、曹沖はすぐに行動に移った。荷物をまとめて、許昌の邸を飛び出していこうとしたのだ。


「馬鹿を言うな! もう陽も完全に落ちてしまっている! こんな夜間に出立する奴があるか!」

「……今日は雲一つない夜です。見て下さい、星も明るい。これなら……」


 そう言い募りながら、曹沖は天を仰ぎ見る。

 その瞬間、曹沖は見た。雲一つない夜空、無数に輝く星々の一つが一際強く瞬いたかと思うと、尾を引きながら夜空を切り裂いていくのを。


 そう、許昌にいる彼にはただ、それを見上げるしかできなかったのだ。


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