六
先日からの長雨により街道は泥濘と化していた。
烏丸族の兵士らはこれ幸いと喜んだ。この泥濘の中では、曹操軍とて進軍は困難だろう。
仮に、無理を押して進軍を続けようとも如何ほどの時を要するか? 相当な時間がかかることは想像に難くなく、十分に迎撃の準備を整えられる。
そう考えた烏丸族の将兵らは戦準備に取り掛かりつつ、念の為にと斥候を放つ。
すると、その斥候がまた喜ばしい知らせをもたらした。
曰く『曹操軍は街道に立札を立てた。その内容は、長雨により街道が通行不能となったので一時撤退する。秋冬になるまで進軍を取り止めるとあった』と。
これを聞いた烏丸族の指導者らは、さもありなん。これで一先ず脅威は去った、と胸を撫で下ろし、曹操軍の立札を信じ切った。
が、それは曹操軍の仕掛けた罠であった。
後退するかと見せかけて、その実、軽騎兵に昼夜問わず抜け道を駆けさせた。
雨の中の強行軍に次ぐ強行軍。精強な曹操軍とはいえ、一人また一人と、櫛の歯がこぼれ落ちるかの如く落伍するものが続出した。
それでも秋に入る頃には、ついに烏丸族の拠点である柳城まで二百里と迫る。
烏丸族の将兵らは、ここで初めて曹操軍の接近に気付き驚嘆した。慌てて数万からなる兵を動かしたが、甚だ準備不足の上、動揺した兵らの士気は限りなく低かった。
そんな最中、曹操軍と烏丸族は白狼山にて会敵することとなったのである。
鎧を身に纏った曹操は、眼前で膝をつく男に旗を手渡しながら告げる。
「文遠、そなたに先鋒を命ず。蛮族どもを散々に蹴散らしてこい」
「御意」
文遠と呼ばれた男は言葉短く拝命すると、恭しく旗を受け取る。さっと立ち上がると踵を返し、曹操軍の先頭で待つ彼の部隊の下へ戻る。
そうして、側近の一人に旗を預けると、自らは颯爽と白馬に跨った。直後、乗騎を駆けさせる。
「兵士らよ、続け!」
男の命令に、兵らの蛮声が応えた。
天まで届けと上がる雄叫びに、一斉に駆けだした騎兵隊の馬蹄の音が重なり、地を揺るがさんばかりであった。
迎え撃つ烏丸族の前衛は一斉に槍を構えて待ち受けるが、曹操軍先鋒部隊は小細工など無用とばかりに、飛ぶ矢のように真正面から突入する。余りの迫力に及び腰になる烏丸族前衛に真っ直ぐ突き刺さった。
槍で刺し、剣を叩き付け、馬蹄にかける。
瞬く間に、敵前衛部隊を蹴散らしていく曹操軍の精鋭たち。揃いも揃って勇猛な戦いぶりであったが、わけても、彼らを率いる武将の戦いぶりには冠たるものがあった。
金のおもがいで飾った白馬に跨り疾駆するその雄姿。
良弓に背負う矢筒から次々に矢を番えると、馬を走らせながら放っていく。
弦を振り絞っては、左から勇敢にも立ち向かってくる敵兵の目を射抜き、右に放っては、兵らに激を飛ばす敵小隊長の眉間を射抜く。
正に百発百中。馬上弓の絶技をこれでもかと見せつける。
彼の勇名を知らぬ北方異民族である烏丸族の兵士らは口々に『あの化け物は何だ!』と叫ぶ。
袁兄弟に付き従い、ここまで落ち延びて来ていた漢人の兵らは『遼来遼来!(張遼が来たぞ!)』と叫ぶ。
また、彼の勇将に率いられた兵卒らは誇らしげに、蛮族どもにもその名を知らしめようと言い募る。――『このお方こそ、幽并出身の遊侠児にして、天下に勇名を轟かす張文遠将軍だ!』と。
曹操軍が誇る名将の一人、張遼は常と同じく、いや、常以上の奮戦ぶりを見せる。一歩間違えれば、蛮勇になりかねないほどに。
まるでその身を、敵兵の槍や剣の前に棄てるかの如く突き進む。
「張将軍! 突出しすぎでは!?」
流石に側近の一人が見かねて警告した。が、張遼は彼を一睨みして黙らせると、やはり最前線を駆ける。駆けながら敵兵を斃し、また味方の兵に激を飛ばす。――『蹴散らせ! 蹴散らせ!』と。焦りすら滲ませる声音で。
「……時が惜しい。急がねば、急がねば」
張遼はふっと後方に視線を飛ばす。
「貴様には文句を言わねばならぬのだ! 貴様の策で、我が部隊からも少なくない兵らが落伍したのだからな! 必ずや殴りつけてやる! だから、だから、まだ死ぬな――!」
張遼の怒りと願いの籠められた悲痛な叫び、その言葉尻を、戦場の怒号がかき消していった。
曹操は小高い山の上から、張遼率いる先鋒部隊が敵前衛を打ち崩す様を見ていた。
「……一息に止めを刺す。虎豹騎を出撃させよ」
「はっ! 子和殿に伝令を飛ばします!」
ここが勝負の決め所と、曹操は虎の子の切り札、自らの親衛隊でもある最精兵、虎豹騎の投入を決断する。
すぐさま命令は伝達された。張遼が散々に蹴散らした敵前衛線を抜けて、虎豹騎は敵本隊をかぶりつくように補足すると、猛獣が獲物を食い散らかすかの如く蹂躙する。
最早勝敗は誰の目にも明らかであった。
であるのに、曹操の顔色は優れない。その表情には、焦燥の色がありありと浮かんでいた。
建安十二年(西暦207年)秋、曹操軍は烏丸族との会戦に大勝する。史に白狼山の戦いと記されることとなる。