四
朝起きる。衣を着替えてる最中、曹沖は痛いくらいに視線を感じていた。
朝餉を摂るために廊下を歩く。微かな息遣いが容易に聞こえるほど、曹沖の真後ろにぴったりと付いてくる者がある。やはり、痛いくらいに視線を感じた。
朝餉を食べている最中……痛いくらいに視線を感じる。しかも増えた。
「……鈴玉、璃璃、そんなにじっと見ないで下さい」
曹沖は溜息を零す。
「御言葉ですが、また抜け出されては困りますので」
鈴玉、彼女が主人である曹沖に掛ける言葉は、常にない冷ややかな声音であった。
「この前のお忍びのことなら、事前に奉孝殿がお話を付けて下さって……」
「私共は聞いておりませんでした。……事前に聞いていたのなら、絶対にお止めしましたのに」
鈴玉が口惜しそうに言う。曹沖は黙り込むより他に手はなかった。
前回、郭嘉が企画したお忍びだが、郭嘉は確かに事前に通達していた。
その相手は、曹沖の身の回りの世話をする侍女らを取り仕切っている孝卿――つまり、鈴玉たちの上司に当たる人物である。
最初は難色を示した孝卿であったが、いつのまにか郭嘉の話術に乗せられて、本人もよく分からない内に頷いてしまっていた。
そうして彼は苦悩することになった。侍女らに何と説明したものか、と。
侍女たちの曹沖への可愛がりようは相当なものがある。
まるで自分の子であるかのように慈しむのだ。
さて、曹沖が護衛も引き連れず、不良軍師と名高い郭嘉と二人っきりで市中を忍び歩きすると聞けば、彼女らはどのような反応を見せるだろうか?
……猛反発するであろうことは、想像に難くなかった。そしてそんな彼女らを説き伏せる自信が、孝卿にはなかったのだ。
かといって、自分より遥かに高官である郭嘉に一度は了承してしまったことを反故にすることもできない。
結局孝卿は、忍び歩き当日まで侍女らにそのことを告げることができなかったのである。
その惰弱な振る舞いの代償は大きくついた。
いざ、曹沖が姿をくらませると、侍女たちは皆恐慌を来した。
そんな彼女たちに、孝卿が恐る恐る忍び歩きのことを伝えれば、それはまあ、とんでもない怒号が沸き起こった。
ある侍女は怒りを露わにし、孝卿を詰る。ある侍女は涙を流して、曹沖の身を案じる声を上げる。ある侍女は……と、それらの声に圧倒されながら孝卿は固く心に誓った。
――二度と、郭嘉の無茶な頼みは聞くまい、と。
とまあ、局地的な嵐が吹き荒れて以来、鈴玉たちはぴったりと曹沖の傍に付いて離れないのであった。
「鈴玉、もうじき朱虎兄上が来られるのだから、そのような態度だと、何事かと訝しがられてしまうよ」
「それは……仰る通りですが……」
「ね? もう侍女の皆を困らせるような真似はしないから。許してくれないかしら?」
曹沖は鈴玉の顔を見上げながら小首を傾げる。それを見て鈴玉は、はあ、と観念したかのように溜息を吐いた。
もとより、曹沖に甘い鈴玉であったから、いつまでも彼に対する怒りを継続するのも困難なのであった。
「……今回限りですよ。もう一度同じことをなさるようなら、厠の中まで我々は付いていきますからね!」
鈴玉の言いように曹沖は首を竦めてみせる。と、同時に部屋に新たに入って来る人物がいた。
「厠がどうしたって?」
「あっ! 朱虎兄上!」
「よう、倉舒。で、厠がどうしたんだ?」
現れたのは曹操の七男、曹沖の一つ年上の異母兄である曹彪であった。
「えーと、別に何でもありませんよ」
曹沖は苦笑する。鈴玉はというと、真っ赤にした顔を持ち上げられないでいた。
「んー? そうかあ?」
訝し気な表情を浮かべるも、それほど気にもしていなかったのだろうか? 曹彪は一つ頭を掻くと『まあ、いいか』と追及を止める。
そうしてどっかりと腰を下ろした。
曹沖と曹彪、互いに座った状態になったのだが、それでも尚、曹彪の方が頭一つ分、いや一つ半は大きい。
年は一つしか変わらないのだが、曹彪は同年代の中でもかなり体格が良い方なので、二人が並ぶと三つくらい年の離れた兄弟のように見える。
「まだ朝餉の最中だったか。ちと、早く来すぎたかな?」
「ああ、お気になさらず。すぐに済ませてしまいます」
「うん」
残っている量は大したものではない。曹沖は兄を待たせないようにと、素早く残りを平らげてしまう。
その直後、計ったかのような間の良さで、年嵩の侍女――璃璃が二人分の茶を運んでくる。
「それで、お話とは何ですか、兄上?」
一口、茶に口を付けてから、曹沖は兄に水を向ける。
「ああ。話というのは、今度許都で開かれる歌会のことだ」
「なるほど、そのことでしたか」
曹沖は一つ頷く。
歌会というのは、列席者たちが漢詩を作り詠み上げる会のことで、文学の促進に力を入れている曹操が、度々本拠である鄴で開いているものであった。
今回は、鄴ではなく、かつての本拠であり、今も尚天子――献帝のいる重要都市、許昌で開催されることとなっていた。
もっとも、曹操は急遽北に遠征に出てしまったので、今回は参加しない。
代わりに主催側で参加するのは、建安七子と称される曹操ご自慢の文学者たちに、曹操の名代として、曹操の子が三人出席することとなっていた。
その三人というのが、詩文の天才曹植に、曹沖と曹彪であった。
「それで? 歌会に何か問題がありましたか?」
「問題というか何というか……。どうも落ち着かなくてな。そういう場に出るのは初めてのことだし。どうして俺が選ばれるかなあ」
「ぼくだって初めてですよ。それに、人選は仕方ありません。何せ、子桓兄上に子文兄上まで、北の遠征に従軍されたのですから」
「まあ、子文兄上は、従軍してなくても人選から真っ先に外されただろうけど、な」
曹彪はさらりと酷いことを言ってのける。
ただ、これには曹沖も異論がないのか、特に反応もしない。もし仮に、本人がここにいても、何も言わなかったろう。
子文――曹操の四男曹彰には、曹家の兄弟たちの中で例外的に文学的素養が欠落していた。それも絶望的なまでに。
何せ、曹彰という男は、幼少時代から『俺は将軍になるんだぁぁああ!!』と武術、馬術にばかりのめり込むような人物であった。
それを見かねた曹操が『立派な将軍になるには勉強もしなくてはならん!』と窘めても、どこ吹く風、一向に勉学に見向きもしなかったほどである。
何気なく兄を扱き下ろすと、無言になり難しい顔で腕を組む曹彪に、曹沖は軽い調子で声をかける。
「さして気に病む必要もないのでは? ぼくたちなど、所詮はおまけでしょう。何せ、子建兄上がいらっしゃるのだから」
「そうかあ?」
「そうですとも! 多少ぼくたちが粗相をしても、子建兄上なら容易く挽回して下さりまよ!」
嘘ではなかった。子建――曹植は類まれなる詩文の天才で、こと詩文に限れば、神童と謳われる曹沖ですら逆立ちしても敵わないほどである。
「そう……か。そうだな! 子建兄上が何とかして下さるよな!」
「はい! 子建兄上は、ぼくたちの頼みの綱となって下さるでしょう! ちょっとやそっとのことでは、切れぬほど丈夫な綱です!」
不安がる曹彪を勇気付けるため、曹沖は大袈裟な物言いをする。
これに気を良くしたのか、憂い顔をすっかり明るいものへと変えた曹彪はすくっと立ち上がる。
「よし! では早速、子建兄上の所に行ってくる!」
「はい? ああ……、当日助けてもらえるようお願いをしに行くのですね?」
「うん? それもあるが……当日詠み上げる詩を用意してもらおうと思ってな!」
「は?」
「何だ、聞いてないのか、倉舒? 歌会のお題は事前に決まっているんだぞ。なら、事前に用意してもらうことが出来るじゃないか! では、俺はいく! 相談に乗ってもらって助かったぞ、倉舒!」
「あっ……」
風のように去っていく曹彪の背に手を伸ばしたまま固まる曹沖。
数瞬の後、『まあ、聡明な子建兄上なら良いようにして下さるだろう』と、考えを放棄することにしたのだった。
長くなったので二分割。次話がメインです。