三
曹沖と郭嘉が他愛無い会話を交わすこと数分余り。
ようやく、曹沖も常の平静さを取り戻しつつあった。それを見て取った郭嘉は『そろそろ帰りましょうか』と促す。
それで二人連れ立って帰途に付き始めた。
「今日はとても勉強になりました。また市井を案内して下さいますか?」
「ええ。俺などでよろしければ」
曹沖はふふっ、と笑う。
「そもそも、こんな風にぼくを連れ出すのは奉孝殿しかいませんよ」
「やもしれませんね」
郭嘉もふっと笑う。
曹沖の将来性は、曹家の臣下らの誰もが認めるところ。故に、この少年に『良い』ものを遺そうと、機会があれば時間を惜しまず教鞭を取る者も少なくない。
が、『良い』ことだけでなく、いわゆる『悪い』ことも教える者は郭嘉を置いて他にいなかった。
というのも、彼は曹軍内には珍しく、素行不良を度々咎められるような不良軍師であったので。
むしろ、無断で抜け出すような真似を、彼以外に誰が教えるというのだろう。
「次のお忍びが楽しみです」
「お忍びでは二人して叱られてしまうので、名目上は市中の視察、ですね。そも、実は今日のこれも視察という名目なのです。倉舒様の近習を取りまとめる孝卿殿には事前にご説明していたのですよ」
「えっ!?」
曹沖は驚きの声を上げる。
無断で抜け出してくるという、彼にとっての大冒険をしたと本気で思っていたので。
しかし、その気分だけ味合わせて上げて、実際には後で問題にはならないようにと、郭嘉は配慮していたのであった。
「う~、奉孝殿には敵いませんね」
全てを察して、悔し気に唸り声を上げる曹沖に、郭嘉は大笑して見せる。
「ははっ! ……いや、すみません。しかし、倉舒様を無断で連れ出したとあっては、普段の素行の悪さを苦笑して見逃して下さる曹公も、流石に許しては下さらないでしょう」
「父上はその程度のことで目くじらを立てられないと思うけど……」
「かもしれません。ですが、俺の同僚たちは怒り狂うでしょうね。何せ、倉舒様は皆に愛されておいでだから」
「そうですか?」
「そうですとも!」
曹沖は曖昧な表情を浮かべる。
皆から愛されるのは嬉しいが、それが為に過保護にされるのは嬉しくない。彼とて男の子なので、まるで姫のような扱いをされては、少々面白くない。
「面白くありませんか?」
「少し……」
「もう暫くの辛抱ですよ。大きくなられたら、沢山のお役目を曹公から賜るでしょうから。ええ、嫌というほどね! 公は、有能な人間をよく重用する。しかし、これは言い換えれば、有能な人間に対する人使いが荒いとも言えますからなあ!」
「もう、奉孝殿……」
郭嘉の大胆な発言に、曹沖は呆れたように苦笑する。
「そんなことを言っては、また叱られてしまいますよ」
「大丈夫です。倉舒様は告げ口なんてなされないでしょう?」
「そりゃそうだけど……」
「ならいいではないですか。別に嘘を吐いたわけでなし。実際、近々また扱き使われることになるんだから」
その郭嘉の言葉に察するものがあって、曹沖は表情を生真面目なものに改める。
「戦ですか?」
「はい」
郭嘉も真剣な面持ちになる。
「北ですか? それとも南?」
群雄の中でも、頭一つ二つ飛び抜けた曹操には、曹操に対し受け身にならざるを得ない他の群雄と違い、行動の選択権があった。それ故の問いである。
官渡の戦いから七年。以降は曹操の権勢が増すばかりであった。
まず、袁紹は既に没している。後継者を定めていなかった袁家は長男の袁譚と、三男の袁尚とが次期当主の座を巡って対立色を強めた。
曹操は混乱した北の袁家をすぐに攻めることはせず、南の劉表が治める荊州を窺う姿勢を見せた。
だがこれは擬態であった。他ならぬ郭嘉が献策した『隔岸観火の計』に則った行動である。
すぐに北に軍を進めれば、袁兄弟は互いが抱える遺恨を一先ず脇に置いて、協力して曹操と戦いかねない。
しかし、逆に曹操の脅威が当面ないと思えば、心置きなく兄弟争いをするだろう。
その兄弟争いを傍観し、互いが疲弊した所で漁夫の利を狙う。
正に岸を隔てて火を観る計略である。人物鑑定に秀でた郭嘉らしい献策であった。
郭嘉の読み通り、袁兄弟は骨肉の争いを繰り広げ、大いに隙を作ることとなる。ここを曹軍は衝いて、兄弟争いに勝利した三男の袁尚を散々に打ち負かし、袁家の本拠であった鄴を奪取した。
袁尚は幽州にいる袁家次男袁煕を頼り落ち延びたが、袁煕の家臣に裏切られ、袁煕共々更に逃避行を繰り返し、袁家と誼のある烏丸族を頼って遼西まで逃げることになったのである。
こうした経緯により、袁家の勢力をより北方へ押し出し、袁家が抑えていた冀州を平定、また昨年には袁紹の甥である高幹も討伐し、井州をも平定を終えている。
さて、この段になって曹操軍は次に何処を狙うべきか? それは家中でも意見が分かれるところ。
つまり選択肢は二つである。
更に北へと追撃を掛けるのか? あるいは、一度北を叩き袁家の勢力が後退した今、後顧の憂いなく今度こそ南を攻めるのか?
それで曹沖は、郭嘉に次の目標がどちらであるのかを問うたのである。
「北です」
郭嘉は端的に答えを告げる。
「北……。でも、北方深く攻め入るには、後背が気掛かりではないかしら? 荊州牧の下には、渡り鳥の如き男、あの劉玄徳がいるでしょう?」
曹沖は懸念を口にする。
「父上も含め、何名もの群雄の下に身を寄せたかと思えば、すぐに他へ移るような信用ならぬ男ですけど、それが故に歴戦の将です。侮るわけにいかないのでは?」
郭嘉は一つ頷く。
「倉舒様のご懸念は、当然考えて然るべき懸念事項です。しかし、結論から述べれば、今回は問題にならないでしょう」
「何故です?」
「荊州牧の劉表は大人物ではありませんが、自らの分を弁えることの出来る人物です。……自らが劉備を御することができないことを自覚しているでしょう。だから、劉備に大軍を預けるような真似はしますまい」
「なるほど……」
曹沖は感嘆したように呟くと、一つ二つ頷く。郭嘉はくすりと笑う。
「これもやはり経験です。人物鑑定は経験がものを言うのですよ。倉舒様も、経験を積めば自ずと見えてくるでしょう」
本当かしら? と曹沖は心中首を傾げる。経験を積んだからといって、自分が郭嘉のようになれるとは、彼には到底思えなかった。
「焦るな、とは申しません。拙速は、若さ故の特権でもあるのですから。今はうんと失敗もなさるといい。そうして誰もが皆学んでいくのですから」
「分かりました」
素直に頷く曹沖を見て、郭嘉は嬉しく思う。
この素直さと向上心を忘れなければ、きっとこの御子は一角の人物になるに違いあるまい。そう確信したから。
歩くこと暫し、目的地である鄴市内の最奥へと辿り着く。
「さて、名残惜しいですが忍び歩きはこれで終いです。余り長引かせては、苦言を呈されかねない。とっとと、戻りましょう」
「そうですね。今度はちゃんと正面から、ですね」
騙されていたことを少々根に持っていたのか、棘のある返しをする曹沖。
「ええ。今度は正面から、です」
只、もっと痛烈な皮肉も言われ慣れている郭嘉はどこ吹く風であった。
二人連れ立って敷地内に入る。今度は塀を乗り越える様な真似はしない。
途中兵らが二人のことをしげしげと見やったが、既に話は通っているのだろう。二人に黙って礼を取るだけで、誰何の声もない。
そうして曹沖の部屋までもう少しという段になって、郭嘉は足を止める。
「倉舒様、俺はこれで」
「はい。ありがとうございました、奉孝殿。次にお会いできるのはいつになるでしょうか?」
郭嘉は暫し虚空を見詰める。
「……戦の準備で大忙しになるでしょうし、きっとそのまま出陣になるでしょう。恐らくは戦から帰るまでは、お会いする機会はないでしょうね」
「そうですか……。それでは、うんと長いお別れになりますね」
曹沖は残念そうに言う。
「なあに、それ程でもありませんよ。たくさん土産話を持って帰ってきますね」
「ええ」
「それでは暫しのお別れです」
そう言って、郭嘉は踵を返す。
曹沖は黙って遠ざかる背中を見送っていたのだが……、不意に衝動的な想いが湧き起こり、彼の心中を満たしていった。
――奉孝殿を行かせてはいけない!
理屈も何もない。正に衝動、としか言えぬ想い。どこから生じたのかも分からぬ叫び。彼はその不思議について考えを巡らせるよりも先に体が動いていた。
「倉舒様?」
「あっ……」
気付けば、曹沖は郭嘉に駆け寄り、その腕の裾を掴んでいたのだ。
「あの、その……。お気を付けて下さい、奉孝殿」
未だに曹沖の心中では暴れ狂う獣のように、郭嘉を引き留めるべきだという想いが駆け巡るが、彼は結局そのように口にした。
まさか意味もなく、戦地に赴く郭嘉を引き留めることなどできるわけもない。真っ当な考えから、曹沖はそう判断したのだった。
「ありがとうございます」
郭嘉は礼を述べると、今度こそ曹沖の下を去る。
曹沖は何とも言えぬ胸騒ぎを覚えながらも、自らの部屋に戻っていった。
この時、郭嘉を引き留めなかったことを、曹沖は終生後悔することとなる。