二
「わあ……」
まだ声変わりしていない高い声が雑踏の喧噪の中に消える。
鄴市内の市場には、朝から大勢の人がごった返していた。その中を曹沖は前を行く男に先導されながら進む。
曹沖はこれまでにも市内に繰り出したことはあったが、それは今回のようなお忍びではなかった。
なので、周囲を固める護衛に隔てられた先に市民がいた。それがどうだ! 今は、すれ違う市民の肩と自分の肩がぶつかりそうなくらいだ。
「如何です、倉舒様?」
「目が回りそうです……っとと」
答えている間にも人とぶつかりそうになってたたらを踏む。その様を見て、先導する男はからからと笑った。
曹沖は少し気恥ずかしそうに頬を染める。
「いや、すみません。いきなり朝市に連れ出すのは尚早だったかな? 少し落ち着ける所に移動しましょう。ですがその前に……」
「その前に?」
「折角朝市に来たのだから、何か一つくらいは買いましょう。そうですね、歩き食いできるものがいいかな?」
「歩き食い!?」
なんとも『悪そうな』響きに、曹沖は目を輝かせる。
男は自然な足取りで屋台の一つに近づいていく。曹沖はおっかなびっくりその後に続いた。
「店主、その美味そうな豚串を俺とこいつに二本ずつ頼む」
「あいよ。お代は五銖銭なら三百枚だ」
店主の言葉に男は露骨に顔を顰める。
「ちと高いな」
「そんなことはないと思うがね」
店主はじろじろと男の身形を見る。
「……あんた、鄴の外から来たのかい?」
「ああ、近くの郷里から所用があってね」
「なら高いと思うのも仕方ないかもしれんが、ここでは大体こんな値だよ」
男は、はあと溜息を吐く。
「やはりそうか……。宿代も驚くくらい高かったしなあ。これでは路銀が尽いちまいそうだ。なあ、店主、物は相談なのだが……」
続く言葉を予想した店主の顔に警戒心がありありと浮かぶ。
「少しばかりまけてくれんか。いや、俺はいいのだが……。ほれ、この子。この子は兄から預かった子なんだがなあ。こんな子供に空腹を我慢しろとは、酷だろう。俺も兄に面目が立たない」
その言葉に店主の視線は、男の背に隠れるように立つ曹沖へと注がれる。
男が予想だにしない値引交渉を始めたこと。自身がその出汁にされたこと。店主からの視線。これらに曹沖はどきまきする。
「あっ、その、ぼくは……」
しどろもどろになる曹沖であったが、店主の目には、その様が厚かましく値切られるよりも、ずっと好意的に映ったのだろうか?
仕方ないなあという風情で、店主は頭をガシガシと掻く。次いで、これとこれとこれとこれ、と豚串を指差していく。
「他より肉が少し小ぶりだが……。それでよければ、小マシな五銖銭なら二百でいい。無文銭や、磨辺銭なんかの私鋳銭の類なら三百、あるいは、これらと等価の穀帛。これが限界だ」
店主の言う五銖銭とは、古くは前漢の武帝の時代に初鋳された銅貨。それ以来ずっと流通している貨幣であった。
無文銭というのは、董卓五銖銭、あるいは、董卓無文小銭のことで、董卓が相国を務めた時に鋳造された悪貨だ。
財政難の時代、銭がないなら造ればいいではないか、と考えなしに造られた銅貨で、既存の五銖銭を削って鋳造し直してと、酷く粗悪化した貨幣であった。
何せ、五銖の文字がほとんど読めないか、全く読めない代物で、それが故に無文銭と呼ばれるほどである。
また、この時代には、同様に質の悪い私鋳銭の類も出回っていた。
これら悪貨の影響で銭の信用は著しく低下し、今では一枚単位での流通などなく、紐で百枚、千枚と束ねての流通が当たり前になっていた。
あるいは、古代に戻ったかの如く、代用貨幣として穀物や布帛(絹などの布)で取引されることも多々あったくらいである。
「すまない。恩に着るよ、店主」
店主の譲歩に、男はほっとしたような笑みを浮かべる。
そうして、じゃらじゃらと紐で束ねた銅貨――文がハッキリと読める。市井では珍しく質の良い五銖銭だ。これを二つ店主に手渡す。
店主は紐に括られた銭をざっと見聞して一つ頷く。
「確かに。ほれ、嬢ちゃんに食わしてやんな」
どうやら店主は、曹沖が女の子だと誤解しているようであった。
きちんと男児用の衣服をまとっているのだが、市井では妹が兄のお下がりの服を着るくらい珍しくもなかったので、容姿と引っ込み思案な様子から誤解されたのであった。
「ありがとう」
男は店主に訂正を入れることなく豚串を受け取る。曹沖に至っては、彼にとって想定外の値引き交渉という行いに圧倒されていたので、訂正どころではなかった。
「ほら、行くぞ、玉葉」
「えっ? あっ、はい……」
すっすっすっと、人ごみを抜けていく男につきながら曹沖は歩く。やっとのことで市場の喧噪から抜け出した。
「倉舒様、どうぞ」
男が先程購入した豚串を二本、曹沖の方に差し出してくる。曹沖はその豚串を見やると、一つ小首を傾げながら口を開く。
「奉孝殿、三本食べられそうですか?」
「三本でも四本でも食べられますが、二本は多いですか?」
奉孝殿と呼ばれた男の問い掛けに、曹沖は頷く。
「朝餉を済ませてきましたから……でも折角なので一本頂きますね」
「ええ、そうなさるといい。さ、どうぞ」
「ありがとう」
豚串を一本受け取ると、曹沖は歩きながら男の顔をちらちらと見上げる。
――本当に歩きながら食べてもいいのかしら? そんな曹沖の心中を見透かして、男は率先して豚串にかぶりついた。
それを見てとり、曹沖はようやく豚串に口を付ける。
「ん……!」
「どうです? 市井の食事も悪くはないでしょう?」
「そうですね。とても美味しいです」
曹沖は頷き二口目を口にする。
単に豚肉を串に刺して焼くだけの料理だから、そうそう酷い味にはならない。
とはいえ、そこまで美味しいものでもないのだが、初めての食べ歩きの昂揚から、曹沖には実際以上に美味しく感じられた。
「ん……それにしても驚きました」
「何か驚くようなことがありましたか?」
「だって、奉孝殿が急に値引交渉をするのだもの」
「ああ、そのことですか。あんなこと、市井の、特にああいう市の屋台だと日常茶飯事ですよ」
「そうなのですか……。でも、それだと店の方は困らないのかしら?」
聡明なのに、世間ずれしているためか、それともよっぽど人の悪意や狡賢さとは無縁であるのか、本心から店主を案じ出した曹沖のことを男は笑い飛ばす。
「いえいえ、ご心配には及びません。店主は店主で、値引されるのを見越して初めは若干高い値を口にするのですよ」
それを聞いて、曹沖は目を丸くする。
「へぇ、そういうものなのですね」
「ええ、そういうものなのです」
なるほどと、しきりに頷く曹沖であったが、ふと疑問を覚えて首を傾げる。
「でも、どうしてそんな面倒なことをするのですか? 初めから店主は正直な値を出して、客もそのまま買い取れば手間が省けるでしょうに」
その問いに、男は苦笑を浮かべる。
「まあ、その通りなのですが……。そうですね、言わば一種の様式美、伝統のようなものです。ほら、宮中でも実利がないのに、どうしてこんな面倒なことをするのか? そう思うような式典や儀礼があるでしょう? あれと同じですよ」
その喩えに今度こそ曹沖は得心した。
「そう言えば、もう一つ驚きがありましたね」
「おや? まだ何かありましたか?」
「ええ、ありました。いつのまにか奉孝殿がぼくの叔父上になっていたなんて」
曹沖は愉快気に笑う。男はぽりぽりと頭を掻いた。
「はは、ちと不敬でしたかね」
「いいえ、とても光栄です。神算鬼謀の知恵者として名を馳せる奉孝殿が、ぼくの叔父上だなんて」
「止して下さい」
羽虫を払うように男は手を振って見せる。
「そりゃ、そこらの凡愚よりいくらか賢いですがね」
言いながら男は一つ首を振る。
「しかし、他でもない倉舒様にそんな風に言われては、俺は恥ずかしさの余り消えてしまいたくなります。本物の才気溢れる人間が、簡単に人を褒めそやかすものではありませんよ。誤解してしまうではないですか」
「それは謙遜が過ぎます。あの父上自ら軍師と認められた程の方が何を仰るのです。ねえ、曹軍の軍師祭酒、郭奉孝殿」
そう言って、曹沖は男の顔を見上げた。飄々としているからか、三十八という実年齢よりもずいぶんと若く見える。
それにどこか軽薄な様で、曹沖が言い募るほどの傑物にも見えなかった。
しかしこの男こそ、士官の折、あの曹操をして『わしの大業を成就させるのは、必ずやこの者だ』と言わしめたまでの男であった。
姓名を郭嘉、字を奉孝。世を、未来を見通す力を持った天才である。
「それにぼくなんて知らないことばかりです。今日だって、少し忍び歩きしただけで、新しいことを知るくらいなんだから」
曹沖の言葉に、郭嘉は一つ頷く。
「確かに、倉舒様はまだ知識面が不足しているかもしれませんね。ですが、それは単に経験がないだけです。知識は、それを求めれば誰にでも手に入るもの。真に重要なのは……」
「真に重要なのは?」
「知恵です。学んだ知識をどう活かすかが肝要で、それはその人個人の資質に大きく左右されます。……倉舒様が神童だと呼ばれ期待されるは、その能力に長けているからですよ」
「本当に?」
「ええ。何せ、倉舒様は、私の子供の時分よりずっと聡明でいらっしゃるから。例えば……俺はその場に居合わせませんでしたが、何年か前に象の重さを量られたことがあったでしょう? それを聞いて、これはモノが違うと確信しましたよ」
郭嘉が本気で感心したように言うので、曹沖は頬を赤くしてしまう。
「そんな……! 象の重さを量る、あれも今思えば、別にぼくが初めて言い出した方法でもありませんし……」
「――? はて、他に誰か同様の方法を示した者が? 寡聞にして俺は知りませんが」
「ほら、いたではありませんか! アルキメデス、そも彼の名を冠してアルキメデスの原理と呼ばれているくらいで……どうされました、奉孝殿?」
郭嘉が余りにも怪訝な表情をしているので、曹沖はどうしたのかと尋ねる。
「ある……何ですか? それは人の名前でしょうか?」
「えっ……?」
曹沖は一瞬虚を衝かれたような顔をして、次いで動揺を露わにした表情になる。その瞳が言いようのない不安に揺れていた。
「ぼくは……今、何と言いましたか?」
つい先程自分が口にした言葉を振り返る。振り返るが、まるで記憶に霞がかったように思い出せそうで、思い出せない。
人間、ど忘れすることはある。
ならば、どこで見知った知識だっただろうと、曹沖は思い起こそうとするが……。それも全く見当が付かない。
誰かに聞いたわけではない。書を読んで知ったわけでもない。――ならば、当たり前の知識の如く感ぜられた先程の感覚は一体……。
――ぼくは、何処でそれを既知のものとしたのか……?
自分のことなのに何も分からない。その不気味さに、曹沖の顔から一気に血の気が引いていく。
しかも、こうしたことは曹沖にとって、実は初めてのことではなかった。
稀ではあるが、時折このような不気味な体験をすることがある。知るはずもないことを知っている。そんな、有り得ざる体験を。
だからこそ増々恐怖する。一体、これは、これらの不思議は、どうしたことであるのだろう、と。
「ははっ! まだ目が覚めてないのですか、倉舒様?」
「奉孝……殿?」
郭嘉の声に、曹沖の意識は荒れた思考の海から浮上する。
「朝とはいえ、もうそれほど早い時間でもないのですから、いつまでも寝ぼけていてはいけませんよ!」
無駄に明るい声音で言い募る郭嘉。
曹沖の尋常ではない様子に、郭嘉とて不審を覚えているはずなのに、それに触れない。気付かない振りをする。その気遣いが、曹沖には有難く思われた。
「……そうですね。もっと、しゃきっとしないと」
「ええ、そうですとも。ひょっとして、倉舒様は朝が苦手なのですか?」
「えっと、実は……」
それからというもの、二人はまるで示し合わせたかのように、互いに他愛無い会話を繰り返すのだった。