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 早朝、格子窓から朝日が差し込む。それを浴びながら楚々と身繕いをする娘がいた。

 年は十五。そろそろ縁談話が舞い込んでもおかしくない年頃の娘であったが、本人はさして気にすることなく、自らの勤めを果たす日々を過ごしている。


 この娘の名を鈴玉りんぎょくという。

 彼女の勤めは、さる貴人の身の回りの世話をすることなのだが、その主から離れ難く思っているので、むしろ縁談がまとまらないのは好都合だと考えている節すらあった。


 着衣を整え、髪を結わえ簪を差す。軽く白粉で化粧を施し、最後に鮮やかな紅を引く。

 鈴玉は朝の身繕いを一通り終えると、最後に手鏡で確認する。青銅を磨いた鏡面には、彼女が未だ見慣れぬ・・・・鈴玉自身の顔が映る。


 銅鏡は貴重品であった。故に鈴玉は今まで水面に映った自身の顔を見ることはあっても、鏡面に映ったそれを覗き見る機会に恵まれなかったのだ。

 それがここ数日は、毎朝手鏡に自身の顔を映しているのだから、人生どんなことが起こるか分からないものだ。

 この鏡は先日、鈴玉の普段の忠勤に報いるということで、鈴玉が彼女の主から賜ったものであった。


 鈴玉がこの鏡を賜ってまだ日も浅いが、それでも今や自分の命の次に大切な宝物となっている。

 それは、単に鏡が貴重品だからというわけではなく、彼女が慈しんで止まない愛らしい主からの贈り物であったことが最たる理由であった。


「よし」


 満足いったのか、鈴玉は一つ頷くとすくっと立ち上がる。

 そうして朝一の勤めを果たすべく、自らに与えられた部屋から出ていった。

 ぎっ、ぎっと、微かに軋む渡り廊下の木板を踏みしめながら、鈴玉は横目に今日の空模様を確かめる。

 ちらちらと白い雲が少しばかり散見されるが、おおむね晴れ渡った良い天気であった。


 鈴玉は絶好の洗濯日和だと喜ぶ。主の衣服は当然として、自分たち侍女の衣服もまとめて洗濯してしまおうかしら、と思案した。


「おや、鈴玉。ずいぶんと機嫌が良さそうだね」

璃璃りりさん、おはようございます」


 鈴玉は声を掛けてきた年嵩の侍女に挨拶する。


「ああ、おはよう。で? 朝から機嫌が良さそうだが、何か良いことがあったのかい?」


 どこかにやけそうになるのを誤魔化す様な面持ちで年嵩の侍女璃璃は問う。

 それに気付いた鈴玉は、慎重に言葉を返す。


「……今日は良い天気だから、絶好の洗濯日和だなと、それだけのことです」


 璃璃は片眉を上げる。わざとらしく意外そうな表情を作った。


「あら、そうだったのかい。私はてっきり……」

「てっきり?」


 璃璃はにやりと笑む。


「意中の殿方の寝所に潜り込むのに、気が弾んでいるものとばかり思ったのだけど……」


 外れてしまったねえ、と璃璃は嘯く。


「なっ!?」


 鈴玉は絶句する。見る見る内にその顔は林檎のように真っ赤に染まっていく。その様を璃璃は愉快気に見やった。


「わ、私はともかく、若様に無礼ですよ! そのような破廉恥な行為ではなく、単に若様を起こしにいくだけのことで!」

「そんなに念入りにめかし込んでかい?」

「こ、これは! 若様の御前に出るのに、みすぼらしい格好で出るわけにいかない! それだけのことなんですから!」

「なるほど、よーく分かったよ」

「本当ですからね!」

「大丈夫だ、本当に分かっているとも」


 くすくすと笑う璃璃はここらで手を緩めてやることとする。

 どうもこれ以上からかっては、鈴玉の忍耐の限界を超えそうだと判断したので。


 そんな璃璃の思惑を肌で感じ取ったのか、鈴玉は乱れた呼気を整える。相手が追及を止めるのであれば、自分からこの話を拡げても益はない。

 まだ、からかわれたことに、不満そうな面持ちではあったが、互いに矛を収めようという暗黙の提案を飲むことにした。


「……それに、若様はまだ十二ですよ。そのような色事はまだまだ早いです」

「そうかねえ? 十二ならもう色事にも関心が……あっ」


 璃璃はついつい減らず口を叩いてしまったことに、言の葉が零れ落ちてから気付く。

 彼女の失言に鈴玉は肩を怒らせる。


「璃璃さん!!」

「ごめん、ごめんよ。ついつい……ね。あっ、朝餉の準備はゆっくりとしておいた方がいいかい? ほら、御両人がゆっくりと時間を取れるように」


 璃璃はすたすたと退散しながら、これならもう言うも言わぬも同じだと、最後にまた鈴玉をからかう言葉を言い捨てて行く。

 その背に、鈴玉の甲高い怒声が投げつけられた。


「まったく!!」


 先輩侍女の悪戯に怒り心頭な鈴玉は足音激しく渡り廊下を歩く。それでも、主の部屋が近づくにつれて、足音は穏やかなものへと転じていった。

 そうして目的地である部屋の前で足を止める。


「……若様……倉舒様、お目覚めですか?」


 控えめに呼びかけて、暫し返事を待つ。

 が、待てども部屋の主人からの返事はない。


「鈴玉です。失礼します」


 すっと部屋に入る。鈴玉は寝台に目を向けた。どうやら彼女の主はまだ寝台の上で寝入っているようである。

 そのまま忍び足で寝台へと歩み寄る。上から主の寝顔を見下ろした。


 高貴な人を玉に喩えることがあるが、鈴玉はそれが何とも正鵠を得たものだと思う。

 寝台の上で眠っているのは、まだ幼さを残す容貌をした少年だ。

 御簾の隙間から漏れ差す明かりに照らされたその肌は、まるで白く滑らかな玉のように美しい。

 一見すれば少女と間違えてしまいそうなほど整った容姿。閉じた瞼の下には長いまつげが寝息に合わせて揺れている。唇など、紅も引いてないのに艶やかだ。

 

 ほう、と鈴玉は感嘆の溜息を吐く。

 彼女には、その寝顔が生き物であることすら疑わしく思われた。最高の職人が手掛けた美術品のようにさえ見えてしまう。


 そのまま暫く見惚れていた鈴玉だが、いつまでもこうしてはいられないと、右手を少年の背中に添えて優しく揺する。


「倉舒様……朝ですよ。お起き下さいませ」

「んん……」


 うーっと、むずかるようにして寝返りを打つ少年。眉がハの字になっている。一部の人間しか知らない事実であったが、彼は朝が弱いのであった。


 年相応の幼気な様子に鈴玉は、もう少し寝かせて差し上げようかしらと、そんな思いも頭を過る。

 が、やはりそういうわけにはいかないと、名を呼ぶ声を背を揺する手を強くする。


「倉舒様! 朝です! 倉舒様……!」

「……あさ?」

「はい! 朝でございます!」


 少年の意識はついに微睡の底から浮上してくる。瞼が重たげに開かれた。眩しげに外から差し込む光を見やった後に、次いで鈴玉の顔を見る。


「……おはよう、鈴玉」

「はい。おはようございます、倉舒様」


 鈴玉は一歩下がると、深々とお辞儀する。

 頭を下げた先にいる少年はというと、眠たげに瞼を擦りながらもぞもぞと寝台から這い出す。立ち上がった背は、鈴玉よりいくらか小さい。


 同年代の少年たちと比べ、取り分け背が低いわけでもないのだが、小顔で線が細いので、どこか小柄な印象を受ける。

 中性的な容姿がそれに拍車をかけていた。


 ふるふると頭を振るうことで、眠気がおおむね飛んだのか、ぱちりと大きな瞳が見開かれる。

 寝顔も美しかったが、眼を開き生気を放つ立ち姿もまた美しい。差し込む朝日を浴びて輝かんばかりであった。


 この玉のような少年こそ、鈴玉が侍女として身の回りの世話をしている主人――神童との呼び声高い曹操の第八子、曹沖であった。

 年は十二になる。その性格がそのまま表れたような優しく柔らかな顔立ちをしていた。


「鈴玉、朝餉の準備はできているの?」

「はい。璃璃が用意しております」

「そう。では早速頂こうかな」


 曹沖の言に、鈴玉は疑問を覚える。なので、控えめに問い質した。


「お召し物を着替えられないのですか?」


 そう常ならば、寝間着から普段着に着替えてから朝餉を摂る。曹沖を起こした後の鈴玉の仕事は、着替えの手伝いだ。

 それが、今日は早速朝餉を摂りたいと言う。疑問を覚えるのも当然であった。


「うん。どうも今朝はお腹が空いて……。すぐにでも朝餉を摂りたいのだけど、駄目かしら?」

「いいえ。無論、問題ありませんとも!」


 食の細い曹沖が、今朝はここまで食欲を旺盛にしている。

 常日頃から、もっと彼に食事を取らせたいと思っていた鈴玉は嬉しくなって、曹沖の申し出を快諾する。


 鈴玉の返事を聞いて、曹沖は寝巻姿のまま自室を出ようとする。


「倉舒様、暫しお待ちを」


 鈴玉はそう言うや、曹沖の傍にさっと近づき、手早く寝巻の乱れを直してやる。


「ありがとう」

「いいえ。滅相もございません」


 今度こそ曹沖は自室を出る。そのすぐ後ろを鈴玉が従った。そうして真っ直ぐ朝餉が用意されている部屋へと移動する。


「おはよう、璃璃」

「おはようございます、倉舒様」


 曹沖は部屋の中で控えていた年嵩の侍女を認め、朝の挨拶を交わす。

 一々、侍女たちに挨拶を交わす様は、彼の気性がよく表れている。


 高貴な人間なら、特段申し付けることもなければ、彼女らをないものとして扱う者も少なくない。

 しかし、この少年はそんな真似をしたためしがなかった。彼が下々の者たちからも愛される一因は、正にこういうところにあった。


 上座に食案(個人用の子机)が一つきり置かれている。曹沖はゆったりとその前に座した。

 食案の上には、あつもの(肉のスープ)や炮(炒め物)など、いくらかの皿が並ぶ。品数は高貴な人間らしく多い。が、その一つ一つの量はやや少な目であった。

 侍女たちは、己の主人が満足する量をよく弁えているのである。


 曹沖が万遍なく皿に箸をつけていく中、侍女たちは黙って脇に控えている。室内は静かだ。しかし寒々しさは感じない。日だまりのような穏やかさだけがあった。


「自室に戻ります」


 最後の一口を食べ終えた曹沖が立ち上がりながら言う。鈴玉は軽く頷くと、既に歩き始めている曹沖の後ろについた。

 着替えの服を用意して、着付けを手伝う仕事があったからだ。


「今日は良い陽気だねえ」

「ほんに。その通りですわね」


 廊下の途上、もうすぐ曹沖の自室に着く段になって、ポツリと曹沖は呟いた。

 鈴玉がこれに首肯する。


「だからかしら? ちょっと汗をかいているみたい。着替えの前にぬるま湯で体を拭いたいな。……鈴玉、用意してくれる?」

「かしこまりました」


 鈴玉は一礼すると、己の主人の要望に応えるため踵を返す。曹沖は立ち止まったまま、去っていく鈴玉の背を見送る。

 彼女が角を曲がってその姿が見えなくなると、どうしたわけか、曹沖は急に小走りで自室への道を急ぎ出した。


 パタパタとした足音。バン! と、彼にしては珍しく勢いよく戸を開く。

 そのままの勢いで、衣装箪笥へと向かうと、奥の奥に隠すように押し込められた服を引っ張り出す。

 それは、簡素な飾り気のない服で、その上年季物なのか少しくたびれている。まるで、市井の子供が着るような服であった。


 曹沖は手早く着替えながら、自らの侍女を騙したことに申し訳なさを覚えた。覚えたが、その奥からまた別の感情が湧き出してくる。

 彼の表情には隠し切れぬ興奮が見え隠れしていた。


 聞き分けがよく、手がかからな過ぎて逆に寂しい。とは、璃璃が曹沖を指して侍女仲間たちによく漏らす言葉であったが……。

 曹沖とてまだ子供である。年相応に『悪さ』をすることに魅力を覚えていた。


 これまでは生真面目さから、『悪さ』をしたことがほとんどなかったが、ついに今日それをしようというのである。


 着替えを終えると自室を出る。そうして、人通りの少ない道を選んで建物の外を目指す。


 パタパタと駆ける。運動による熱と興奮から顔が赤らむ。やがて、ここと目星をつけていた塀の傍に辿り着いた。

 そこは塀のすぐ内側に、木登りするのに手頃そうな木が生えているのだ。


 うんしょ、と曹沖は慣れぬ木登りをする。

 誰ぞ傍目で見ていたら、肝を潰しかねない危なっかしさであったが、それでも曹沖はなんとか木を登り切ると、塀の上に飛び移った。そうして真下を見下ろす。


 果たしてその視線の先、塀の外側に一人の男が立っていた。こちらも市井の人間が着るような服を身にまとっている。彼は逆に塀の上を見上げていた。


 曹沖と男の視線が合う。瞬間、男はふっと微笑んだ。


「どうやら、首尾よく抜け出せたようですね、倉舒様」

「ええ。何とか無事に。……もう少し体力をつけないといけませんね。木登りに手古摺ってしまいました。ああ、お待たせして申し訳ありません、奉孝殿」


 額の汗を拭いながら、曹沖ははにかんだ笑みを浮かべたのだった。

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