十三
――あつい、あつい。
「……様! ……舒様! ……!」
――まるで、体が燃えている、みた、い。
「ああ、老師! どうか…………を! どうか!」
曹沖の思考は朦朧としていた。彼は周囲が何やら騒がしいことは分かったが、何を言っているのかまではよく聞き取れない。
それに、余りにも体が熱いので、途切れ途切れに漏れ聞こえる声に注意を傾けることもできない。
彼の思考は暗闇の中に在った。
そこには、暗闇の外から僅かに漏れ聞こえる声と、それよりもハッキリと暗闇に浮かび上がる文字が躍っている。
酷い熱病に苦しんでいるので、次々と浮かんでは消え、浮かんでは消える文字を目で追っている場合ではなかったが。
しかしどうしたわけか、彼が熱に苦しめば苦しむほど、それらの文字は濃くハッキリとしていく。
『劉表病に没し、子の劉琮、州を挙げて曹操に降伏』
『長坂の戦い』
『孫権開戦を決断。孫権・劉備連合軍結成』
『曹軍は南の地で疫病に苦しむ』
『長江での水上戦』
『諸葛亮』
『黄蓋の偽りの投降』
『火計』
『赤壁の戦い』
不可思議な文字が次から次に浮かび上がっては消える。浮かび上がっては消える。
その最中に曹沖は聞いた。――『思い出して』という何者かの切なる声を。聞き覚えのない声のようにも、慣れ親しんだ声のようにも聞こえるそれ。
「うっ、ああ……」
曹沖の口から呻き声が漏れる。
「倉舒様!」
曹沖の呻き声に応えたのは、昼夜付きっきりの鈴玉の悲鳴のような呼び掛けだ。
その傍らでは、華佗が無言のまま手を尽くしている。
華佗の顔にも色濃い疲労があったが、その目は鋭い眼光を放つ。――死なせてなるものか、という気迫が、言葉にしなくても察せられる。
また、侍女たちを統括する官吏である孝卿が、おろおろと、これ以上なく動揺を露わにして立っている。
「ふう……」
華佗は額の汗をふくと、鈴玉に視線を向ける。
「そなた、新しい水を汲んできてくれるか」
「はい!」
鈴玉を頷くや、さっと部屋を飛び出していく。
華佗は次いで孝卿に視線を向ける。
「新しい薬を試してみようかと思います。調合のため暫し席を空けるので、その間公子を看て頂いてもよろしいか、孝卿殿?」
「う、承った!」
華佗は一つ頷くと、部屋を退室していく。
曹沖の部屋に、孝卿は一人取り残される。丁度その時、囁きのような音を、孝卿の耳は捉えた。
孝卿はばっと、声のした方に視線を向ける。
これまでの、時折漏れ聞こえる曹沖の呻き声とは、また異なるものであったからだ。
「………………ない」
「倉舒様!」
孝卿は曹沖の枕元に近づくと、何やら囁く曹沖の口元に耳を寄せた。
「船を……はいけない」
「――?」
はてと、孝卿は首を傾げる。その直後――
「あっ!?」
意識も定かでない曹沖の手が孝卿の袖を掴む。弱々しい手が、それでも精一杯の力を込めて。
そうしてまた、苦しげな声で繰り返すのだ。――『船を密集させてはいけない』と。
孝卿には、その言葉の意味がまるで分からなかったが、余りに異様な様子に、その言葉が深く脳裏に刻み付けられた。
※※※※
天をも燃やし尽くすのではないかという炎が、夜を赤く染め上げている。
曹操は呆然とその赤を見ていた。彼の後ろ姿に、傍にいる参謀らは声も出せなかったが、その内の一人が意を決して曹操の背に声を掛ける。
「公、軍内に疫病が蔓延し、我が軍に利非ず。更にはこの火計の被害もまた甚大なものとなるでしょう。これ以上は……」
「……分かっておる。撤退だ。すぐに総撤退の準備に取り掛かれ」
「はっ」
曹操の命を受けて、傍にいた参謀らは、皆曹操の傍を離れる。
命令を遂行するためでもあったが、何より彼らは、彼らが英雄と信ずる男の敗残の姿を見るのが余りに忍びなかったのだ。
「奉孝、そなたが生きておったなら、儂をこのような目には決して遭わせなかっただろうに……」
曹操はたった一言だけ弱音を吐くと、夜を染め上げる赤に背を向ける。
その目は鋭く北に向けられていた。
最早、この戦場に未練はなく、あるのはこれから行われる撤退戦を如何に成し遂げるかという想いばかり。
彼の戦歴には輝かしいものが多かったが、しかし、敗北し命からがらの撤退戦を演じたことが皆無なわけではない。
むしろ、戦歴豊富な曹操は、多くの諸侯よりもそれを熟知していた。
故に彼は切り替える。いつまでも敗北を引き摺ったまま行えるほど、撤退戦とは甘いものではないのだから。
これより、曹軍は長く辛い撤退戦に移る。
泥濘の中、無様に北へ北へと逃げていく。
途中、疫病に蝕まれたもの、体力の劣るものなど、多くの兵らが落伍していく。それを横目に、曹軍は立ち止まらず、只管北を目指す。
敗北し、土に汚れ、なりふり構わず逃げ出す様は、遠征開始時の威容など影も形もない悲壮なものだ。
その無様さに、羞恥や怒りを覚えた者も、復讐の炎を胸に宿らせた者もいる。
しかし、撤退戦で疲弊するにつれ、今ばかりは、そのようなことは忘れ果て、ただただ中原に帰り着きたい。早く、この撤退戦を終わらせたいと、それだけしか考えられないようになる。
曹操とて、例外ではない。今や、鄴に戻りたいと、その一心で北への道を急いだ。
途中、留守を任せている荀彧に宛てて書いた手紙にも、弱弱しい言葉ばかりが書き連ねられる。
臣下の立場を越えて、無二の友とも、あるいは、遠征の際に留守を任せる女房役とも言える彼にだけは、曹操も素直に内心を吐露することが出来るのだ。
そうして体と、それ以上に心が磨り減るような撤退戦が終わる。
曹操は最低限、南の備えの為に必要な命令を発すると、後は失意のまま鄴へと戻っていった。
そんな彼を出迎えたのは、他でもない荀彧だ。
「公、よく戻られました」
出迎えた荀彧の顔を見るばかりで、曹操は何も言葉にすることができない。
曹操の気持ちをよくよく理解した荀彧は、曹操の周りにいる者らを下がらせる。
「公、まずは部屋で休み、疲れをお取りください。……部屋までご同行します」
曹操は無言で頷いた。
そうして、曹操が先に歩くと、その少し後ろを荀彧が付いていく。
暫く両者の間に会話はなかったが、ほどなくして曹操が口を開く。
「……儂の留守中に大事はなかったか?」
荀彧はその問いに即答できなかった。
それで、曹操は何かがあったのだと悟る。荀彧は、それを今話すべきか、明日にすべきかで一瞬戸惑ったに違いないと。
「よい。今、申せ」
「……二つあります。まず、倒れられた倉舒様のことですが」
曹操の背が強張る。もしや……? そんな嫌な予感が彼の頭を過る。
「ご安心下さい。孝卿の報告では、ようやく峠を越えたと。まだ目を覚まされませんが、数日中にも意識が回復するだろう、とのこと。華佗の見立てです。間違いはないでしょう」
曹操は足を止め、荀彧を振り返る。その疲れ切った顔に、喜色が浮かんだ。
「そうか! それは何より……文若?」
吉報であるのに、荀彧は難しい顔をしている。曹操は訝しんだ。
「孝卿が私にのみ、あることを告げました」
「……何だ?」
「熱に魘される倉舒様が、朦朧とした中、面妖な言葉を繰り返し口にしたと」
一拍置いて、荀彧はそれを語る。
「……『船を密集させてはならぬ』、倉舒様はそう繰り返されたようです」
曹操は驚きに目を見開いた。次いで悲しげな表情を、最後に諦めに似た表情を浮かべる。
その表情を見た荀彧は尋ねる。
「公、この不可思議に、何か心当たりが?」
荀彧は既に知らせを受けて、曹軍を襲った火計のことを知っている。
だからこそ、曹沖の熱に魘されながら口にしたそれを、『面妖』『不可思議』と言うのであった。
「ある。が、それは明日話すとしよう。見送りはここまででよい。下がれ、文若」
「……はっ」
荀彧はその場で恭しく頭を下げた。
曹操は頭を下げたままの荀彧に背を向けると、一人歩き出す。
歩く、歩く、歩く。やがて渡り廊下の中ほどで足を止めた。顔を横に向けると、庭を見るともなしに見る。そうして口を開き呟く。
「奉孝、そなたの言うことは常に正しかった。それは、死を目の前にした時ですら、変わりなかったようだな」
曹操はそう言って瞳を伏せる。
『――公に最期にお伝えしなければならないことが』
曹操の中で、亡き郭嘉の言葉が蘇る。
『……ずいぶんと悩みました。これを公にお伝えすべきなのかどうかを。もし、お伝えするにしても、慎重に機を窺う積りでしたが……どうやら、私にそのような時は残されていないようです』
『感情では、話したくないと思う。ですが、軍師としての理性が話せと訴える。ならば、話すべきなのでしょう。他ならぬ公の為に。この世で唯一人、我が主人だと想えた、貴方の為に……』
『倉舒様は、あの御子は……まこと、人の子ではないのかもしれません』
『どうか、倉舒様の『神童』に、神がかった不可思議にご注視なされますよう』
曹操はゆっくりと目を開く。
「くくっ、その才気故に神童と持て囃した子が、本当に人の子でなかったというのか? 何たることだ。……しかし、人の子でないのなら、あれは何だ? まさか、まこと天の子であると? それとも……」
曹操は首を振る。
「いや、答えの出ぬ問いに拘泥するほど馬鹿らしいこともない。考慮すべきは、かの神魔の如き異能が、儂の為になるのかどうか……。その力の持ち主が儂の助けとなるか、あるいは、儂に仇なすことになるのか。よくよく、見極めねばなるまい」
曹操の眼光が鋭くなる。疲れ切った表情は最早影もなく、その顔は覇者たる男のものであった。
尋常ならざる『神童』に対する危機感に、彼の覇気が呼び覚まされたのだ。
曹操は止まっていた足を動かす。迷いを振り切るように、力強く一歩を踏み出した。
「老師! 倉舒様が……!」
華佗が峠を越えたと判断したことで、華佗と侍女たちは交代で倉舒を看ていたのだが、今現在、曹沖の部屋に詰めている璃々が、別室で休む華佗の下に駆け込んできた。
何事かと、華佗と、偶々そこに居合わせた鈴玉が驚きながら璃々の顔を見る。
「倉舒様が目を覚まされました!」
その一報を受けて、華佗、鈴玉、そして璃々は曹沖の部屋へと急ぐ。
果たして、部屋に入ると曹沖は寝台の上で半身を起こしていた。
苦しげな様子はない。ないが、やや俯きがちなその表情は、何事かを思案している様子であったが、どうしてか、何やら得体の知れぬ空気をまとっていた。
「倉舒、様……?」
思わずといった鈴玉の呟きに、曹沖は顔を持ち上げる。
一瞬、発言者である鈴玉の顔を見たが、すぐに華佗の方に視線を向け直す。
「老師……」
「何ですかな、公子?」
「遠征軍は、どうなりましたか?」
華佗はその問いに言葉を詰まらせる。
今目覚めたばかりの病人に、敗戦の報を伝えるのが良いことであるはずがない。
が、言葉を濁しても、この聡明な子はそれで全てを悟るだろう。
そう思った華佗は正直に答えることとする。
「残念ながら、敗戦したとのこと」
「そう……」
曹沖は瞳を伏せる。ただそれだけ。今しがた初めて、敗戦の報を聞いたのに、たった一言相槌を打つ。瞳を伏せる。
たったそれだけで、それ以外の如何なる動きもない。無論、動揺などは微塵も見受けられない。
「倉舒様?」
再び、鈴玉が彼の名を呼ぶ。その声音にこそ、ありありと動揺の色があった。
曹沖は目を開くと、今度こそじっと鈴玉の顔を見やる。
「なあに、鈴玉?」
「いえ、あの……」
「大丈夫、そんな顔しないで」
そう言うと、鈴玉を安心させる為であったのか、曹沖は何ともたおやかな笑みを浮かべて見せた。
江南の気候や地勢に不慣れな曹操軍は疫病に苦しめられ、ついには孫権・劉備連合軍に敗れてしまう。
かつての正史、この異史共に記す。――赤壁の戦い、と。
これまでは、僅かな違いこそあれど、ほぼ重なり合っていた二つの歴史。
しかしこれよりは徐々に、しかし確実にかけ離れていくこととなる。
生死の狭間をさ迷った曹沖が、その果てに“目覚めた”のだから。
ようやくあらすじ部分、序章が終わりました。
ここまで読んで下さった皆様、ありがとうございます。
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