十二
建安十三年(西暦208年)正月
三公制が廃止され、丞相(君主を補佐する最高位の官吏。宰相や現代の首相に当たる)と御史大夫(副丞相)が置かれる。
同年六月。献帝、曹操を丞相に任命す。
これにより、三公(司徒、司空、大尉)により分権されていた政は、丞相に任命された曹操の下に一元化されることとなった。
つまり名実ともに、曹操が漢王朝の実権を握ることとなったのである。
そして――同年七月、地盤を盤石なものとした曹操は、満を持して荊州牧劉表討伐の軍を挙げる。
南進する大軍は、十五万を数えた。
鄴市内にある邸の一つ。
そこはかつて、まだ鄴が袁紹の本拠地であった頃、袁紹の高官の一人が住んでいた邸だ。
高官の邸ということで、広々とした邸ではあったが、建てられてから長い年月が経っている物件で、傷んでいる箇所も多い。
こうなると、“広々”とした邸であることが却って災いして、修繕の手間が面倒だと、曹家臣下の群臣たちからは敬遠されていた。
そういったわけで、ずっと空き家となっていた邸。
しかし今、数年ぶりにこの邸に活気が戻ってきていた。
「うむ。日当たりの良い部屋だ。広さも申し分ない。ここを、病室としよう」
「この邸一番の広間です。病室ではなく、生徒たちを集めて座学する教室にした方が良いのでは?」
「なんの。病人が最優先じゃ。健康な人間は、適当な部屋に押し込めばよい。これ、ここに寝台を運び込んでくれ!」
がやがやと雑多な声が溢れる邸には、修繕のために雇われた大工やら、寝台や家具などを運び込んでくる商人の人夫などでごった返している。
邸を検分しながら、彼らの指揮をとっている老爺は華佗だ。
先日までの厭世的な憂い顔など影も形もない。年に似合わぬ生気がみなぎった顔をしていた。
あちこち指差して、大声を張り上げている。まるで十歳ほど若返ったようにすら見えるほど。
そんな彼の傍に歩み寄ってくる者がある。
「お疲れ様です、華佗老子」
現場指揮に夢中になっていた華佗は、声を掛けられて初めて、自らの傍まで歩み寄ってきた者に気付く。
「おお、公子! 疲れてなどおりませぬぞ! むしろ、日に日に活力が増しているほどで……公子は少々お疲れのようですな」
曹沖の顔を見下ろして、華佗はそのように言った。
「はは、予算の計上と申請、各部署との折衝等々、初めての実務にてんてこ舞いでして……。ですが、とても勉強になっています」
曹沖は苦笑しながら応える。
華佗はうんうんと頷いた。
「ひょっとすると、曹公がこの塾の創立をすんなり許されたのは、公子に経験を積ますためだったのかもしれませんな。しかしだからといって、ご無理は禁物ですぞ」
「もしかするとそういう意図もあったかもしれませんが。でも、一番はこの“華佗塾”の意義を理解して下さったのだと思いますよ」
この曹沖発案の教育機関には、もう少し長ったらしい正式名称もあるのだが、分かりやすいということで、誰もが“華佗塾”と呼んでいた。
真っ先にその呼称を呼び始めた曹沖には、『神医』華佗の名声を最大限利用しようという腹積もりもあったが。
因みに、華佗自身は単に“塾”と呼ぶ。どうも、この教育機関が自分の名を冠して呼ばれることを面映ゆく思っている節があった。
「何はともあれ、ようやく塾を開くことができそうですな。お上の許しは下り、場は設けられ、それに人も多く集まっていると聞きましたが?」
「ええ。生徒を募ったところ、想定以上の申し込みがありました。驚くべきことに、応募者は鄴近隣に留まらず、冀州の外からも沢山やってきているほどで」
「ほう、冀州の外からも……」
「はい。……華佗塾には、診療所としての機能も持たせるということですが」
寝台が運び込まれる広間を見ながら曹沖はぽつりと口にする。
「左様。座学だけで医者が育つわけもなく、実践がどうしても必要ですので。こちらの許可も取り付けて頂き、誠に有難く」
「礼はいりません。言われれば、至極真っ当なことです。生徒の実践の場として患者が集まるよう、相場より安い費用で診察を受けられるようにする。これは、鄴に住まう民のためにもなります。医者に診てもらえるだけの金銭を用意できぬ民も少なくない」
「ですな……」
「それに、鄴市内の医者は、こぞって華佗塾の講師になると言うので、華佗塾のせいで廃業に追い込まれる医者もいないでしょう。……それに彼らは講師をする傍ら、神医の業を盗んでやろうと発奮しているほどだとか」
曹沖はくすりと笑う。そうして『流石は華佗老子です』と、裏表ない賞賛の言葉を口にする。
華佗はふいっと顔を背けた。
「ふむ。流石に鄴市外から病人は来ないでしょうしな。旅費を考えれば、華佗塾より地元の医者に診てもらった方が安くつく」
などと、華佗は曹沖の言葉の後半を聞こえてなかったような返事をする。
曹沖は、この老人が実は恥ずかしがり屋であることに気付いていたので、くすくすと笑い声を漏らした。
華佗はしかめっ面を浮かべる。まるで偏屈な老爺そのものの態度であった。
「さて、順調に進んでいるのを確認しましたし、ぼくは戻ります」
「分かりました。……公子、戻られたらお役目は一旦脇に置き、まず休まられよ。再三申し上げるが、ご無理は禁物ですぞ」
曹沖は困ったように笑う。
「ずっと無理をできるわけでないことは承知していますが。立ち上げの今くらいは、多少の無理はしないと。老師、時間が惜しいのです。此度の荊州討伐の遠征には間に合いませんでしたが、次の遠征までには、ある程度の形にしないと……」
「ですが……」
「心配をかけてごめんなさい。でも、兵らの為なのです。どうか今だけ、見逃してやって下さい」
「公子、貴方は……」
はあ、と華佗は溜息を吐く。
「素直そうなのに、意外と頑固でいらっしゃる。仕方ありません、貴方には同じ小言を言わぬようにしましょう」
「老師! ありがとうございます!」
曹沖は破顔すると、一度二度頭を下げてから立ち去って行った。
その背を見送りながら、華佗はぽつりと呟く。
「公子、貴方には、ね。さて、あの侍女の名は鈴玉と言ったかな? あの娘に目を光らせるよう、注進しておこう」
華佗塾の視察を終えた曹沖は、自室に閉じ籠っては、机に広げた竹簡に文字を書き連ねていく。
それは日が沈んでも止まることなく、灯をともしては、書き物続ける有様であった。
もっとも、曹沖の部屋から漏れる灯なぞ、目立って仕方ない。
鈴玉たち侍女がすっ飛んできては、曹沖を叱りつけ――幼少の頃からの世話役である彼女らは、曹沖に対して遠慮がない――抵抗する曹沖を無理やり寝台に押し込んだものだった。
そんな日が数日繰り返され、それならばと、曹沖は人気のない渡り廊下に竹簡を広げては、月の明かりを頼りに書き物をする始末。
「あれ……?」
竹簡に記した文字が歪なものとなる。ばかりか、どこか視界が揺れる様であった。
「流石に寝不足かしら? ……今日はここらで切り上げよう」
広げた竹簡を巻くと、曹沖は立ち上がる。少しよろけそうになった。
ずいぶんと疲労が溜まっているようだ、と曹沖も自覚せざるを得ない。流石に反省した様子で、自室に戻っていく。
その足元が覚束ない。どこか思考が乱れがちだ。
――これはいけない。はや…く、寝台で休ま、ないと。
自室の扉を開ける。
寝台までもう少しだと気が緩んだからであろうか? 直後、一際強い立ち眩みが曹沖を襲った。
「あ……」
まずい、と思った時にはもう遅く、曹沖は床に倒れ伏す。意識はそのまま暗転していった。
翌朝、鈴玉の悲鳴が響くこととなる。
建安十三年――時に曹沖十三歳、生来の病弱な体に無理が祟ったためか、彼は命にかかわるほどの熱病に見舞われることとなった。