十一
華佗は、曹沖と鈴玉を家の中に招き入れると、二人に座るように促す。華佗の勧めに従い二人が腰かけると、華佗は曹沖のすぐ対面に腰かけた。
「さて、早速ですがご用向きをお伺いしても、公子?」
「そうですね。必要以上に華佗老子のお時間を奪うのも本意ではありません。早速……とは言っても、お邪魔した理由は特別なことでなく、少し体調が優れなくて、それで老子に診てもらいたい。そういうわけです」
「ふむ……失礼」
華佗はすっと皺の目立つ両手を伸ばす。ただ、日々鍼を扱い使い込まれた手の機敏さは、老齢とは無縁なものであった。
左手で曹沖の手の甲の辺りをそっと掴むと、右手の人差し指中指を曹沖の手首に添えた。
華佗は脈を取りながら、曹沖の顔を注意深く観察する。
「確かに、顔色が少々優れませんな。今は平熱のようですが、ここ数日熱が出たりしましたか?」
「いえ」
「では、咳やくしゃみがある?」
「いいえ」
「ふむ……体調が優れぬとのことでしたが、では、具体的にどのような症状がありましたかな?」
曹沖は少し眉根を寄せる。
「どうも最近気怠くて……。部屋から出るのも億劫になるのです」
嘘ではない。曹沖は、郭嘉の葬儀以来思い悩み、気鬱からくる倦怠感を覚えていた。
「その気怠さはいつ頃から?」
曹沖は言い出しにくそうに言葉に詰まるが、少し間を置いてぽつぽつと語り始める。
「……その、奉孝殿の葬儀、からだと思います」
「なるほど……」
一瞬、華佗の瞳に曹沖に対する憐れみの色が宿ったが、華佗はすぐさま瞼を閉じることでそれを隠す。『ん、ん!』と二度空咳をしてから目を開いた。
「老師?」
「……公子の体の不調は心の不調から来るものでしょう。気が弱ってしまうから、体も弱る。心と体は密接に繋がっているものですからな」
「心の不調」
「左様。親しい知人の死を嘆くなとは申しません。ですが、それに心囚われ過ぎてもいけない。……心の問題ですからな。薬があるわけでもありません。療法としては、何ぞ気晴らしをするのが良いでしょう。……周囲の者もよく気を掛けるように」
最後の一言は、鈴玉の顔を見ながら言う。
「はい」
鈴玉は神妙な顔で頷いた。
伝えるべきことは伝えたと、華佗の顔が医師のそれから老爺のそれに変わる。
「さて、私のような年齢になれば、知人の死を幾度も経験したものです。故に耐性がある。ですが、公子はまだ幼く経験も多くないでしょう。それに只でさえ、幼少の心は敏感なもの。よくよく、注意なされることです。今日のように、取次も忘れるほど思い詰めるのは良くありません」
華佗はどこか独り言のように呟いた。
曹沖は困ったように苦笑する。
「ああ、取次を忘れるほど急いだのは、実は思い悩んでいたからではなくて……」
「はて? では何故ですかな?」
声音に責める響きはなく、ただ純粋に疑問の色だけが浮かんでいた。
華佗が曹沖と顔を合わしてから僅かな時しか経っていなかったが、しかしそれだけの遣り取りで、曹沖が礼を失するような子供ではないと華佗は理解していたので。
「先程、老師が鄴を離れ故郷に戻られると小耳に挟みまして。その前に診てもらおう! と焦ってしまいまして。すみません」
「いえ……」
曹沖はすまなげな顔を作る。その表情の裏に真剣さを隠しながら。
ようやく、この話題に繋げられたと曹沖は緊張する。彼の本当の用向きはここからであった。
あの虫の知らせというには、余りにはっきりした予感。華佗の帰郷で悪いことが起こるという予感だ。それこそ、郭嘉の時と同じような。
ただ、曹沖は何か悪いことが起こるであろうと、漠然とした予感を覚えるだけで、それがどういったものかまでは分からない。
なので、少しでも判断材料を得る為に、華佗本人に会いに来たのであった。
「聞いた話だと、故郷に置いたままの医術書を取りに行かれるとか。老師の故郷は、豫州でしたか。豫州へ帰省されたら、少しはあちらでゆっくりされるのですか? 鄴にはいつ頃お戻りになられるのでしょう?」
「さて……ご覧の通りの老骨ですからなあ。旅はちと体に堪えまする。急がず、ゆっくりとした旅になるに違いないでしょうが……いつ、とは中々読めませぬ」
「そうですか」
単なる雑談なら気付かなかったかもしれない。しかし、曹沖は華佗の話に全神経を傾けていたのでそれに気付けた。華佗がどこか、この話題を忌避していることを。
その事実は、曹沖にとって大きな判断材料足り得た。
曹沖は、この悪い予感の可能性の一つとして、華佗が故郷への旅の途中で何らかの事故に巻き込まれるのではないか? とも考慮していたが……。
この華佗の様子を見て、その考えを捨てる。
――華佗老子は帰郷の話を嫌がっている。どうして? それは、後ろ暗いことがあるから、かしら?
曹沖は半ば確信する。
では、どうして後ろ暗く思う? それは言葉通りの帰郷ではないから。秘された目的がある。誰にも言えないような……。と、曹沖は思考を進めていく。
――そうか。きっと、華佗老子は父上の下を去る気でいるんだ。
そのように推測する。
――華佗老子が父の下を去る。確かに手痛い損失だけど、それだけでこれ程までに、奉孝殿の“死”に匹敵するほどの悪い予感を覚えるかしら? ……きっと、老師が去ることで、それ以上の悲劇が起こるに違いない。
ならば引留めねばならないと、曹沖は考える。
――どうして、老師は父上の下を去ろうと考えたのだろう?
出仕先から出奔する理由。そんなものは限られてくる。おおよそ、人間関係の問題か、あるいは待遇面の不満である。
曹沖は、華佗が曹操や曹操幕下の人間と上手くやれてない、という噂を聞いたことがない。だから、消去法的に華佗の出奔の理由が待遇面にあるのではと、曹沖は推測する。
「――老子、実はぼくがずっと温めてきた腹案がありまして。聞いてもらえますか?」
「はあ、腹案ですか?」
「はい。近い内に父上に献策しようと思っているのです」
「聞くのは構いませんが、どうしてそれを私に?」
華佗は困惑を隠しもせず尋ねる。
「それは、華佗老子にも関わることだからです」
「私に?」
「ええ。……老師、住み慣れた地を離れ遠く遠征に赴く際、医師の目線から最も気を付けるべきものは何でしょうか?」
「それは……風土病でしょうな」
曹沖はこくりと頷く。
「奉孝殿も遠征先で病をもらい斃れました。無論、奉孝殿だけでなく、これまで多くの兵がそのように斃れていったのです」
「遠征先の、その土地特有の病に兵らは耐性がない。それ故に、どうしても避け難いことです」
「はい。これまでも曹軍を悩ませてきた問題です。そして、これからはより悩まされることになるでしょう。今後の戦は、先の遠征のような、うんと遠くの地に攻め入るものばかりになるでしょうから」
「ふむ……左様、でしょうな……」
華佗はそれを想像したのか、どこか遠い目をしながら自らの顎髭をなでる。
曹沖の見立てはおかしなことではない。
現在、中原を制し、群雄らの中でも一際強大な力を持った曹操に、真っ向から相手にすることのできる群雄は皆無だ。
なれば、曹操に敵対する群雄たちが今後どのように曹操と対峙するか?
それは自領に籠っての守勢である、というのが真っ当な予測である。
力に劣るものが、守勢に活路を見い出すのは自然なことだ。
城塞都市での籠城戦は言うに及ばず、野戦でも土地勘のある自領で展開した方が有利となる。
逆に、遠征を強いられる曹操軍は、まず遠征そのものの兵の疲労に始まり、長距離に渡る補給線を支える負担など、不利となる面が多数ある。
これで、守勢を取らない群雄がいたならば、愚か者の誹りも免れないだろう。
故に、曹沖はこれ以降、益々遠征が増えるというのである。
「遠征での負担を少しでも軽減したいのです。そこで、遠征の悩みの種の一つである風土病にも何らかの対策を、と」
「……その対策とは?」
「今でも、遠征に医者を連れては行きますが、数が足らないと思います。軍に帯同する医者の数をもっと増やす。それも、優秀な医者たちを、です」
「軍医を増やす。言うのは容易いことですが、どうやってそれほどの医者を搔き集めるのです?」
曹沖は首を振るう。
「医者を搔き集めるという発想が、そもそも間違えています。仮に、そのようなことが可能であっても、軍に医者を集中させれば、領内の医者が不足してしまいますよ。民たちを苦しめることになります」
「では?」
「医者を集めるのではなく、医者を育てるのです」
華佗は少し考え込んでから口を開く。
「つまり、医者を育てる私塾のようなものを造ろうと?」
曹沖はにっこりと笑う。
「はい。もっとも、公設ですから私塾ではありませんね。それに、個人で運営する私塾などより、よっぽど大規模なものにしたいと考えています。……とはいえ、最初は実験的に小さな規模から始めることになるでしょうが……」
「なるほど。……つまり公子は、私にそこでの教導役の一人として働かせたい。そういうことですかな?」
「いいえ」
曹沖は首を振る。華佗は予想が外れて、おや? と目を瞬く。
「教導役の一人、などではありません。老師には、もっと大きな役目を担ってもらいます。そう、新設する教育機関の責任者として敏腕を振るってもらいたいと、ぼくは考えています」
華佗は驚きに目を見開く。
「何を言われるのです、公子!? 何ともまあ乱暴なことを仰る。そのようなこと、曹公が許すわけもないでしょう。誰ぞ高官を責任者に据え、その下で経験のある医者たちが実務を担う。それが、真っ当なやり方というものです」
曹沖は一つ頷く。
「確かにそれが真っ当ではありましょう。しかし、成功への近道を取るには、ぼくの案でなければ」
曹沖は指折り理由を挙げていく。
「医術に精通しない者が責任者となっても、知識不足故、機敏さには欠けるでしょう。一つ一つの判断に、医師たちへの助言を求め、それをよくよく理解する必要があるでしょうから」
もう一つ指を折る。
「それに新設の機関にすぐに人が集まるか? という懸念があります。人は、新しいものには慎重になるもの。興味を持っても、まずは様子見をして、中々人が集まらないかもしれません。ですが、『神医』との声望高き華佗老師が責任者となれば違ってきます。是非とも、神医の下で医術を学びたい、という者たちが押し寄せてきましょう」
最後にもう一つ指を折る。
「それに、ぼくは、老師がそれだけの大任を果たせるだけの方だと信頼していますし、それだけの大任を務めるべきだ、とも確信しています。なので、何としてでも父上を説得して、この腹案を通す気でいます。だから――」
曹沖は真っ直ぐ華佗の目を見詰める。まるで祈るような色を瞳に宿しながら。
「だからどうか、まだ鄴を去らないで下さい」
その瞳と言葉に、華佗は悟る。自身の思惑を――曹操の下を出奔する腹積もりであったのを、目の前の子供が見抜いていたのだということに。
華佗は愉快気に笑う。
「さてさて、曹公への説得。そう容易いことではないかと思われますが……。もしも、もしも公子がそれを果たされたのなら――」
華佗はゆったりと頭を垂れる。
「その時は、この老いぼれも微力を尽くさせて頂きたい」
華佗は厭世的になっていた。俗世に希望を失っていた。されど、今一度だけ、この目の前の少年に懸けてみようと、そう思った。
※※※※
「――倉舒が?」
「はい。公に献策がしたいと。そのための創案をまとめた竹簡をもって、何か自分の気付かなかった不備はないだろうかと、私に相談に来たのです。公にお見せする前に、拙い所を直しておきたい、そういうことのようでしたよ」
年の頃、四十半ば辺りの男が微笑まし気に言う。
「倉舒が儂に見せる前にと、其方に相談したのに、それを儂に言ってしまうのか、文若よ」
曹操は咎めるような声を出す。
が、それが演技であることをよくよく理解する男――荀彧は、わざとらしいくらい恭しく頭を垂れる。
「私めは、他の誰でもない、公の忠実なる臣下なれば」
「ハハハッ、それでこそ、我が子房よ! ……それで?」
荀彧はおどけた様子を消して話し始める。
「倉舒様の案自体は、なるほど理にかなっているようです。無論、机上で正しくても現実に成果を出すとは限りませんが。しかし、試験的に小規模でなら採用してみてもよろしいかと。仮に失敗しても、倉舒様にとって良い経験になるでしょう」
「ふむ……」
「誰ぞ、目端の利く者を倉舒様の補佐に付け、助言役兼お目付け役にすれば、滅多なことも起こり得ないと思います。如何でしょう?」
「いや、掣肘する必要はない。全て、倉舒の好きにさせよ」
「……公?」
荀彧は訝し気に眉を顰める。
曹操が、才能豊かな曹沖に甘いことを知ってはいるが、それにしても度が過ぎていると感じたからだ。
いや、もっと不可解なのは、曹操の声音がどこか真剣味を帯び過ぎていた。まるで、重大事を前にしたように。
「――『神童』、まずは、その片鱗を見極めるとしよう」
それは独り言であったのか? 曹操は重々しい声音で呟いたのだった。