十
老齢といって差し支えない男が、しきりに動き回りながら、あれこれと部屋の物を取り出しては、竹で編んだ背負い籠に入れたり、麻の風呂敷に包んだりしている。
どうやら、旅の支度をしているらしい。その途中であるからか、部屋の中は少々雑然としていた。
旅の支度をしている男の名は、華陀という。
薬学や鍼灸において他に比類ない知識と技術を持った医者で、民衆などからは神医とまで崇められるほどである。
この華陀は、どこかやるせなさそうな面持ちで、支度を進めている。
華陀は、曹操の下で働くことに嫌気が差していた。その嫌気が高じて、我慢ならず帰郷しようというのだから、晴れやかな顔をしているわけもなかった。
華陀も当初は希望を胸に働いていたのだ。曹公なら、自分を正当に評価して下さるに違いない、と。だが彼の期待通りにはいかなかった。
曹操は華陀を名医と認め、典医に据えはしても、あくまで世間一般での名医に対する相応の待遇をするばかりであった。
それが華陀には残念でならなかったのだ。
というのも、当時の医者の社会的地位は決して高くなかったので。
曹操は医者という枠組みの中では、華陀を十分に厚遇していたが、己の医術の非凡なるを誰よりも熟知する華陀自身は、それでは不十分と感じていた。
――儂の知識・技術の価値を思えば、士大夫として遇されてもおかしくないだろうに。
そのように華陀は思う。
誰しも、自らの能力を正当に評価されてないという思いに囚われると、働く意欲が減退するものだ。
華陀は医者として誰かの下で働くことに嫌気が差していた。ここで働き続けることはもとより、新たな出仕先を探す意欲も湧かない。
何せ、貴賤を問わず才ある者を厚遇する曹操ですらこうなのだ。他の群雄には尚更期待できない。
曹操と同じか、あるいはそれよりも悪い待遇を受ける可能性すら高かった。
――もうよい。故郷に帰り、余生を慎ましく暮らそう。
精神的にほとほと疲れ果てた華陀は、ついにはそう考えるようになった。
医学書を取りに帰るというのは方便で、そのまま故郷で隠居してしまう腹積もりであった。
はあ、華陀が溜息を一つ吐いたその時、トントンと戸を叩く音がした。
「もし。華陀老師はご在宅でしょうか?」
聞き慣れない女人の声に、はてと華陀は首を傾げる。
急病人を見てもらおうと、唐突に見知らぬ人が訪ねて来ることは珍しくはなかったが、それにしてはずいぶんと落ち着いた声音だ。
もしも急病人が出たのなら、もっと切迫した声が出て来て然るべきだろう。
「何のようだね、お嬢さん?」
華陀はそのように問い返す。
「私は、曹家の八男であらせられる倉舒様の侍女で、鈴玉と申します。主がこちらに赴き、華陀老師と面会されたいとお望みです。私は、その先触れとして参りました」
「倉舒様が……」
本当に不思議なことに、華陀はこれまで曹沖との直接の面識が偶々なかったが、その評判は聞いていた。
曰く、曹家の神童。下々の者にまで心優しき貴人。そして、生まれつきあまり体が丈夫ではないとも聞く。
――きっと、持病か何か、健康面での相談がしたいのだろう。
華陀はそのように予想する。
さて、どうしたものか? と考えたのは一瞬で、すぐに華陀は申し出を受けることとする。
鄴を抜け出す前に、変に目を付けられてもつまらない。
「よろしい。お会いしましょう。ただ、御足労頂くまでもありません。儂の方から倉舒様の下に参りましょう」
「いいえ、それには及びません」
鈴を転がすような声音が返ってくる。華陀は目を瞬いた。というのも、先程までの女人とは別人の声であったからだ。
まだ幼さが残った声。男児か女児か判然としない中性的な声だ。
もしや、という予感があって、華陀はすぐさま戸を開ける。
そこには少々バツが悪そうにはにかむ童の姿があった。その後ろで若い娘も心なし身を縮めるようにしている。
二人の様子と、何より童の美しく聡明そうな顔立ちを見て、華陀はその正体を確信する。呆れたような声を出した。
「先触れと共に訪ねるなど、聞いたこともありませんぞ、公子」
「ごめんなさい。ここまで来てから、そういえばお会いする約束もしていなかったと思いまして」
「それで、このようにおかしな取次ぎをなされたのか」
「はい」
少し気恥ずかし気に、それでも屈託なく笑う曹沖に、毒気を抜かれたような心地になった華陀は軽く肩を竦めてから、部屋の中を指し示す。
「どうぞ。帰郷の準備の為、少しばかり散らかっておりますが」
そうして曹沖を部屋の中に招き入れたのだった。