零
――建安五年(西暦200年)許昌郊外
許昌を囲む市壁の外に、この地の主たる男が、自らの臣下たちを連れて立っている。
警護兵らの外側には、物見高い市民らが見物にと群がっていた。
彼らの視線は一点に収束される。そこには、堂々たる巨躯を誇る動物が一頭いた。ここよりずっと南の地に生息する象である。
「ほほう、聞きしに勝る大きさよ」
感嘆したような声を上げたのは、年の頃四十半ばばかりの男。
威厳ある風貌から武人のように見える。ただ、理知的な瞳を見ると文人のようにも思えた。
彼の姓名を曹操。字を孟徳といった。今現在、漢王朝に並ぶ者のない実力者である。
それというのも、数か月前に最大のライバルであった袁紹を官渡の戦いで打ち破り、中原での優位性を確かなものにしたからだ。
この勢い著しい曹操に対して、江東の支配者となっていた孫家――急死した孫策の代わりに孫家を継いだばかりの孫権が、贈り物として送ってきたのがこの象であった。
曹操は象の巨躯を見て、真っ先に思い当った疑問を口にする。
「誰か、この象の重さが分かる者はいるか?」
この問いかけに対して、周囲の群臣らは伏し目がちになったり、互いに目配せし合ったりして、まごついた空気が流れる。
曹操はそんな臣下たちの体たらくに不快を感じる。
「どうした! 誰も答えられんか!?」
それでも誰も答える者はいない。場に張り詰めた空気が流れた。
曹操は内心舌打ちする。
彼とて、斯様な遠方の生き物の重量を正確に知る者がいるなどとは思っていない。
しかしそれならそれで、象の重みを推量するような答えが出てこないことに不満を覚えたのだ。
臣下たちの様子を見るに、失敗することを恐れる余り積極性に欠けている。曹操の目にはそのように映った。
なので臣下たちを叱咤するため、曹操は今一度口を開こうとする。が、その前に――。
「父上……」
どこか舌足らずな声が、張り詰めた空気の中に響く。
声の主は、童女かと見間違うほど整った容姿をした男児であった。年の頃は五歳くらいに見える。
「倉舒か……如何した?」
曹操は話しかけてきた自身の息子に訝しげな視線をやる。その視線を受け止めて男児は応える。
「きっと、象の重さが分かるだろう方法を思いつきました」
その言に曹操は片眉を持ち上げた。暫しの沈黙の後、『申してみよ』と促す。
……別に曹操は、まだ幼い息子が正答を導き出すことを期待したのではない。
ただ、難問に対し自分なりに知恵を絞り、それを恐れず口にする。その姿勢を良しとし、また群臣たちに見習って欲しいと思ったのだ。
許しを得た男児は嬉しそうにはにかむと、柔らかな声音で語り出す。
「まず、水に浮かべたお船の上に象をのせます。象の重みの分だけ、船は沈みますよね?」
「……そうだな」
その理屈におかしなところはない。曹操は首肯する。
「その時の水面の高さに印を入れて上げます。その後、象を下ろして代わりにおもりを載せていきます。――印の部分に水面がくるまで。その時の、載せたおもりの重さが、象の重さです」
曹操は虚空を見上げる。今の言を頭の中で繰り返す。繰り返す。そうして驚いた。
疑問を差し挟む余地がない。余りに明快な答えであった。
驚いた表情を浮かべた曹操は、次いで呵呵大笑した。
「なんとまあ! 驚くべきことよ! 聞いたか、皆? 倉舒の答えを!」
愉快気に笑う曹操。そんな父の姿を見て、男児はうろたえる。
――何かおかしなことを言ったかしら? ひょっとして自分はとんでもない思い違いをしたのでは? と、心中小首を傾げる。
不安に駆られた男児は泣きそうな表情を浮かべてしまう。
そんな子供らしい様子と、先程の大人顔負けの理屈だった弁。これらのちぐはぐさが、曹操には可笑しく感じられた。
故に、益々大笑するのだった。
齢五歳にして、象の重さを量るという難問に答えて見せた男児。
彼の名は、姓を曹、名を沖、字を倉舒。三国志の英傑の一人、曹操の第八子。
才ある者を愛す曹操が最も愛した息子。また、心優しい気性から臣下たちからも愛された少年。
しかし、将来を嘱望されながらも、僅か十三歳で早世するはずの人物――鄧哀王曹沖。
この物語は、如何なる因果か、曹沖が早世しなかったIFの物語である。