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立ち止まらない

ひとしきり泣いた後、思い切り鼻をかむ瞬間には奇妙な開放感がある。マータは食卓に落ちた涙をふき取り、洗面所で顔を洗って、鏡に映った自分の顔に眉をひそめた。あちこち赤らんでいる。タオルをぬらして、顔全体をごしごしとこすって目立たなくする。ついでに洗濯をしてしまおうと思い立って、リビングの様子を窺った。マロはヘッドホンをつけて座ってたが、マータが合図するとヘッドホンを外して


「何かあった?」


と尋ねた。


「音楽聴いてるところ悪いんだけど、私、洗濯したいの。あなたの洗濯物もあるなら一緒に廻しちゃうけど」


ほんの少し、鼻声だったかもしれない。マータは掌で顔をこすった。


「洗濯か、そうだね、ありがたいけれど、機械任せだし、自分の分くらいは自分でもできると思う。よろしければ、どうぞお先に」


「そう?音楽聞こえなくならない?」


「なるほど、そういう問題だね。じゃあなるべくまとめて洗濯するほうがよさそうだ。どうせ音楽を聴けないなら、私がついでにやってしまおうか」


「それは、ちょっと」


マロは、言いよどんだマータを見やった。


「さすがに、恥ずかしいというか」


と、マータが、言葉をつづけると、マロは一瞬遅れて、


「ああ、これは失礼」


と、寝室に戻って、どこかの店のレジ袋につめた洗濯物を持ってきた。マータが受け取ろうと手を出すと、


「ついでに洗濯機を見たい。なにかコツがあったりする?」


と尋ねる。マータは案内して


「普通と思うけど。ちょっと古いの。洗剤はここにあるし。普段の最短コースはこれ。うちは物干し場がなくて、ここのベランダの窓のところに干すんだけど」


などと説明した。マロはうなずきながら聴いている。


「いつも、自分で洗濯してるの?」


とマータが流れで聞くと、マロは


「いや」


と言って、洗濯機の蓋を開くボタンを押した。


「学生の頃はしていたよ。下宿の共同の洗濯機でね。戦前からありそうなくらい古かったから、設定が悪いとよく途中で止まった」


淡々と話しながら洗濯物を袋から取り出して放り込む。


「これは設定が悪いと止まらなくなるかも。父は最短コースしか押さないようにしているみたい」


「覚えておくよ」


洗濯機の蓋をして、マロは


「じゃあ、後は」


とマータの顔を見た。


「やっとくわ。一時間ぐらいはかかるから、その間我慢してね」


とマータが言うと、マロはぼんやりとうなずいた。


マータは自分の洗濯物を追加すると、最短コースで洗濯機を廻しながら、少し仕事の書類を作った。洗濯機が無事静止すると、洗濯物を干した。自分の分は自分の部屋に。男物はベランダの窓辺に。もう夕方が近いけど、少しずつ乾くだろう。


父と暮らしてきたマータだから、男の下着ぐらいで動揺したりしない。平然と作業を進めたが、マロの服が白いシャツばかりであることは把握した。カジュアルウェアを持っていない仕事人間なのだろうか。白いシャツになにかマニアックなこだわりがあるのなら、丁寧に扱わないと怒るかもしれない。しわに気をつけて干しておこう。


台所に戻って、とりあえずコーヒーを淹れ、メールを再確認する。ミリアムから返信がきていた。四、五日父のところに泊るとマータが知らせたことについて、「もっと早く言ってよ」と文句いいながらうれしそうだ。ケイレブと過ごす気なんだ。マータは胃をぐっと押しつぶされたように感じて、机の上に突っ伏した。


そのまま涙をこらえていると、開けたままの台所の戸口がノックされた。マータはがばっと顔を上げ

、何事もなかったかのように、


「コーヒーでも飲む?」


と、先手をとって問いかける。振り向くと、アンドレ・マロの顔色は、朝よりだいぶんよくなっているように見えた。


「いや、水にしておくよ。冷蔵庫、ごめんよ」


マロは冷蔵庫を開けてミネラルウォーターのボトルを取り出し、


「また買っておいてくれたんだね。助かるよ」


と言って、その場で蓋を開けて、勢いよく数口飲み下した。


「少しましになった?」


「うん、さっきまで寝てた。洗濯機の音は、いいね。眠くなる」


マータは気の利いた返事を思いつかず、はは、と短く笑うだけしか出来なかった。マロも別にそれ以上の言葉は言わず、水を持って台所を出て行った。夕食にはパンを出してみよう。


玉葱を半分は極薄切り、もう半分はスプーンに納まる程度のざく切りに。人参ジャガイモ、カブ、麦と豆。牛肉は重すぎるから、鶏肉を一口大に切って投入。肉食度でいえば、ハムやベーコンの細切れしか入れてなかったお昼までのスープに比べると格段の進歩ではないだろうか。煮込みながら、仕事の続きをして、ミリアムに返事は、しない。既読無視は、今までだってよくあること。きっとおかしくない。


台所の窓が薄暗くなる。ケイレブの仕事は終わった頃だ。ミリアムも月末じゃないからそろそろ上がりで、どこかで待ち合わせだろうか。スーパーで食材を買って、マータのいない部屋に行って、一緒に料理する気かもしれない。ケイレブは料理できないって言ってたけど。ミリアムの料理をあれこれと手伝いながら、いちゃいちゃべたべたするに違いない。マータは自分の妄想に腹が立ってきた。進まない仕事は中断して、スープの味をみた。牛乳を足して、チーズを少しおろしがねで細かくする。食べる直前に加えよう。



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