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救われない

さっきの電話って、あれだ。性的に無理。マータは無意識に鼻をうごめかした。ちょうど嫌な匂いを嗅いでしまった時に反射的にやるように。口に出しては


「どういう話?」


と冷静に尋ねる。アンドレ・マロはスプーンで玉葱を追いかけながら、


「介護サービスの手配に5日間程度みてほしいと」


そこで言葉は途切れた。まあ、それ以上詳しい内容は言えるはずがないかと、マータは自嘲的に考える。


「じゃあ、それまで私がここにいることについて、ちゃんと書面で残してしてほしいんだけど」


「ああ、あなたのメールアドレスを部長に伝えてもらえるかな、契約書を送らせる」


「言っておくけど、時々は出勤するし、夜も外出するかもしれないからね」


マロはうなずいた。


「ここで寝泊りしてくれるなら、あの、それで充分」


急に気まずそうに目を泳がせるマロの表情に、マータは苛立ちを覚えた。


「もう食べない?」


うなずく相手から食器を取り上げて流しに運んだ。洗いながら、背を向けたまま


「自分の仕事する時間ももらうから、その分は報酬下げてよ」


と告げる。


「そういうわけにもいかないな。こちらで無理を言ってお願いしたんだから」


「あのね、お金もらっておきながら、自分の仕事してたら、かえって気を遣って、自分の思うようにできないでしょ。わからない?」


思った以上にきつい口調になったのは、八つ当たりが混じっているせいだ。マロが、困った声で


「それは、思い至らなかった。申し訳ない」


と言ってくれたけれど、気持ちは晴れなかった。マータは振り返って、


「1日100ユーロだから、1時間抜けたら10ずつ減らすでいい?」


と問いつめた。


「あの、夜もあるので、1日240にしないと、計算合わなくなるんじゃないかな」


おとなしく、ではあるがマロが反論した。しかしそれはさすがに貰いすぎな気がする。えっと、150だと一時間いくら?暗算しようとして、流しを背にしたままマータが固まっていると、マロが額をさすりながら


「9時から21時まで120、後の半日は60、合計180ということでどうだろう。ただし夜は基本的にいてほしい」


「う、それでいい。わかった」


マータが右手を出すと、マロが肩の力を抜いたのがわかった。


「助かる」


握手したマロの指は長くて、マータの根元が太い指よりもずっと均整がとれていて、余計に悔しい。マータが唇を結んだままうなずくと、マロは静かに手を離し、台所をでていった。治まらないいらだちを皿洗いにぶつけようにも、今日の食器はボウルとスプーンだけだ。じきに台所は片付いてしまう。



マータは食卓にの上でノートパソコンを立ち上げ、人事部長と連絡をとろうとスマートフォンを開いた。ミリアからのメッセージが、一言だけ"おはよう"と画像が届いていた。悔しいけど、でも、見ないわけにもいかない。震える指で開いてみると、ケイレブは写っていない、パンや卵、ソーセージとトマトの盛りだくさんの朝食だった。マータは息を吐いた。"うまくいったの?"何が、と言いたくなくてそれだけ返信する。ミリアとはいつも短文ばかりやりとりするから、別におかしくはないだろう。


もう一度、人事部長に電話すると、朝よりは落ち着いた調子で


「ご迷惑をおかけしますが、数日間ですので、よろしくお願いいたします」


と挨拶された。はいはい、性的に無理だもんね。さきほどマロと話した条件を伝えて、事務的な詳細を詰め終えると、30分以上経過していた。人事部長ってこんな細かいことで時間潰して大丈夫なのだろうか。それ以上に、役員様のことだから重大なのかもしれない。でも、人事部長も役員なんだっけ?マータにとっては雲の上の話で、イメージが掴めない。電話口では我慢していたため息が、切ったとたんに湧き上がってきた。


電話中にミリアからの返信が来ていたのも、憂鬱だ。ミリアは仕事中のはずだから、トイレ休憩かなにかのときに送ってきたのだろう。マータは傷口の深さを確かめるように短い文を熟読した。赤いハートの絵文字は、うまくいったということだろう。"ケイレブ優しすぎ"とか"仕事休みたかったけど我慢"とか、切ない。"おめでとう"と、無難なメッセージを返すしかない。"都合で、実家に4、5日泊る"と送ってから、昨晩ミリアから急にどこかで泊ってきてと言い出したことについて、彼女から謝罪もお礼もないことに気づいた。ミリアにとって、マータはその程度の気遣いすら、しなくていい相手になってしまったということだ。


「ことごとく、ひどいよなあ」


好きな人を奪われただけじゃなく、これまで親友として付き合ってきた関係まで、台無しにされてしまったような気がする。涙がこみ上げてくるのを感じて、マータは食卓の上で組んだ腕に顔を伏せた。こらえきれない嗚咽に体は震えるが、声をその腕の中だけに封じて、マータは泣いた。


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