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やれない

買い物を抱えて、家の鍵を静かに開くと、水の流れる音がしていた。アンドレ・マロはシャワーを使っているらしい。マータは自分の部屋に戻って、とりあえず買ってきた服に着替えることにした。スーパーマーケットの衣料品売り場で、「とりあえず買ってきた」服だから仕方ないのだが、着替えを終えて鏡を覗いて、脱力した。「セントラルパークアベニュー」と英語で書かれている青紫色のカットソー(ちょっと小さかった)と、ジーンズに偽装したレギンスで、なんというか、全く活気というものが感じられないスタイルになった。スーパーには、カットソーの色違いで黄土色があったけど、そちらを買った方がまだましだったろうか。次に買い物に行くときに買うとして、今日のところは全身青系コーディネート、ということにしておこう。


そもそも、アンドレ・マロの面倒を見る間だけのために買ったのだから、見栄えがしないのは問題ない。それどころか結構なことだ。あまり魅惑的になって、妙な気を起こされたりしたら困る。マータは鏡に向かって歯を剥きだして威嚇してみた。不細工。でもこれでぐらいがマータらしい。少しでもお洒落に、クールにと頑張るのはケイレブが来るときだけで、普段は、やる気が全然でないのだ。素材がよくないのだから、相当努力しないといけないのはわかっている。その努力を、意中の異性以外に向けるのは損だ、と切り捨ててきた結果が、このざまではある。


マータは水に濡れた犬のように頭をぶるぶるふるわせてケイレブのことを振り払うと、台所へ向かった。そろそろ、昼食でも作ろう。野菜の皮を剥いていると、シャワーの音は止まって、やがて電気髭剃りらしい音がかすかに伝わってくる。父がいるときと変わらないなあ、とぼんやりとした懐かしさを覚えた。材料をそろえて、手を止め、アンドレ・マロはお昼はどれぐらい食べられるだろうか?と見積もる。パスタ入りのスープはマグに軽く一杯食べた。でも、パンを食べるのはまだ無理かもしれない。本人に確認しようと、髭剃りの音が止まるのを見計らって、台所を出た。マロのいる部屋の前まで来て、室内から聞こえる話声に気づいた。電話中らしい。ノックしようと上げかけた手が停止する。マロが声を荒げている。


…だから、彼女のことは心配しなくても大丈夫だ

…いくら一つ屋根の下と言ったって

…私には、彼女を性的にどうこうというのは、無理だから


えっと、これは、多分これ以上聞くべきではない。マータは物音をできるだけ立てないように急いで台所に引き下がった。どうしよう、さっきからここにいたように見せかけるには。意味もなく水道の水を流したり、冷蔵庫を開け閉めしたりして、物音を立てる。そのまま、勢いに乗って鍋でキャベツと玉葱とを炒め、小さくちぎったパンと、少しのハムも加えてから、水とスープストックで煮込始める。


「性的に無理な一つ屋根の下の彼女」ってマータのことだろう。それくらいはわかる。戸棚の引き出しをバタンバタン音を立てて開け閉めし、ローリエを探す。父はローリエを買ったりしないだろうが、マータがいたときに買ったのが、どこかに、ああ、小さい引き出しの底にあった。賞味期限は、当然過ぎているが、乾燥しているのだから、大丈夫に違いない。薬草だし。食べても賞味期限なんてわからないし。鍋にローリエを加えて、灰汁を取りながら、マータは唇をへの字に曲げた。


確かにマータは恋人ができたことがないし、男性にモテた経験もないが、「性的に無理」とまでのあからさまな酷評を受けたのは、流石に初めてだ。膨れたくもなる。でも冷静に考えてみよう。ここまで言われるぐらいなら、マータはむしろ安心していいのではないか。父の面倒を見るのと同じように、粛々とアンドレ・マロの世話をして、堂々とお金をいただくのだ。考えながら味見をした。少し塩を足す。多少腹が立つのは秘密にして、数日間落ち着いて働けばそれで終わる話だ。


もし、マロがマータのことを不愉快に思っているならば、そもそもここに居てほしいと頼むはずがない。マータの人間性が否定されたわけではないので、マータが動揺することなんてないのだ。うん。


スープは大体できたが、マロの電話は終わったのだろうか。マータは台所から顔を出して、廊下に向かって

「マロさーん、お昼食べますー?」

と呼びかけてみた。応答の声がして、寝室からマロが出てきた。新しいドレスシャツに着替えている。何となく、その表情を見たくなくて、マータはすぐに顔を引っ込めた。スープに溶き卵を入れて、マロが着席する間に、小さいボウルによそってテーブルに置いた。

「パンのスープ」

と告げる。

「ありがとう、いただきます」

しばらく黙ってスープをすする。マータは自分にお替わりをよそうが、マロはやはり食欲がないらしく、一杯をゆっくりと食べている。

「足ります?」

「ああ、これで十分だ」

ボウルに少し残ったキャベツをスプーンの先で追いながら、マロは答えた。そして言葉を続ける。

「さっき会社の人事部長から電話があった」


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