替われない
マータは、この年上の男がうちしおれているのを見ているうちに、少し哀れに思えてきた。それにマージェレに帰ったら、ミリアとケイレブに顔をあわせなくてはならない。恐らく、交際したての幸せいっぱい状態の二人にだ。それは少なからず気が重い。考えてみることにしようか。1日100ユーロだし。
「とにかく、朝ご飯を食べましょうよ。物事を決断するときに空腹は駄目。判断力が鈍るの」
マータは、前向きな意見を出してみる。
「それはいいけれど、でも、何も食べるものがないんじゃないかな」
「まだオニオンスープが残っているわよ。それでいい?」
「ああ、その、えっと、手伝うことがあるだろうか」
腰を浮かせるマロに向かって指を振って座らせる。
「調子悪いんだから座ってて」
マータは台所の貯蔵室の隅を掻きまわした。父は賞味期限にうるさいけど、パスタなら、残っているのではないだろうか。以前マータがかわいらしさに惹かれて買って、結局使わなかったアルファベットのパスタの袋がでてきた。ふふん、炭水化物確保!それにトマトの瓶詰がある。オニオンスープの残りにトマトを少し加えて煮ながら、パスタもさっと塩ゆでし、スープに追加する。一晩たった玉葱が柔らかくなっておいしい。
「よかったら、こちらにどうぞ」
パスタ入りのスープをよそって、台所のテーブルに置くと、アンドレ・マロに声をかけた。マロが席に着くと、
「この水もらっていい?」
と断ってから、冷蔵庫から出したボトルのミネラルウォーターを二人分のグラスにそそぐ。
「これ、トマトか、おいしいね」
「ありがとう、もし食べられるようなら、お替わりしてね」
マロはうなずいたが、やはり食欲がないようで、すこしづつしか、食がすすまない。
「ねえ、会社は9時に始まるの?」
「ああ」
「では人事の方に電話をするわよ?あなたの話の裏を取りたいの」
「それは、嬉しい。本当にありがとう」
「まだここにいるって決めたわけじゃないし」
マータが釘をさしたけれど
「前向きに検討してもらえただけでも、感謝したいね」
穏やかにいうので、却って、マータの方が気が咎めてくる。
少な目によそわれたスープを、マロはやっぱり残した。そのことには触れずに、
「シャワーを使う?」
と尋ねると、後でいいという。9時に父とマロの会社へ電話をするまでにさっぱりしておきたかったので、マータがシャワーを使わせてもらうことにした。しっかり服を着て、髪を拭きながら出てくるとマロは居間の定位置で、座ったまま椅子の背もたれに後頭部をあずけて、居眠りをしていた。少し口をひらいて、軽くいびきをかいている。こんな寝方は首が苦しくないのだろうか。でも折角寝ているところを起こすのはかわいそうだ。マータはしばらく様子を窺っていたが、バランスを崩す様子もなかったので、足音をしのばせて自分の部屋に戻った。
スマートフォンをチェックしても、予想通りミリアからのメッセージはない。お幸せな状況なのだろう、と切なく考える。ついでにパソコンも立ち上げて、父の会社のホームページから電話番号を確認する。9時を過ぎたので、電話して人事部に回してもらう。
「御社の副社長のアンドレ・マロ氏のことでお電話いたしております」
と告げると、人事部長におつなぎしますと言われ、中年の男性が電話に出た。
「私はマータ・ヨネスコです。あの、父がお世話になっております。今、父の家にマロ氏がおられまして」
「ああ、ヨネスコさんのお嬢さんですか、ヨネスコさんと連絡はつきましたか」
昨夜父をつかまえて、マータに電話するように伝えた人らしい。
「はい、ありがとうございます。あの、それで、ちょっとお尋ねしたいのですが、マロ氏のことです。あの、体調がすぐれないから、私にここに滞在してほしいと言われているんですけど、どういうご事情なのかと」
彼は信用できる人ですか、とはさすがに質問しにくい。電話の相手は、心配そうに
「彼の容態は?もしかして倒れたのでしょうか?救急車の手配が必要ですか?」
「いえ、あの、そこまでは。ただ、食欲がなくて、夜眠れないようです」
「寝込んでいるわけではない?」
「このまま放っておいたら、そうなると思います」
相手は安堵したように息を吐いてから、話をつづけた。
「すみません、副社長本人が誰にも会いたくないというので、独りにしておいたのですが、少々悪化しているようですね。訪問介護サービスかなにかを手配いたします。」
訪問介護サービスというのは、マータは詳しくないけれど、寝たきりの重病人とか高齢者を対象にするものではないだろうか。怖い夢をみたときに起こしてほしいというマロの気持ちにそぐうものではなさそうだ。
「あの、ご家族とかお友達とか、会社の方に来ていただくというのは?」
「そうですね、今はちょっと、難しい時期でして」
咳払い。
「まったくつながりのない相手の方が…」
マロ本人と同じようなことを言う。
「彼は病気なんですか。休職中と言っていましたけど」
マータは話の切り口を変えた。
「プライベートのことまでお話することは出来ませんが、心労が重なりましてしばらく休んでおります。ヨネスクさんが長期出張の間、そちらの社宅でで静養させていただく予定でした」
「病気というほどではないんですね」
ここは社宅だったのか、と思いながら、相槌をうった。
「診断はついておりませんが、精神的に追い込まれている状態です」