懸念する
キリヨフは言葉を切ると、机に肘をついていた手をあごから離して、眠そうに目をこすってから、また顎を支える位置に戻した。
「夢が怖くて人に起こさせるくらい、気兼ねなくおやんなさい。旦那さんには余裕があるんだし、自分にはいい稼ぎだ。生憎と、この歳では、耳聡いってわけにいかないだけだね」
アンドレ・マロは膝に挟んだ手に視線を落とした。しばらく考えてから
「寝室の扉を開けて寝ますよ。だから廊下で寝るのはなしにしてください。あなたまで眠れないんじゃあ、かえって気を遣う」
と告げた。キリヨフは肩をすくめ、あくびをした。
扉を開けたまま床に就くというのは、きっと心もとなくて、余計に寝付けないだろうとアンドレは予想していたが、実行に移してみると、どうということもなかった。扉を開けている分、近隣の物音が耳につくぐらいだ。アパルトマンのエレベーターが何階で止まったのか、推量を繰り返すうちに、横たわったアンドレの口の中に苔のような物が生い茂って、息苦しくなったところで、おそらくいつもよりは悪夢が盛り上がる手前で、キリヨフは声をかけてくれた。
「旦那さん、大丈夫ですかね」
アンドレは舌で自分の歯の存在を確かめようとして咳き込み、思い出してミネラルウォーターのボトルに手を伸ばした。キリヨフは囁き声で尋ねた。
「起こしてよかったかね」
「ああ、助かった」
アンドレも彼につられて、つい囁き返す。
「そいじゃ、また」
キリヨフは長居しない。彼が立ち去ると、アンドレはもう一度水を飲んで、枕に頭をあずけた。キリヨフの起こし方は手早くて、きっと病院仕込みなのだろう、その点、ヨネスク氏の娘は手荒だった、そんなことを考えた。
ふと、顎に水がついていることに気付いて、アンドレは指で拭った。髭のざらつきが不快で、目を閉じる。口元から滑らかに喉まで流れ落ちたあの水。滑らかに。|水銀《quick-silver》。転がる銀の粒。子供の頃、ガラスの体温計を割った。コップに湯を入れて温度を測ろうとしただけだ。母に叱られ、それから長い間、家には体温計がなかった。
『今のは割れない』と、アンドレは新しい体温計を説明しようとする。しかし、『デジタル式』という言葉が思い出せない、いい大人だというのに。アンドレは必死になって、別の言葉で言い換えようと、あれこれ話し続けるのだが、同時に『体温計関連で、言ってはいけない言葉がある』ということを知っていて、うっかりその言葉を出してしまうのではないかと、不安で、息苦しく、汗がにじみ出た状態で、びくりとして目覚めた。またキリヨフがベッドの横で呼びかけてくれていた。
こうして細切れの睡眠の日が続いた。休職中のアンドレはともかく、キリヨフの昼間の仕事に差しさわりがでるのではないか、という懸念がアンドレを苛み始めた。その週の終わりにメンタルクリニックの診察日がきたので、アンドレは医師に向かい合うなり
「夢が怖くて」
と言いかけて、あまりにも子供っぽい口調だと思いなおして、
「毎晩、悪夢ばかりです」
と告げた。医師にうながされ、アンドレは続けた。
「人を頼んで起こしてもらっているんですが、それも申し訳なくて。こうして、仕事もせずに、人の世話になっていると、自分がどんどん駄目になるような気がしてしまいます」
「まあ、しっかり眠れるようにならなくては、仕事に戻っても仕方ないでしょうな」
医師はカルテに書き込みながら、こともなげに言うと、
「他には何かありました?」
と尋ねた。アンドレは食事をとれるようになったこと、自炊を試みていること、ひどく疲れを感じることなどを訥々と述べた。医師はうなずきながらそれを聴き、カルテの前のほうを見返すと、
「眠くならないというわけではない?」
と確認した。そして、
「それなら睡眠薬よりも、少し不安を和らげるような薬を出しましょう」
と勧める。アンドレはためらった。
「それは、ハイになるとか、こう、言動に影響はないんですか」
医師は、少し笑って
「そこまで極端な薬は使えません。まあ、心配されるようなものではないですよ」
と、処方箋を書きながら軽い調子で受け流し、
「今まで無理されていただけで、ずっと疲れていたんでしょう。しばらくは<疲れることはしない>で結構」
と続けた。
「しかし、だからといって人と話さないわけにも…」
アンドレは医師に反論しようとした。医師は首をかしげてアンドレを見返した。
「問題は<話すこと>じゃないんでしょうな。話しても平気な時もあるんじゃないですか」
アンドレはが特に疲れを感じたのは、不動産屋の女性店員と話したときだ。それから、普段ならなんとも思わない家政婦との会話。
「そうですね、普通の時もありました」
「じゃあ、負担だと感じたら、会話を止めても構わないんだと思いましょう」
「急にですか?」
「ええ、この際、礼儀は保留です」
あいかわらず、医師の助言はアンドレにとって頼りない物だった。