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抜け出す

 ヨネスク氏の娘が立ち去った後、アンドレ・マロはヨネスク氏のアパートメントで、また一人きりになった。人事部長が手配してくれた介護サービスの人が来るまで、なにか準備しておくことはないだろうか。アンドレは周囲を見回して、とりあえず掃除機をかけることにした。自宅では家政婦まかせで、掃除に慣れていないせいもあるが、年季の入った掃除機は、なかなか吸い込みが悪く、手がかかった。


 ここに来た当初使っていた、小さいほうの寝室は、ヨネスク氏の娘が数日過ごしていたはずなのに、なんの形跡もなかった。残されているのは大量生産の家具だけだ。簡単に掃除機をかけ終えて、介護サービスの人が泊まれるようにベッドを作る。


 お昼には買っておいてもらったパンや冷凍食品がある。簡単に済ませて食器を片付けると、あとは自分の用事をするしかなくなった。


 アンドレはここに来る前に、人事部長の言をいれて、メンタルクリニックに相談をした。そこの医者は薬を出すわけでもなく、結構な料金を取ったうえで、与えてくれたのは


「落ち着くまで仕事を休みなさい」


というあいまいな指示だけだった。


「どうなったら、落ち着いたとわかるんですか」


と尋ねると、


「睡眠欲、食欲、性欲ね、そういう生理的欲求を普通に感じられることが目安ですね。眠れていますか?」


その時点では、アンドレは眠れているつもりだった。食事も食べていた。ただし性欲については


「離婚以来、さっぱりですね」


「なるほど。女性に興味がなくなった?」


「性的なことが、とても不愉快です。いろいろ思い出してしまう」


「それは当然の反応ですよ。ただ、あまり長く続くようなら健全とはいえません。しかし薬でどうこうする段階ではないと、私は診ています」


医者はアンドレを見つめた。


「それ以外でなにか身体的な症状があれば、また教えてください。今日のところはこれで」


さらにあれこれ問いかける気力もなく、アンドレはクリニックを後にしたのだった。


 ここにきて、最初の食事を吐いた時には、これが医者の言う身体的症状なのか確信が持てず、ぼんやりと様子見で数日過ごしててしまった。たまたまヨネスク氏の娘が立ち寄ってくれたおかげで、どうやら自分の判断力が低下しているらしいと気付いたアンドレは、クリニックに電話して、


「身体症状が出た、ただし、その後は食事を取れている」


と説明した。ところが、


「では次回の予約時に先生とご相談ください」


と軽くいなさされてしまった。実に頼りがいがない。


 それからは、ヨネスク氏の娘が上司を殴った件のフォローをしたりで、何もしないうちにどんどん時間が過ぎて、気が付くと一週間だ。そろそろ家のことをどうにかしなくてはいけない。ここにいられるのは精々一か月だ。アンドレは台所のテーブルの木目に向かって、考えを巡らせた。


 とりあえず貴重品、といっても銀行や証券関係の書類程度のものだが、それは早急に引き上げたいと思う。他の私物には、二度と触れたくない。まとめて処分してくれる業者がないか、調べようか。あれは結婚を控えて購入した新築のマンションだった。購入した開発業者の担当営業に連絡するか。連絡先は、今のスマートフォンには残していない。そのへんの資料はまとめて寝室の整理ダンスに入っているはずだ。しかし絶対にあの寝室に足を踏み入れるわけにはいかない。


 アンドレはため息をついて、テーブルに頬杖をついた。ぼんやりとあたりを眺める。ここの冷蔵庫はありふれた灰青色だ。アンドレの家のは黒くて、縦にも横にも大きくて威圧的である。そのほかにもアンドレの家の台所ににはジューサーだの、パスタマシーンだの、使い道のわからない道具がいろいろあるし、コーヒーメーカーはエスプレッソ用の難しい奴で、今の家政婦は怖がって使おうとしない。離婚した相手が内装業者に選ばせた、デザイン優先の高級品だ。本人が使いこなすところは見た記憶がない。体のいい飾り物だったな、と思う。


 それでも部屋と統一感があるとかの事情で、什器も処分せずにそのまま売る方が価値があるのかもしれない。アンドレには判断がつかない。業者に見積もりさせるべきだろう。ああ、業者はどこに頼むべきなのかと、考えていたら、あの寝室に考えが至ってしまったのだったな。


 アンドレの思考はちょっと進んでは脱線するおもちゃの汽車のようだ。その都度慎重にレールに載せなおして押し出しても、またぐるっと回って同じところに帰ってくるのだ。


 アンドレは頭を振って立ち上がった。昨日ヨネスク氏の娘が拵えてくれた牛肉の煮物を、鍋にあけると、適当に野菜を切って、追加した。ガスコンロの火を弱くして加熱を続ける。台所には料理の匂いと温もりが漂う。廊下や玄関先までうまそうな気配に包まれるのは、狭い家ならではの居心地の良さかもしれない。


「これくらいの広さで探すか」


アンドレは口に出して言ってみた。家を探すなら、自分で動かなくとも不動産屋に頼めばいい。それは人事部長が紹介してくれるようなことを言っていた。簡単に依頼メールを書いて、ザルチ氏宛てに発信した。それがアンドレがこの状況から抜け出すために打った最初の一手だった。


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