思いがけない
マータは服を着て、ボタンを掛け違えたりしていないか何度も確認したあと、意を決して部屋を出た。何はともあれ、コーヒー分の補給だ。台所でコーヒーを入れながらも、服の下の下着が連想されるような隙がないか気になってしかたない。クリームもミルクもなくて、砂糖だけを入れたコーヒーをマグで飲む。あの人も飲むだろうか、飲ませない方がよいか、でも礼儀として尋ねるのが筋か、現実逃避的な疑問で意識をそらす。
「ねえ、コーヒー飲めそう?」
居間の入り口からマータが尋ねると、アンドレ・マロは顔を上げた。昨日来た時と同じだ。今日は昨日より目が腫れぼったくて、服が皺くちゃで眠そうだけど。あ、髭も生えているけど。
「やめておいた方がよさそうだ」
そうよねー、胃に悪そうだもんねー、と相槌を打ってマータは話の接ぎ穂を見失った。昨夜は下着姿でベッドにのしかかったりしてごめんなさいって言えばいいの?でも彼が覚えているかどうかわからないし、忘れていたら藪蛇だし、どうしよう。少なくとも魘されていたのを起こしてあげたことは事実っぽいから言及したほうが自然かな?マータが睡眠不足の頭で考えていると、マロのほうから、
「昨夜、私は寝ながら大声を出したのかな?あなたの眠りを妨げてしまって、申し訳なかった」
と言い出した。
「魘されていたみたいだから、起こしに行ったの。余計なお世話だったら、ごめんなさい」
「いや、助かったよ」
「私ね、父がよく魘されていたの。だから、いつもの調子で、あなたのところにも行ってしまったんだけど、やりすぎだったかも」
あいまいな表現でごまかしつつ謝罪の意を込めてみる。ちら、とマロがこちらに視線を走らせた。マータはたじろいだ。
「ああ、それで」
何に納得したのか、マロは言葉を切ると、片手に顔をうずめてしばらく黙っていたが、そのまま
「ちょっと座って話を聞いてもらってもいいかな」
と言い出した。
「いいけど」
マータは戸口のそばの椅子に腰をおろした。マロは顔を上げて、遠慮がちに問いかけた。
「あなたは、あー、学生さん、じゃないよね」
「そこまで若くないわ」
「今日は、この後お仕事?」
「私は毎日出勤しなくてもいいの。ネット経由でできるから」
「他の街に住んでいるといっていたが、そちらには、ご主人とか、恋人とかが待っているのかな?」
「いないわ。何これ、私に交際でも申し込むつもり?」
「だったら素敵だけどね」
マロは片頬だけで笑った。
「立ち入ったことを尋ねてすまない。あの、本当に唐突なんだが」
「はあ」
「もし、あなたの都合が悪くなければ、しばらく滞在して、くれたらと、その、急に」
「はあ?」
「ちょっと、まあ、聞いて」
マロは手で鎮めるような身振りをしながら
「この二日、水だけ飲んでここに、閉じこもっていたんだが、我ながらまともじゃなかった。昨夜言われた通り、調子が悪くなるだけなのに、それくらいのことも考えられなくなって…あなたが来なければ、独りで倒れて、そのまま誰にも発見されないという事態になっていたかもしれない」
「それは迷惑ね」
「体調がましになるまで、誰かにいてもらうべきだろう?」
「うわ、自己中心的な言い方」
マータの挑発するような物言いに、怒りもせず、マロは話を続ける。よっぽど必死なのだろうか。
「もし、あなたが都合が悪いなら、あきらめるけれど、構わないようなら、数日でもいいから、いてもらえないだろうか、も、もちろん謝礼はさせてもらう。一日100、いや200でもいい」
あら、ちょっといい話。マータにとって一日100ユーロの収入は大きい。心が動いた。でも、知らない男と一緒に過ごすわけで、ちゃんと警戒心を持たなくては。
「どうして?どうして私に頼むの?家族とか友達とか、普通はそっちに頼るでしょう」
マロは唇を結んだ。痛いところを突かれた、という顔だ。
「ちょっと、事情があって、あまり心配をかけたくないんだ。知らない相手の方が気が楽というか」
「ふーん」
マータは腕組みして首をかしげた。
「あなたの口から聞いた話だけでは、なんとも言えないなあ、あなたがうまいこと言って性犯罪を計画していないって保証はないもんね」
「そんな体力…、いや、その、私の人格についてなら、ヨネスクさんでも、会社の人事部にでも確認してくれ。本当にやましい考えはないし、そうだ、万一あなたに失礼な振る舞いがあったら、気が済むまで補償する、一筆書書こう、紙をもらえるか」
「ずいぶんお金に余裕があるみたいね。父と同じ会社の人とは思えないくらい」
「うーん、私はヨネスクさんより前からいるし、その、有体に言えば、役員なんだ」
「え?専務とか社長とか?」
「今は休職中だげど、副社長」
「冗談?じゃない?へー、役員なの」
世の中には若くして起業したり、親の後を継いだりした経営者がいるという知識はマータにもあるけれど、なんとなく社長とか役員というと老人のイメージがあったので、目の前の30歳そこそこと思われる男が会社の役員というのは、なんとなく腑に落ちない。それに、社会的地位があるからといって無条件に信用していいわけでもない。お金に物をいわせて悪事を揉み消すという可能性だってあるわけだし。
マータが黙っていると、マロは疲れたようにため息をついた。
「すまない。勝手な望みだ。昨夜、恐い夢を見たとき、あなたに起こしてもらえて、助かったから、あなたがいてくれたら、眠れるような気がして」